読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

〇 「母」も「銃口」も「泥流地帯」も、話題になるたびに、

気にはなっていたのですが、読みませんでした。

三浦綾子の本で、読んだことがあるのは、「道ありき」と「塩狩峠」だけです。そして、今回やっとこの「母」を読みました。

 

読みやすくてありがたかったです。

そして、おばあさん(小林多喜二の母)のおしゃべりを聞く、という

形で、物語が進行するので、その言葉の温かみが、嬉しかったです。

もともとは、秋田で育った人なので、秋田弁が入った北海道弁で、

懐かしい気持ちになりました。

 

「…(略)いつだらかっだら尾行されていた多喜二は、いつの夜だったか、わだしにしみじみ言ったことがあった。

 

「おれな、母さん、おれはいつの間にか、ずいぶんと有名な小説家になったけど、内心びくびくしてるんだ。いろいろなことがわかればわかるほど、権力って恐ろしいもんだと、背中がざわざわすることがある。

 

 

これ見てくれ、おれのこの小説、✕✕がたくさんついてるだろう。これは金持ち側から言わせると、書いて欲しくない言葉が並んでるからだよ。今の時代に、✕✕の多い小説ほど、いい小説だっていう証拠なんだがねえ。こないだは、おれの小説の「蟹工船」が、東京の帝劇で大評判を取った。

 

 

けどな、評判が立てば立つほど尾行がきびしくなって、もう小説書くの、どうしようかって思うことがある。でもな母さん、世の中っていうのは、一時だって同じままでいることはないんだよ。世の中は必ず変わっていくもんだ。悪く変わるか、よく変わるかはわからんけど、変わるもんだよ母さん。そう思うとおれは、よく変わるようにと思って、体張ってでも小説書かにゃあと思うんだ」

 

 

多喜二はそう言ったの。わだしは何もわからんども、なるほど多喜二の言ったとおり、ずいぶんと世の中変わったもんだと、つくづくと多喜二の言葉を思い出すことがあるの。

メーデーなんかもおおっぴらにできるようになったもんねえ。賃上げ闘争だってできるようになったもんね。

 

 

 

あ、そうだそうだ。今思い出した。小樽のあのもの凄いストライキの、一番初めの初めは確か小樽に浜野って金持ちがいてね、その浜野の畠で小作人たちが働いていた。でもね、その年は何せひどい不作で、小作料を払う余裕がなかった。それでわざわざ小作人たちが

 

「今年だけは小作料は勘弁してくれ」

って、小樽迄頼みに来た。それの応援に小樽の労働者が加わった。ところが地主の浜野が巡査や在郷軍人に頼んで邪魔ばした。何でもそれが始まりだって聞いたような気がする。これもまちがってたらごめんなさいよ。

 

 

わだしも、警察はおっかなかったなあ。店の戸が開く音がするから、お客さんだと思って茶の間の戸ばあけて、いらっしゃいって顔ば出すと、うんともすんとも言わないで、店ん中じろじろ見ながら、突っ立っている。

「何か用だべか」

って言ったら、

「息子は銀行で、いい月給取ってるんだろ。おっかさんがこんな店することないだろ」

なんて、優しそうな声を出すの。」

 

 

〇 多喜二が酷い殺され方をした、というのは、知っていたのですが、逮捕されたその日に殺されたというのは、知りませんでした。

そして、その後、何年かして乗ったタクシーの運転手が、自分は本来は右翼だけど、あの小林多喜二のような殺し方をするのは、間違ってる、

と言っていたのが、心に残りました。

 

簡単に狂ってしまう人間いるもいるけれど、でも一方には、しっかり良識のある人間がいる、と思いました。

 

世の中は必ず変わる、という多喜二の言葉が、今の時代にも言われているようで、印象的でした。

 

 

 

 

 

道ありき

〇 先日帰って来た息子が、「三浦綾子が面白かった」と言ったので、

ちょっとびっくりしました。「塩狩峠」を読んだそうです。

私が三浦綾子のものを読んだのは、高1の時でした。

「道ありき」を読みました。強烈な印象と強い感動があって、

この本は、もう一度…と繰り返しては読まない、と思いました。

読むたびに最初の感動が変質していくのが、嫌だったのです。

そして、道ありきがある種の「ドキュメンタリー」だとしたら、この人の作った「フィクション」から、ここにあるもの以上のものを汲み取る力は、私にはない、と思いました。

私の中では、「道ありき」は特別な本になりました。

 

 

でも、内容はほとんど忘れてしまっていました。また、今回読み返してみて、一体何にそれほど強く感動したのか、今となってはよくわからない、という気持ちになりました。

ただ、受洗に関連して「賭け」の話が語られていたことや、聖書の中の「伝道の書」について書かれていた部分を読んで、忘れていたけれど、私は、この本を読んで、キリスト教に導かれたのだと、あらためて思いました。

 

この本からは、一部分だけ、メモしておこうと思います。

 

「綾ちゃん

お互いに、精一杯の誠実な友情で交わって来れたことを、心から感謝します。

綾ちゃんは真の意味で私の最初の人であり、最後の人でした。

綾ちゃん、綾ちゃんは私が死んでも、生きることを止めることも、消極的になることもないと確かに約束して下さいましたよ。

 

万一、この約束に対し不誠実であれば、私の綾ちゃんは私の見込み違いだったわけです。そんな綾ちゃんではありませんね!

一度申した事、繰り返すことは控えてましたが、決して私は綾ちゃんの最後の人であることを願わなかったこと、このことが今改めて申し述べたいことです。

 

 

生きるということは苦しく、また、謎に満ちています。妙な約束に縛られて不自然な綾ちゃんになっては一番悲しいことです。

綾ちゃんのこと、私の口からは誰にも詳しく語ったことはありません。

頂いたお手紙の束、そして私の日記(綾ちゃんに関して書き触れてあるもの)歌稿を差し上げます。

これで私がどう思っていたか、又お互いの形に残る具体的な品は他人には全くないことになります。

 

 

つまり、噂以外は他人に全く束縛される証拠がありません。つまり、完全に「白紙」になり、私から「自由」であるわけです。焼却された暁は、綾ちゃんが私へ申した言葉は、地上に痕をとどめぬわけ。何ものにも束縛されず自由です。

 

これが私の最後の贈物

      念のため早くから

   一九五四、二、一二夕

                正

 

綾子様」

 

〇実は、この本に関しては、ある思い出が重なります。

三浦綾子という名前は知っていても、私は、それほどの

読書家ではなく、その著書を読んだことはありませんでした。

ただ、高校に入って間もなく、この三浦綾子さん本人が、私たちの

学校に来て、講演をして下さったのです。

その内容は忘れてしまったのですが、とても面白くて引き込まれたのはしっかり覚えています。

 

それで、私は本を読んでみたい…などと誰か友人に言ったのか…

いえ、誰にもそんなことは言いませんでした。高校に入って間もなくですから、

そんな親しい話をする友人はまだ居ませんでした。

 

でも、その講演から2~3日後、同じクラスのある男子が、「道ありき」を学校に持ってきて、私に貸してくれる、というのです。その男子とは、私はほとんど口をきいたことがありませんでした。でも、その時、私は何故か、その貸してくれるというその男子の気持ちがわかるような気がしたのです。

 

「同類の魂」を感じました。多分、向こうもそうだったのだと思います。

その後も、その人とは少しも親しくならず、二年になると、クラスが変わり、それっきりになりました。

 

でも、「同類の魂」って、互いに感じるものなんだ…ということは、

その時にしっかりと経験しました。

そんな思い出のある「道ありき」でした。

 

また、小林多喜二の母を描いた「母」を今回、初めて読みました。

その感想とメモは、次回にしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー

〇 以前のヤフーブログでは、書庫という機能がありました。

何かと便利でした。はてなブログにも、カテゴリーという機能があるので、

その一覧をここに載せて、利用したいと思います。

 

 

「正義」を考える
されど私の可愛い檸檬
どアホノミクスの断末魔
ねじまき鳥クロニクル
はてしない物語
ふしぎなキリスト教
アントニークレオパトラ

いまだ人間を幸福にしない日本というシステム
カズオ・イシグロ
サピエンス全史 上

サピエンス全史 下
シーラという子

昭和天皇の研究

天皇の戦争責任

ジャパン・クライシス
スピンク日記
タイガーと呼ばれた子
トリイ・ヘイデン
ビッグイシュー日本版
フランスはどう少子化を克服したか
ブンとフン
ホサナ
ユヴァル・ノア・ハラリ
ライ麦畑でつかまえて
一下級将校の見た帝国陸軍
一緒にいてもひとり
三砂ちづる
下流志向 _学ばない子どもたち…

街場の天皇論
不登校児が教えてくれたもの
中空構造日本の深層
人生の四季
人間にとって法とは何か
充たされざる者
内田樹
告白
哲学的自伝
夜回り先生 
大澤真幸橋爪大三郎
好き好き大好き超愛してる
嫌われる勇気
安倍官邸とテレビ
林慶一
山本七平
彩雲国物語
忘れられた巨人
日本はなぜ敗れるのか
日本中世の民衆像
日本中枢の崩壊
東洋的な見方
母性社会日本の病理
水谷修
私たちが孤児だったころ
 

私の中の日本軍 上

私の中の日本軍 下
私の幸福論
私はあなたの瞳の林檎
私は女性にしか期待しない
空気の研究
精神の生活 上

精神の生活 下
苦海浄土 
遠い山なみの光
集英社新書

鳩摩羅什

ホモ・デウス 上

ホモ・デウス 下

 

 

 

 

 

感想

〇「どアホノミクスの断末魔」「ジャパン・クライシス」「財政破綻後 危機のシナリオ」と、経済に関する本を読みました。

経済的専門用語については、全くわからないのに、読もうと思ったのは、経済がおかしくなれば、日々の生活が破壊されると、わかっているからです。

 

更には、歴史を見ると、どうも、戦争は、経済危機をきっかけに始まっているような気がして、心配なのです。

 

読み終わって、先ず思ったのは、私から見ると、この三冊はどれも納得できる内容の本なのに、何故、この本とは180度違っている学説があるのだろう、ということです。

 

私たちの国にはいつも、「放射能は危険だ」という説と「放射能は危険ではない」という説の二つがあるのです。

従軍慰安婦問題は捏造だ」という説と、「従軍慰安婦制度は確かに在って、その意味で日本は加害者だ」という、相反する二つの説があるのです。

 

 

色々な考え方がある、ということなのでしょうか。でも、私たちは、現在進行形で、森友問題や伊藤詩織さんのレイプ疑惑問題など、明らかな犯罪が、政府の都合によって隠蔽される過程を見ています。

 

権力者に都合の悪いことは、都合よく捏造したり、嘘をついたりして、平然と誤魔化すのを見せつけられています。

 

だとしたら、どちらかの「学説」が、政府の都合を優先するための、

嘘である可能性もあるのではないかと、思いました。

 

現在、MMTという学説があるそうです。

どんなに借金が増えても、自国の通過による借金ならば、なんら問題はない。財政破綻を心配する必要はない、という説のようです。(詳しいことはよくわかりません)

 

でも、もしそうなら、何故、福島の多くの被害者は、より手厚く保障されないのでしょうか。何故財源がない、と言って貧困で苦しむ子供・人々が放置されているのでしょうか。多くの先進国で行われている、教育の無償化がなされないのでしょうか。

さっぱりわかりません。

 

そして、これらの本を読みながら、思い出した言葉があります。

山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」から引用します。

 

「敗因 一六 思想的に徹底したものがなかった事
 敗因 五  精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)
 敗因 七  基礎科学の研究をしなかった事
 敗因 六  日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する

 

 以上の四項目は、相互に関連がある。徹底的に考え抜くことをしない思想的不徹底さは精神的な弱さとなり、同時に、思考の基礎を検討せずにあいまいにしておくことになり、その結果、基盤なき妄想があらゆる面で「思想」の如くに振舞う結果にもなった。

それは、さまざまな面で基礎なき空中楼閣を作り出し、その空中楼閣を事実と信ずることは、基礎科学への無関心を招来するという悪循環になった。

そのためその学問は、日本という現実に即して実用化することができず、一見実用化されているように見えるものも、基礎から体系的に積み上げた成果でないため、ちょっとした障害でスクラップと化した。」

 

〇 財政破綻の可能性が大である時に、あの太平洋戦争の時の大本営発表のように、嘘ばかりを流していたとしたら、被害はますます大きくなります。事実をしっかり見る(基礎科学)ことへの無関心が基盤なき妄想を「思想」のように蔓延らせる。今、まさにそうなっているような気がします。

 

敗戦から少しも学ばず、同じことを繰り返し、今また「敗れようとしている日本」。

せめて、この先は、この敗北から学んで立ち上がらなければ、ということで、小林慶一郎氏は、この提言をしたのだと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

財政破綻後 危機のシナリオ分析

「4 新しい社会契約論の可能性について

 

世代間協調問題を解決するため、将来世代の利益を代表する行政機関などの組織すなわち「仮想将来世代」を創設すべきだという提案が増えている。本節では、仮想将来世代の創設を政治思想として正当化することを、

ロールズの枠組みの拡張によって試みる。

 

 

仮想将来世代の組織が存在すれば、その構成員がもつ将来世代への利他性は「共感」の作用によって強化され、現在世代の政策決定に将来世代への配慮をもたらす。このことを予測する原初状態の人々は、無知のヴェールのもとでの選択として、仮想将来世代の創設に合意する。即ち仮想将来世代の創設は新しい社会契約として政治的正当性をもつと考えられる。

 

 

 

世代間協調を促す制度改革のアイデアはすでにいろいろなものが出されている。本節では、それらの新制度を新しい社会契約論の枠組みで基礎付けることを試みたい。

 

 

ロールズは「無知のヴェール」を使った格差原理の議論によって、手厚い社会保障制度の創設を「社会契約」であるとして正当化した。ここでは同じように、世代間協調を促す新制度の創設を(新しい)社会契約であると論じ、その正当性を主張したいのである。

 

 

 

◎世代間協調のための制度改革案

財政破綻の危機について書かれた論考では、将来世代へのコストの先送りを防止する制度改革案がいくつも提案されている。実現へのハードルが相対的に低いものから、根本的な統治機構改革まで、三つのグループに分類すると、以下のようになる。

 

 

(1)改革案の中で最も現実的なグループは、中立的な将来予測を広く有権者に知られ、彼らが将来世代のことにもっと配慮した政治的意思決定を選択できるように環境を整えるという考え方である。

 

 

財政問題の分野で具体的な提言を挙げると、政府や政党から中立な、長期将来予測機関の設置(東京財団 2013など)がある。政府から独立した長期予測機関を設置し、100年程度先までの人口動態、財政、経済、環境などの予測を中立的な立場で行い、今日の政策決定と長期予測との連関を公表する。(略)

 

 

 

(2)第二の改革案グループは、行政組織として将来世代の利益代表となる部門を創設するというアイデアである。たとえば、國枝(2011)は、将来世代の護民官ともいうべき「世代間公平確保委員会」の創設を提言している。

 

 

提言の具体的内容は次の通りである。政府から一定の独立性をもった独立行政委員会として世代間公平確保委員会を設置する。世代間公平確保委員会は世代会計を作成して国会に提出し、政策決定に影響を与える。また、国の予算や重要政策について、将来世代の利益確保の観点から、内閣や国会に対して意見を述べることが出来るものとし、さらに、著しい世代間不公平が生じるおそれがある場合には早期是正を内閣や国会に勧告できるものとしている。(略)

 

 

(3)第三の改革案グループは、将来世代の利益を反映するかたちに議会制度を変えるという統治機構改革の案である。例えば次のような参議院の賢人会議化などがありうるが、それには憲法改正を伴う大幅な統治王改革が必要となる。

 

 

参議院を将来世代の利益を大きく反映する少人数の賢人会議のような議員に再編し、議員の任期を長期化するまたは終身議員の仕組みを入れることによって、短期的な政治からの中立性と独立性を確保し、将来世代の利益を代表する長期的な視野の確立を図る。これは、ハイエクの晩年の議会改革論とほぼ同じ精神に基づく構想である(F・A・ハイエク「法と立法と自由」)。(略)

 

 

 

これらの考え方は、現在の政治の意思決定プロセスに、将来世代の利益を代表するアクターを導入することで、将来世代へのコストの先送りを防止しようとする考え方である。

 

 

このような将来世代の利益代表を総称して西條(2015)は「仮想将来世代」と呼んでいる。西條らは、本章でいう世代間協調問題を解決するための社会制度の研究を「フューチャー・デザイン」という研究プロジェクトに束ねて推進しようとしている。(略)

 

 

◎ 共感の作用による利他性の強化

ロールズの社会契約論では、人間の利他性についてきわめて抑制的な仮定を置いている。ロールズは、人間が完全に利己的であったとしても社会の連帯が存在することができる、ということを示そうとしたからである。しかし、前述の通り、世代間の協調の問題を解決することは、ロールズの社会契約では難しい。

 

 

 

以下では、ロールズ人間についての家庭を緩めて、将来世代への「弱い利他性」を仮定し、そのことから、独立長期予測機関の設置などの制度改革で民主主義システムを補正することが、新しい社会契約論として正当化できることを素描する。

 

 

 

人間は、自分の家族でもない将来世代一般のために自分の今日の生活を大きく犠牲にするほどの「強い利他性」は持ち合わせていない。しかし、家族や身近な人など何らかの個人的なつながりがある将来世代への配慮や、一般的な将来世代への組織(’独立長期予測機関や将来省など)を設置することは、次のような「共感」のメカニズムによって、この「弱い利他性」をその構成員の中で強化すると思われる。

 

 

 

仮想将来世代の組織では、将来世代への利他性を発揮することが職責と規定されており、将来世代への利他的行動は、世間からの(または組織の構成員相互の)「共感」を得やすい。つまり、仮想将来世代の構成員の「あるべき姿」または「与えられた役割」は、将来世代の利益を擁護うことであり、そのような行動をとると、当該構成員は正しい行動をしたと(世間一般から、または構成員相互に)是認され、「共感」を受ける。

 

 

アダム・スミスが「道徳感情論」で重視した「共感」の作用も、ある人が他者(世間一般)から期待される正しい行いをすると、他者はその人に共感(是認)の感情をもつ、ということが基本にある。

 

 

 

この共感の作用によって、仮想将来世代の組織の構成員の利他性は(世間一般から、または構成員相互に)是認を受け、強化される。その結果、仮想将来世代の組織としては、通常の個人がもつ利他性よりももっと強い「将来世代への利他性」を組織文化として形成し維持するようになる。

 

 

 

そのため、現在世代しかいない政策決定のプロセスにおいても、将来世代の利益を擁護する一定の役割を果たすことが出来るようになると思われる。(略)

 

 

 

◎ 新しい社会契約論の考え方

ロールズの仮定を緩めて、人間は将来世代に対する「弱い利他性」をもち、また、アダム・スミス的な「共感」の作用によってその利他性を強化する能力がある、と考えよう。

 

 

この新しい仮定のもとに、無知のヴェールに覆われた原初状態の人々が、財政運営について考察するとき、最悪の境遇に生まれたとしても、財政破綻に遭遇することは避けたいと考えるので、持続性を維持するような財政運営を各世代が実施するべきである、と人々は合意する。

 

 

しかし、その合意は時間整合性を満たさず、空手形であることも、これらの人々は理解している。なぜなら、無知のヴェールが取り去られ、歴史が始まると、すべての人にとって(前世代からの遺産を所与とすると)、自分の後続世代に何も遺さないこと(財政運営についていえば、政府債務のコストを先送りすること)が最適な戦略となってしまうからである。

 

 

一方、原初状態の人々は、人間が「弱い利他性」と「共感」の作用をもつことをも知っている。仮想将来世代の組織を設立すれば、弱い利他性共感の作用によって強化されるので、各時代において、将来世代の利益を重視するよう政策決定に影響を与えることが予想される。

 

 

 

そうなれば、後続世代に一定の資源を遺すこと(財政運営についていえば、財政の持続性を維持すること)が各世代において実現するはずである。原初状態の人々はこのように推論するので、持続的な財政を実現したい彼らは、政治制度として仮想将来世代の組織の創設に合意することになる。こうして、仮想将来世代の創設が社会契約として合意されるのである。

 

 

このようにして、ロールズが手厚い社会保障制度という福祉国家モデル

を「無知のヴェール」の議論を使って社会契約論として基礎付けたのと同じように、将来世代の利益擁護の組織(仮想将来世代)を現代の政治システムに付け加えるという民主主義の補正を、新しい社会契約論によって基礎付けることができる。(略)

 

 

 

世代間協調問題という新しい問題に対処するために、弱い利他性をもった合理的個人からなる社会でいかなる合意が可能か再定義することによって、「長期予測機関や将来省などの仮想将来世代組織を創設すること」が新しい社会契約の重要な構成要素として現れるのである。

 

世代間協調問題の典型例として、日本の財政破綻の危機は、現代政治システムの進化とそれを基礎付ける政治哲学の進化とを、われわれに要請えいると言えるのではないだろうか。」

 

〇 ここで、小林慶一郎氏の文章は終わっています。

学者の方々は、「しっかり考えて」この提言をしています。

この提言通りに、その役割を果たす「将来省」のようなものが出来れば、どんなに良いか…と私も思います。

 

でも、問題は、私たちの国では、学問的な「知」が実際の暮らしに少しも生かされていかない、ということです。

 

例えば、三権分立という誰でも知っている制度があります。でも、私たちの国においては、そのような形はあっても、内実は少しもそうなっていません。

 

原子力保安院というのもありましたが、「ほあんいんあほ」とバカにされ、今の原子力規制委員会も、結局メンバーを入れ替えることによって、政府の言いなりになる組織に成り下がってしまった感があります。

 

更に、あの児童相談所も、教育委員会も、本来は子どもを守る立場の組織のはずなのに、現実にはそうなっていない、ということも聞きます。

 

内実が伴った組織にするために、学問的な知をもっと一般社会に生かせる形にできないものか、と切に思います。

放射能についても、児童心理についても、財政や経済についても、その他、様々な「深い知」が、少しも社会に生かされて行かないというのは、不幸なことではないかと思います。

 

愚かな政治家や世間知らずで傲慢な官僚が好き勝手なことをするのを放置していては、拙いのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

財政破綻後 危機のシナリオ分析

ロールズの原初状態では、人々は自分がどのような境遇に生まれつくか知らないが、もしそれが確立分析もわからないほどのナイトの不確実性ならば、原初状態の人々の社会契約は(ナイトの不確実性を嫌う)合理的個人の功利的な選択と一致する。すなわち、ロールズのリベラルな社会契約は「拡張された功利主義」と解釈できるのである。

 

 

ロールズに内在する時間整合性の問題

ロールズの「無知のヴェール」の議論を世代間の所得移転の問題(政府債務の問題)について適用すると、大きな難点にぶつかることは当初から経済学者によって指摘されてきた。その難点とは経済学で「時間整合性の問題」として知られている問題である。

 

 

原初状態において「財政再建をすることに合意したとしても、その後に、無知のヴェールが取り去られ、歴史が開始されると、その合意を守る誘因(インセンティブ)は失われ、結果的に財政再建は実施されなくなる、という問題である。「次世代のために財政再建する」という事前の約束は、事後に必ず破られるので、この約束は時間整合的ではないといわれる。このような約束をめぐる問題を「時間整合性の問題」という。

 

 

 

世代間の所得移転の問題について、原初状態で考えてみる。無知のヴェールに覆われている個人は、自分がどの世代に生れ落ちるかわからない。財政再建を先送りできる世代に生まれるか、財政破綻に直面する世代に生まれ落ちるか、わからないなかで世代間の所得移転の制度(政府債務の管理政策)に合意する必要がある。ロールズのmax-min rule によれば、自分が最も不利な財政状況の世代に生まれた場合に、効用が最大になるように世代間の所得移転を決めるべきだということになる。

 

 

 

したがって原初状態では、人々は「財政の持続性を維持する」ことに合意する。つまり、政府債務が増えすぎれば速やかに財政再建に着手することに合意する。ところが、無知のヴエールが取り去られると、この合意は守られない。

 

 

自分がある世代に生まれ、前世代からの遺産も確定している状況で考えると、次の世代に資源を残すことは自分にとって何のメリットもないからである。利己的な現在世代が合理的に考えれば、自分の世代の中ですべての資源を消尽し、将来世代に何も残さないというのが自分の効用を最も大きくする選択である。

 

 

 

そして、そのような選択をしても、将来世代はまだ生まれていない(または政治的な権利をもっていない)から、将来世代からペナルティーを受けることはない。結果的に、原初状態で合意した世代間の所得移転の約束は守られなくなるのである。

 

 

この問題は、世代間の所得移転以外の問題では発生しない。同時点での所得格差の是正う社会契約については、もし合意を破ろうとする者がいれば、同時点で他の物がペナルティーを科すことができるので、合意の履行を確保することは強いペナルティーを設けることで可能となる。

 

 

ところが、財政再建(現在世代から将来世代への所得移転)の合意については、それを破っても、将来世代が現在世代にペナルティーを与えることは物理的に不可能である。そのため、他の合意とは異なり、世代間の所得移転については、原初状態で合意しても、そののちに合意が破られることを防止できないのである。

 

 

 

現代の代表的な社会契約論(ロールズの正議論)の枠組み、すなわち無知のヴェールで覆われた利己的人間による合理的な合意という枠組みでは、財政の持続性を確保することはできないのである。」

 

〇理解力が乏しいただのおばさんの感想を書かせてもらいます。

ここに書かれていることに、スッキリ頷くことができません。現代世代の人間が自分たちのことだけを考え、将来世代(自分たちの子孫)のことを考えられないのは、その人々が今現在、ここで自己主張をしないからだと言っているのでしょうか。将来世代の人は、今はまだ存在しないから、と。

 

でも、その論理で言えば、例えば、戦時中、ガダルカナル島で餓死していった人々も、自己主張はしなかった。誰の声も、大本営には届かなかった。だから、自分たちの利益だけを考えることが当然の人間は、彼らの苦難に想いを馳せることはせず、餓死させて当然だ、という事になります。

 

そして、実際、そういう思考方法でいけば、福島の自主避難者のことも、放置され続けている(らしい)外国人労働者のことも、自分たちの利益を考えるのが人間なのだから、考えられなくて当然なのだ、ということになります。

 

経済とか財政とか政治の問題に、「思いやり」とか「慈悲」とか「想像力」とかいうものを入れてはいけないのでしょう。だからこのような議論で、「正義」考えなければいけないのでしょう。

 

それでも、多分、欧米なら、無謀な人命無視の作戦や、人権無視、人道的に問題ある政策には、ペナルティが科せられる。

でも、この国では、全くペナルティは科せられない。

 

将来世代のことを思いやれない国民に、国を持続する力はない。正議論やペナルティーを持ちだす以前の問題ではないかと感じます。このような冷静な議論に悲しくなってしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

財政破綻後 危機のシナリオ分析

「◎ロールズ「正議論」とナイトの不確実性

ロールズの「正議論」は20世紀後半のリベラルなアメリカ民主主義の思想を、社会契約論の枠組みで基礎付け直した理論である。「現代アメリカにおいて政治哲学を再生させた」(宇野重規「政治哲学的考察」)とも評される名著であるが、その構造は、古典的な社会契約論に「無知のヴェール」を導入することで、社会保障や福祉政策などの再配分政策(リベラルな政策)を、「利己的な個人が合理的に選択する社会契約として合意されるもの」として正当化する理論であった。

 

 

ルソーなどの社会契約論では、自然状態の人間たちが社会契約を結んで社会を形成するが、ロールズの世界では、「原初状態」の人間たちが社会契約に合意し、その合意をもって現実の世界に参加する。原初状態とは、人間がこの世に生まれて来る以前の仮想的な状態であり、そこでは人間は「自分が現実の世界に生まれる時に、どのような身体的・知的特徴を持って生まれるか、またどのような社会的境遇に生まれつくか」を知ることが出来ないという「無知のヴェール」に覆われている。

 

 

 

この世に生まれる時に、自分は健康や高い知性に恵まれているのか、それとも病気や身体的・知的障害をもって生まれるのか。また、裕福な家庭の子どもとして生まれるのか、貧困家庭の子どもとして生まれるのか、そのようなことが何も分からない状態が、無知のヴェールで覆われた原初状態である。

 

 

 

利己的な個人たちが、自分がどのような境遇に生まれつくか知る前に社会制度について合意するとしたら、自分が最も悲惨な境遇に生まれ付いた時に、社会保障制度や福祉政策によってある程度は救われるような社会であることを望むはずだ。そこで、利己的な人々は次のルールを満たす社会制度を作ることに合意する;

 

 

「社会的な格差は、最も不遇な人の暮らし向きを最も高くする限りにおいて容認される」

 

 

これは、「max-min rule」と呼ばれるが、社会の中で最も効用が小さい(minimum)人に着目し、その人の効用が最も大きくなる(maximize)ように、社会の中の格差の分布が編成されるべきだ、というルールである。(略)

 

 

政治学の世界では、ロールズのこの理論は功利主義への強力な反論と見なされているが、経済学的な観点からは、この理論は「拡張された功利主義」と位置付けることもできる。無知のヴェールを、「ナイトの不確実性」であると解釈すれば、max-min rule は合理的個人の利己的な判断と一致するからである。

 

 

ナイトの不確実性とは経済学者フランク・K・ナイトが提唱した概念である。普通の不確実性であれば、起きる事象の確率分布はわかっている(これを経済学ではリスクという)。それに対し、起きる事象の確率分布すらわからない不確実性のことをナイトの不確実性という。(略)

 

 

 

数理経済学の理論研究で「ナイトの不確実性を嫌う利己的な個人は、最悪の事象が起きた時の自分の効用が最大になるように、選択を行う」ということが数学的に証明されている。これはロールズのmax-min ruleそのものである。(略)」

 

〇「人はどのように生まれつくかわからない」という事実を受け入れる態度は、あの「夜回り先生」の中に水谷氏が書いていた「詩」の精神と一致すると思います。

 

でも、私たちの国の多くの人々は、まだそこの時点で躓いているように見えます。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言った人もいますが、

一方で、「人には自ずからもっている「格」がある」などという感覚もあって、

本音では、「生まれ」で、人を崇めたり、蔑んだりするような所があります。

それは厳密に言えば、多分私の中にもあると思います。

貧しい人が汚い身なりで歩いていたら、蔑む気持ちになります。

美しい人がきれいな身なりで歩いていたら、憧れの目で見ます。賢そうな人がカッコいいことを言えば、尊敬しますし、アホっぽい人が愚かなことを言えば、軽蔑の目で見ます。

それでも、確かなことは、私たちは、自分がどう生まれつくかわからない、ということです。自分があの貧しい人であったかもしれない、アホっぽい愚かな人であったかもしれない、ということです。

 

その感覚をしっかり持つのは、かなり難しいことなのだと、最近は、「日本会議」のメンバーの発言などを聞きながら、不安になります。でもそれが出来なければ、人権も、民主主義も、本物にならないのだろうな、と思います。

 

そして、あらためて思うのは、「人はどのように生まれつくか分からない」を前提にする社会の方が、「人には格がある」を前提にする社会よりも、より、公正で、多くの人が元気に生きられる社会になるだろう、ということです。