読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

愛国について語るのはもうやめませんか

「教育関連三法が今日参院を通過する予定だそうである。

安倍首相は昨日の参院文教科学委員会の総括質疑でこう答えた。

「地域を愛する心、国を愛する心を子どもたちに教えて行かなければ、日本はいつか滅びてしまうのではないか。今こそ教育の再生が必須だ。」

 

 

 

私は子どもが強度や国家に対して愛着を持つことは国民国家にとって死活的に重要であるということについて首相に異存はない。

しかし、「愛国心」というのはできるだけ公的な場面で口にすべきことではない言葉のように思う。

法律文言に記すというようなことはもっともしてはならぬことである。

 

 

それは左派の書士がいうように、愛国教育が軍国主義の再来を呼び寄せるからではない。

愛国心教育は構造的に人々の愛国心を毀損するからである。

私は愛国者であり、たぶん安倍首相と同じくらいに(あるいはそれ以上に)この国の未来とこの国の人々について憂慮している。

 

 

日本人はもっと日本の国土を愛し、日本のシステムを愛し、日本人同士ももっと愛し合わねばならない。

私はそう思っている。

 

 

しかし、もしこの願いを少しでも現実的なものにしようと思ったら、「愛国心」という言葉の使用は出来るだけ回避した方がよろしいであろう。

私はそう思う。(略)

 

「え?日本人なの。ほんと?わぉ。一杯おごるぜ」

というのがわたくし的な愛国心のもっともシンプルな発現形態である。

よく考えると理不尽なふるまいである。

どうして、地理上、法制上の擬制であるところの「区切り」の内側にたまたま居合わせた人間同士はそうでない人間よりも優先的に愛し合わねばならないのか。

私にもよくわからない。

 

 

けれども、私はこれを「愛国心の発露」であるというふうには思っていない。

愛国心じゃなければ何なんだと言われても困る。「なんか、よくわかんないけど、あるじゃん、そういうのって……(もごもご)」と言葉尻を濁らすことにしている。

というのは、もし「同国人を優先的に見びいきする態度」のことを「愛国心」というふうに言ってしまうと、そうではない愛国心のありようとフリクションが起きるからである。

 

 

 

というのは、ほとんどの「愛国者」の方々の発言の大部分は「同国人に対するいわれなき身びいき」ではなく、「同国人でありながら、彼または彼女と思想信教イデオロギーを共有しない人間に対する罵倒」によって構成されているからである。

 

 

さきの安倍首相のご発言にしても、文教科学委員会の野党席からは「何いってんだバカヤロー」というような口汚いヤジが飛んだであろうし、それをハッタとにらみ返した首相も、機会が許せば彼らを火刑台に送る許可状にサインしたいものだと思っていたことであろう。

 

 

いや、隠さなくてもよろしい。

そういうものなのだ。

人は「愛国心」という言葉を口にした瞬間に、自分と「愛国」の定義を異にする同国人に対する激しい憎しみにとらえられる。

私はそのことの危険性についてなぜ人々がこれほど無警戒なのか、そのことを怪しみ、恐れるのである。

歴史が教えるように、愛国心がもっとも高揚する時期は「非国民」に対する不寛容が絶頂に達する時期と重なる。

 

 

 

それは愛国イデオロギーが「私たちの国はその本質的卓越性において世界に冠絶している」という(無根拠な)思い込みから出発するからである。

ところが、ほとんどの場合、私たちの国は「世界に冠絶」どころか、隣国に侮られ、強国に頤使され、同盟国に裏切られ、ぜんぜんぱっとしない。

 

 

「本態的卓越性」という仮説と「ぱっとしない現状」という反証事例のあいだを架橋するために、愛国者はただ一つのソリューションしか持たない。

それは「国民の一部(あるいは多く、あるいはほとんど全部)が、祖国の卓越性を理解し、愛するという国民の義務を怠っているからである」という解釈を当てはめることである。

 

 

そこから彼らが導き出す結論はたいへんシンプルである。

それは「強制的手段を用いても、全国民に祖国の卓越性を理解させ、国を愛する行為を行わせる。それに同意しないものには罰を加え、非国民として排除する」という政治的解決である。

 

 

その結果、「愛国」の度合いが進むにつれて、愛国者は同国人に対する憎しみを亢進させ、やがてその発言のほとんどが同国人に対する罵倒で構成されるようになり、その政治的情熱のほとんどすべてを、同国人を処罰し、排除することに傾注するようになる。

 

 

歴史が教えてくれるのは、「愛国者が増えすぎると国が滅びる」という逆説である。

「ドイツは世界に冠絶する国家」であるという自己幻想と「あまりぱっとしない現状」のあいだをどう架橋すべきか困ったナチスは「ドイツが「真にドイツ的」たりえないのは非ドイツ的ユダヤ人が国民の中に紛れ込んでいるせいである」という解を得た。(略)

 

 

 

さらに戦況が悪化して、ベルリン陥落直前になったときに、困り果てたドイツ人の中にはこのアポリアをすべて説明できる最終的解決を思いついた人たちがいた。

それは「ヒトラー自身がドイツを滅ぼすためにひそかに送り込まれたユダヤ人の手先だった」という解釈である。

これならすべてが説明できる。

 

 

 

愚かしいと笑う人がいるかもしれないが、愛国心というのは本質的にこういうグロテスクな自己破壊といつだって背中合わせなのである。

あなたの身近にいる「自称愛国者」の相貌を思い出して欲しい。(略)

 

 

私はそのような性向を持つ人々がいずれ国民的統合を果たし、国民全体にひろびろとゆきわたるような暖かい共生感をもたらすであろうという予見には与しない。

憎悪から出発する愛などというものは存在しないからである。(略)

 

 

自分に同意しない同国人を無限に排除することを許す社会理論に「愛国」という形容詞はなじまない。(略)

 

 

そういうお前は愛国者なのか、と訊かれるかも知れないから、もう一度お答えしておく。

そういう話を人前でするのは止めましょう。

現に、愛国心をテーマに書き始めたら、私もまた「愛国心」のありようを私とは異にする同国人たちに対する罵倒の言葉をつい書き並べているではないか。

 

 

愛国心についてぺらぺら語ることは結果的に同国人を愛する動機を損なう。

真の愛国者は決して「愛国心」などと言う言葉を口にしない。

愛国の至情は言葉ではなくて、態度で示す(祖国のシステムに対するえこひいき的評価と同国人に対するいわれなき身びいきを通じて)、ということでいかがでしょうか。

                (二〇〇七・六・二〇)」

 

〇 私から見ると、「愛国心について語るのはやめませんか」と語られる必要はあったと思います。これが、語られずにいると「罵倒のし合い」にはならないかもしれないけれど、グロテスクな愛国心の弊害を知らずにいる人が多く存在してしまいます。

 

 

 

 

変革が好きな人たち

関西電力の「Insight」の取材がある。お題は「変革」。

オバマさんもChangeを掲げて、ヒラリーさんと激しいバトルを演じているので、時宜にかなったご選題である。

しかし。

私は実は「変革には反対」なのである。

 

 

 

とりあえず、現代日本で「根底的な変革を」という言い方をしているひとに対しては不信感をぬぐえないのである。

「根底的な変革」をすることが喫緊の課題であるためには、制度が「根底迄腐っている」ということが前提にある。(略)

 

 

システムのどの箇所が、どの程度の損害を蒙っており、それは今後どのようなかたちで他に波及するおそれがあり、とりあえずどのような補修を必要としているのか。

これはきわめてテクニカルで計量的な仕事である。悲壮な表情で、悲憤慷慨しつつやる仕事ではない。(略)

 

 

例えば、私たちの国のさきの総理大臣は「戦後レジームからの脱却」ということを優先的な政治課題に掲げた。

私はこの課題を聴いて「変なの」と思った。

 

 

というのはこの人は他ならぬその「戦後レジーム」の中で政治的キャリアを積み上げて、晴れて最大政党の総裁になり、総理大臣になった人だからである。彼を国政のトップに押し上げた「レジーム」がもしきわめて不調であり、早急に棄却すべきものであるのだとしたら、それは論理的には「このレジームの中で選ばれた総理大臣はなるべきではない人が間違って選ばれた可能性が高い」ということを意味するからである(実際にそうだったんだけど)。(略)

 

 

もし彼が自分はそのポストに適任であるという自己評価を下していたのであるなら(たぶん主観的にはそうだったと思うのだが)その場合には当然「私を総理大臣に選んだという事実から推して、日本社会のシステムはとりあえず人材登用に関してはきわめて適切に機能している」と宣言すべきだった。

 

 

しかし、彼はその反対のことを言った。

美しい国へ」というのは、「私を総理大臣にするような国は「醜い国」であるから、これを美しい国に作り替えねばならない」ということを意味している。

 

 

かつてグルーチョ・マルクスは「私を入会させるようなクラブに私は入会したくない」と言ったが、安倍晋三の言葉にはそのような諧謔性はない。

彼には自分がナンセンスなことを言っているという自覚がなかったからである。(略)

 

 

どこが機能していてどこが機能していないかというのはかなりの程度までは定量的な問題であり、これについては意見の違う者同士のあいだでもネゴシエーションが成立する。いずれにせよ「あまりちゃんと機能していない部分」を点検して、必要な補修をしましょう、というふうに話は進むに決まっているからである。

 

 

けれども、そのようなピースミール工学的な言葉づかいで社会システムを語る習慣を私たちはもう失って久しい。

人々はややもすると「根底的変革」を求め、「小手先の手直し」では「もうどうにもならないところまで来ている」という重々しい宣言を軽々しく口にする。

 

 

 

使えるものは使い延ばし、消耗部品に交換程度で直せるところをアッセンブリーごと新品に変えるのは控えるというのが常識的なふるまいだろうと思うのだが、そういう言葉遣いによる提案はまるで不評である。まずメディアでは相手にされない。

 

 

しかし、「小手先の手直し」で補修できるところを「根底的変革」することはコスト・パフォーマンス的に無意味である死、「順調に機能しているところ」についてはそもそも変革さえ必要ではない。だとしたら、「どこがどのくらい壊れているのか?」ということが喫緊の問いになるはずである。

 

 

現に、「体制の根底的改革」を呼号するみなさんだって、自分の家の自動車が故障した時に、修理工場で、ろくに故障個所を見もしないで「あ、大丈夫ですよ。ぜんぜん平気です」と言われても「これはもう廃車だけ。新車買いなさいよ」と言われても、いずれにしてもむっとするだろう。どこがどう悪くて、どこの部品を換えればどうなるのか、ちゃんと見てくれと当然の主張をなさるであろう。(略)

 

 

当事者意識があったら、そうする。

そうしないのは当事者意識がないからである。

年金制度にしてもたしか少し前に当時の厚老相は「一〇〇年安心な制度です」と広言した。年金制度のボロが出た時に、当時の総理大臣は「1年ですべてのデータを精査し、最後の1円まで払います」と豪語した。

言っている当人はそれが真実ではないことを知っていて、そう言っていたのである。(略)

 

 

 

制度にガタが来ているときに「制度は一〇〇%健全である」と誇大な物言いをし、制度がいかれてくると「全部リセットします」とまた誇大な物言いをする。

どうしてそのつど「そこそこ機能しているけれど、そこそこ機能していません」という正直な申告をしないのか。

 

 

船が座礁したときにまっさきにするのは被害評価である。

どこに穴が空いて、どれくらい浸水していて、あと何時間もつのか。

そういうときに「この船はまるっと無事です」などと噓を言ってもしかたがない。そんなこと言っているうちにみんな溺死してしまう。

 

 

「この船はもうダメですので、これは廃棄して、新しい船に乗り換えましょう」などと言ってもしかたがない。電話したら新しい船を配達してくれるというような状況じゃないんだから。

 

 

今ある機能不全の船をなんとか補修して、もう少しだけでも航行してもらうしかない。

船の場合も社会システムの場合も同じだろうと私は思う。

けれども、そういうアプローチで社会システムの不調を語る人はきわめて少ない。

誰もが「根底的な変革を」と呼号する。

でも、何が壊れているのか、何がまだ使えるのかを点検しないで、いったいどういう変革と再生のグランドデザインを描くのか?

 

「なんとかしろ」と怒鳴っていると、「誰か」が私たちの代わりに「世の中をよくするプログラム」をさらさらと書いてくれると思っているのだろうか?

そんな「誰か」はどこにもいない。

社会成員の全員が、自分でコントロールし、自分でデザインできる範囲の社会システムの断片を持ち寄って、それをとりあえず「ちゃんと機能している」状態に保持すること。

 

 

私たちが社会をよくするためにできるのは「それだけ」である。

「社会を一気によくしようとする」試みは必ず失敗する。

それは歴史が教えている。

 

 

「社会を一気によくする」ためにはグランドデザインを考えて、それを中枢的に統御する少数(「いいから黙ってオレの言う通りにしろ」)と、何も考えないで上意下達組織の中で「へいへい」と言われたことだけをやる圧倒的多数に社会を編制し直すしかない。

 

 

少数の主人と多数の従順な奴隷たちに社会を二極化して、反抗する人間を片っ端から粛清できるシステムでなければ、「社会を一気によくする」ことはできない。

社会をよくするには「一気」と「ぼちぼち」の2つしか方法がない。

 

 

私はあらゆる「一気に社会をよくする」プランの倫理性についても、そのようなプランを軽々に口にする人の知的能力に対しても懐疑的である。

とりあえずメディアは「ただちに変革を」というような定型的な言い方をこそひとつ「ただちに変革」されてはいかがであろうかとご提案するのである。

                            (二〇〇八・一・九)」

 

 

〇 あの3.11の原発事故の後、一方には「ただちに原発をゼロに!」「と叫ぶ人々が居て、他方には、「もっと実際的に考えた方がいい」と言う人がいた。本気で原発をゼロにするためには、具体的にどう動くのがゼロにすることに繋がるかを考える必要があると私も思った。

でも、「直ちにゼロ」と言わない人は、本気で考えていないかのように責められ、結局、反対派内部の亀裂になった。

 

「本気で原発をゼロに」と思う人は、「一気に」という人も「ぼちぼち」という人も力を合わせられるはずだったと思う。

でも、そこに、「口先だけで原発反対派を騙そうとする」「ぼちぼち」の人が入って来るので、議論が成立しなくなる。

 

言葉はなんの力も持たなくなる。言葉の裏を読み、行動の裏を読み、力を合わせようという呼びかけを冷笑するようになる。

 

議論が成立しないので、また、「騙したり」「丸め込んだり」「力づく」以外に人を動かすことが出来なくなる。

議論が成立しない社会。道理が通らない社会。

そんな社会に絶望し、「寄らば大樹の陰」とか「長いものには巻かれろ」という

処世術を持つようになったんだろうなぁと思う。

 

せめて、長いものに巻かれず、大樹に寄らず、頑張っている人、例えば山本太郎さんのような人を応援したいと思います。

 

ここの内容とは少しズレますが、そんなことを思いながら読みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変革が好きな人たち

関西電力の「Insight」の取材がある。お題は「変革」。

オバマさんもChangeを掲げて、ヒラリーさんと激しいバトルを演じているので、時宜にかなったご選題である。

しかし。

私は実は「変革には反対」なのである。

 

 

 

とりあえず、現代日本で「根底的な変革を」という言い方をしているひとに対しては不信感をぬぐえないのである。

「根底的な変革」をすることが喫緊の課題であるためには、制度が「根底迄腐っている」ということが前提にある。(略)

 

 

システムのどの箇所が、どの程度の損害を蒙っており、それは今後どのようなかたちで他に波及するおそれがあり、とりあえずどのような補修を必要としているのか。

これはきわめてテクニカルで計量的な仕事である。悲壮な表情で、悲憤慷慨しつつやる仕事ではない。(略)

 

 

例えば、私たちの国のさきの総理大臣は「戦後レジームからの脱却」ということを優先的な政治課題に掲げた。

私はこの課題を聴いて「変なの」と思った。

 

 

というのはこの人は他ならぬその「戦後レジーム」の中で政治的キャリアを積み上げて、晴れて最大政党の総裁になり、総理大臣になった人だからである。彼を国政のトップに押し上げた「レジーム」がもしきわめて不調であり、早急に棄却すべきものであるのだとしたら、それは論理的には「このレジームの中で選ばれた総理大臣はなるべきではない人が間違って選ばれた可能性が高い」ということを意味するからである(実際にそうだったんだけど)。(略)

 

 

もし彼が自分はそのポストに適任であるという自己評価を下していたのであるなら(たぶん主観的にはそうだったと思うのだが)その場合には当然「私を総理大臣に選んだという事実から推して、日本社会のシステムはとりあえず人材登用に関してはきわめて適切に機能している」と宣言すべきだった。

 

 

しかし、彼はその反対のことを言った。

美しい国へ」というのは、「私を総理大臣にするような国は「醜い国」であるから、これを美しい国に作り替えねばならない」ということを意味している。

 

 

かつてグルーチョ・マルクスは「私を入会させるようなクラブに私は入会したくない」と言ったが、安倍晋三の言葉にはそのような諧謔性はない。

彼には自分がナンセンスなことを言っているという自覚がなかったからである。(略)

 

 

どこが機能していてどこが機能していないかというのはかなりの程度までは定量的な問題であり、これについては意見の違う者同士のあいだでもネゴシエーションが成立する。いずれにせよ「あまりちゃんと機能していない部分」を点検して、必要な補修をしましょう、というふうに話は進むに決まっているからである。

 

 

けれども、そのようなピースミール工学的な言葉づかいで社会システムを語る習慣を私たちはもう失って久しい。

人々はややもすると「根底的変革」を求め、「小手先の手直し」では「もうどうにもならないところまで来ている」という重々しい宣言を軽々しく口にする。

 

 

 

使えるものは使い延ばし、消耗部品に交換程度で直せるところをアッセンブリーごと新品に変えるのは控えるというのが常識的なふるまいだろうと思うのだが、そういう言葉遣いによる提案はまるで不評である。まずメディアでは相手にされない。

 

 

しかし、「小手先の手直し」で補修できるところを「根底的変革」することはコスト・パフォーマンス的に無意味である死、「順調に機能しているところ」についてはそもそも変革さえ必要ではない。だとしたら、「どこがどのくらい壊れているのか?」ということが喫緊の問いになるはずである。

 

 

現に、「体制の根底的改革」を呼号するみなさんだって、自分の家の自動車が故障した時に、修理工場で、ろくに故障個所を見もしないで「あ、大丈夫ですよ。ぜんぜん平気です」と言われても「これはもう廃車だけ。新車買いなさいよ」と言われても、いずれにしてもむっとするだろう。どこがどう悪くて、どこの部品を換えればどうなるのか、ちゃんと見てくれと当然の主張をなさるであろう。(略)

 

 

当事者意識があったら、そうする。

そうしないのは当事者意識がないからである。

年金制度にしてもたしか少し前に当時の厚老相は「一〇〇年安心な制度です」と広言した。年金制度のボロが出た時に、当時の総理大臣は「1年ですべてのデータを精査し、最後の1円まで払います」と豪語した。

言っている当人はそれが真実ではないことを知っていて、そう言っていたのである。(略)

 

 

 

制度にガタが来ているときに「制度は一〇〇%健全である」と誇大な物言いをし、制度がいかれてくると「全部リセットします」とまた誇大な物言いをする。

どうしてそのつど「そこそこ機能しているけれど、そこそこ機能していません」という正直な申告をしないのか。

 

 

船が座礁したときにまっさきにするのは被害評価である。

どこに穴が空いて、どれくらい浸水していて、あと何時間もつのか。

そういうときに「この船はまるっと無事です」などと噓を言ってもしかたがない。そんなこと言っているうちにみんな溺死してしまう。

 

 

「この船はもうダメですので、これは廃棄して、新しい船に乗り換えましょう」などと言ってもしかたがない。電話したら新しい船を配達してくれるというような状況じゃないんだから。

 

 

今ある機能不全の船をなんとか補修して、もう少しだけでも航行してもらうしかない。

船の場合も社会システムの場合も同じだろうと私は思う。

けれども、そういうアプローチで社会システムの不調を語る人はきわめて少ない。

誰もが「根底的な変革を」と呼号する。

でも、何が壊れているのか、何がまだ使えるのかを点検しないで、いったいどういう変革と再生のグランドデザインを描くのか?

 

「なんとかしろ」と怒鳴っていると、「誰か」が私たちの代わりに「世の中をよくするプログラム」をさらさらと書いてくれると思っているのだろうか?

そんな「誰か」はどこにもいない。

社会成員の全員が、自分でコントロールし、自分でデザインできる範囲の社会システムの断片を持ち寄って、それをとりあえず「ちゃんと機能している」状態に保持すること。

 

 

私たちが社会をよくするためにできるのは「それだけ」である。

「社会を一気によくしようとする」試みは必ず失敗する。

それは歴史が教えている。

 

 

「社会を一気によくする」ためにはグランドデザインを考えて、それを中枢的に統御する少数(「いいから黙ってオレの言う通りにしろ」)と、何も考えないで上意下達組織の中で「へいへい」と言われたことだけをやる圧倒的多数に社会を編制し直すしかない。

 

 

少数の主人と多数の従順な奴隷たちに社会を二極化して、反抗する人間を片っ端から粛清できるシステムでなければ、「社会を一気によくする」ことはできない。

社会をよくするには「一気」と「ぼちぼち」の2つしか方法がない。

 

 

私はあらゆる「一気に社会をよくする」プランの倫理性についても、そのようなプランを軽々に口にする人の知的能力に対しても懐疑的である。

とりあえずメディアは「ただちに変革を」というような定型的な言い方をこそひとつ「ただちに変革」されてはいかがであろうかとご提案するのである。

                    (二〇〇八・一・九)

 

〇 あの3.11の原発事故の後、一方には「ただちに原発をゼロに!」「と叫ぶ人々が居て、他方には、「もっと実際的に考えた方がいい」と言う人がいた。本気で原発をゼロにするためには、具体的にどう動くのがゼロにすることに繋がるかを考える必要があると私も思った。

でも、「直ちにゼロ」と言わない人は、本気で考えていないかのように責められ、結局、反対派内部の亀裂になった。

 

「本気で原発をゼロに」と思う人は、「一気に」という人も「ぼちぼち」という人も力を合わせられるはずだったと思う。

でも、そこに、「口先だけで原発反対派を騙そうとする」「ぼちぼち」の人が入って来るので、議論が成立しなくなる。

 

言葉はなんの力も持たなくなる。言葉の裏を読み、行動の裏を読み、力を合わせようという呼びかけを冷笑するようになる。

 

議論が成立しないので、また、「騙したり」「丸め込んだり」「力づく」以外に人を動かすことが出来なくなる。

議論が成立しない社会。道理が通らない社会。

そんな社会に絶望し、「寄らば大樹の陰」とか「長いものには巻かれろ」という

処世術を持つようになったんだろうなぁと思う。

 

せめて、長いものに巻かれず、大樹に寄らず、頑張っている人、例えば山本太郎さんのような人を応援したいと思います。

 

ここの内容とは少しズレますが、そんなことを思いながら読みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一下級将校の見た帝国陸軍

〇最近、何度も思い出す場面があります。「一下級将校の見た帝国陸軍」の中で、
山本氏の代わりに先発の斬り込み隊となった隊長についての描写です。

「彼は、背が高くやや猫背、軍刀を日本刀のようにベルトに差し込み、つるのこわれた眼鏡細紐で耳にかけ、巻脚絆に地下足袋といういで立ちだった。



その服装特に眼鏡が現代離れしており、私が思わず「大久保彦左ですな」というと、彼は、げっそりこけた土色の頬をゆがめるようにして、笑って言った、「あの時代の戦法ですからな、斬り込みは」。



言い終わると軽く私の敬礼にこたえ、何一つ特別な言葉を残さず、九人の部下とともに出発した。そしてその夜、隘路のビタグ側の入口付近の竹林で射殺された。



去って行く後ろ姿は、馴れた道を急ぐ人のように無造作だった。ああいう場所に行くとき、人は不思議にさりげなく行く。そして、さりげなく行く者だけが、本当に行く。だがその人が何も言わなくても、去って行くその背中が何かを語っていた。」

〇 物語ではなく、実在の人だったということで、何度も思い出すのだと思います。




四章 日本辺境論 ―これが日本の生きる道?

「辺境で何か問題でも?

 

「Sight」とという雑誌のインタビュー。(略)

「街場の中国論」にも書いたのだけれど、日本は「辺境」の国である。

地理的にどうこうというのではなく、メンタリティが辺境なのである。

「辺境」というのは、「中央」から発信される文物制度を受け容れて、消化吸収咀嚼して自家薬籠中のものとしたのち、加工貿易製品として(オリジナリティはまるでないけど)お値段リーズナブルでクオリティの信頼性の高い「パチモン」を売り出す、そのようなエリアであることを言う。

 

「辺境」の基本的な構えは「学習」である。「キャッチアップ」といってもいい。

中央との権力・財貨・情報などなどの社会的リソースの分配において自分が劣位にあることを自明の前提として、「この水位差をいかにして埋めるか」という語法によってしか問題を考察することができないという「呪い」がかけられてあることを「辺境性」という。

私は前に「街場のアメリカ論」にこう書いたことがある。

 

日本人はアメリカを愛することもできるし、憎むこともできるし、依存することもできるし、そこからの自立を願うこともできる。けれどもアメリカをあたかも「異邦人、寡婦、孤児」のように、おのれの幕屋に迎えることだけはできない。

あ「アメリカ人に代わって受難する」「自分の口からパンを取り出してアメリカ人に与える」ということだけはどのような日本人も自分を主語とした動詞としては思いつくことができない。

日本人はアメリカ人に対して倫理的になることができない。

これが日本人にかけられた「従者」の呪いである。」

 

〇 私にはこの「日本人にかけられた「従者」の呪い」ということがよくわかりません。多分日本人=自分=大人という感覚の人にしかわからないものなのかもしれない、

と想像します。私は日本人ではあるけれど、この国を動かしているのは、どこかの「賢い大人」で、私はただ、そこに住んでいるだけの人間。

 

日本の中の従者。日本人ではあるけれど、ある意味子どものような存在だと感じます。だから、この感覚がわからないのかな、と。

 

「私は「従者が悪い」と言っているのではない。

だって日本は開闢以来ずっと従者だったからである。

卑弥呼が「親魏倭王」に任ぜられてから「日本国王足利義満まで、日本は中国皇帝から封爵を受けていたのである。

 

 

一九四五年からあとはアメリカの属国としてその封爵(名誉「アメリカの五一番目の州」)を受けている。

日本が「われわれはもう誰の属国でもない」と思ったのは一八九四年から一九四五年までの五〇年間だけである。

そして、その間、日本はずっと戦争ばかりしていた。

 

 

 

日清、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日華事変、ノモンハン事件、太平洋戦争。

一九三一年の満州事変から起算して「一五戦争」という言い方があるが、私は一八九四年から起算した「五〇年戦争」という方が事態を正しく言い当てているのではないかと思う。

 

 

 

日本近代史から私たちが学習できることの一つは、日本が辺境であることを拒否しようとするなら、世界中を相手に戦争をし続ける覚悟が要るということである。

これは歴史の教訓である。

そして、すべての戦争に勝ち続けた国は歴史上存在しないというのもまた歴史の教訓の一つである。

 

 

ここから導かれる選択肢は二つしかない。

アメリカを含む全世界を相手に戦争をする準備を今すぐ始めるか、このまま鼓腹撃壌して属国の平安のうちに安らぐか、二つに一つである。(略)

 

 

必然的に第二の選択肢だけが日本にとって現実的なものである。

現に、日本はその歴史のほとんどの時期を「辺境」として過ごしてきており、辺境の民えあることの心地よさは深く国民性のうちに血肉化している。(略)

 

 

四書五経素読を通じて、江戸時代の子どもたちが学んだのは「子どもには決して到達し得ない知的境位が存在する」という信憑である。それがみごとに奏功して、その時代の日本人の識字率は世界一の水準に達した。

アジアの蕃地に来たつもりの欧米の帝国主義者が日本に発見したのは「知的なエルドラド」であった消息は渡辺京二「逝きし世の面影」に詳しい。

 

 

「辺境」は(自分が辺境だという意識を持ち続けるならば)「中央」を知的に圧倒することが出来る。日本の歴史はその逆説を私たちに教えている。

戦後六二年、「アメリカの辺境」という立ち位置にとどまることによって日本は世界に冠絶する経済大国になった。

 

 

日本人がバカになり、世界に侮られるようになったのは、八〇年代のバブル以降であるが、それは日本人が「オレたちはもう辺境人じゃない。オレたちがトテンディで、オレたちが中心なんだ」という夜郎自大な思い上がりにのぼせ上ったからである。

 

 

学力低下もモラルの低下も、みんな日本人が「辺境人」根性(「いつかみてろよ、おいらだって」)を失ったことにリンクしている。

だから私が申し上げているのは、属国でいいじゃないか、辺境でいいjかないか、ということである。

 

 

せっかく海に囲まれた資源もなんにもない島国なんだし、人類史以来地球上で起きたマグニチュード六以上の地震の二〇%を一手に引き受けている被災国なんだし。(略)

 

 

ある種の「病」に罹患することによって、生体メカニズムが好調になるということがある。だったらそれでいいじゃないか、というのが私のプラグマティズムである。

「属国」であり、「辺境」であることを受け容れ、それがもたらす「利得」と「損失」についてクールかつリアルに計量すること。

 

 

病識をもった上で、疾病利得について計算すること。

それが私たちにとりあえず必要な知的態度であろうと思う。

健康であろうとしたせいで早死にした人間をたくさん見て来たせいでそう思うのである。

                (二〇〇七・五・三一)」

 

〇あの