読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ホモ・デウス(下)(第9章 知能と意識の大いなる分離)

「前の章では、自由主義の哲学を切り崩す近年の科学的発見をざっと眺めて来た。今度はそうした発見の実際的な意味合いを考察しよう。自由主義者は自由市場と民主的な選挙を擁護する。一人ひとりの人間が比類のない価値のある個人であり、その自由な選択が権威の究極の源泉であると信じているからだ。二一世紀には、この信念を時代遅れにしかねない、三つの実際的な進展が考えられる。

 

 

1 人間は経済的有用性と軍事的有用性を失い、そのため、経済と政治の制度は人間にあまり価値を付与しなくなる。

 

2 経済と政治の制度は、集合的に見た場合の人間には依然として価値を見出すが、無類の個人としての人間には価値を認めなくなる。

 

3 経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人として価値を見出すが、彼らは人口の大半ではなくアップグレードされた超人と言う新たなエリート層を構成することになる。

 

それでは、これら三つの脅威を詳しく検討しよう。テクノロジーの発展によって人間は経済的にも軍事的にも無用になるという脅威は、自由主義が哲学的なレベルで間違っているという証明にはならないが、実際問題としては、民主主義や自由市場などの自由主義の制度がそのような打撃を生き延びられるとは思いにくい。

 

 

なにしろ、自由主義が支配的なイデオロギーになったのは、たんにその哲学的な主張が最も妥当だったからではない。むしろ、人間全員に価値を認めることが、政治的にも経済的にも軍事的にもじつに理に適っていたからこそ、自由主義は成功したのだ。

 

 

近代以降の産業化戦争の大規模な戦場や現代の産業経済の大量生産ラインでは、一人ひとりの人間が大切だった。ライフル銃を持ったり、レバーを引いたりする、一つひとつの手に価値があった。

たとえば、一七九三年の春、ヨーロッパの各王室は軍隊を派遣してフランス革命を未然に食い止めようとした。

 

 

パリの革命か太刀は国民総動員令を可決し、史上初の総力戦を開始してこれに応じた。八月二三日、国民公会は次のように命じた。「現時点より、我が共和国の国土から敵が一掃されるときまで、全フランス人が軍務に常時徴用される。

 

 

若い男性は闘い、妻帯者は武器を製造し、糧食を輸送する。女性はテントや衣料を作り、病院に勤務する。子供たちは古布をリネンにする。年老いた男性は公共広場にでかけて戦士たちの士気を高め、王たちへの憎しみと我が共和国の団結を説く」

 

 

この命令は、フランス革命の最も有名な文書である「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)に興味深い光を当ててくれる。この文書は、すべての国民には等しい価値と等しい政治的権利があることを認めている。

 

 

国民皆兵制度が導入されたまさにその歴史的時点に、普遍的な権利が宣言されたのは偶然だろうか?(略)すなわち、国民に政治的権利を与えるのは良い。なぜなら、民主的な国の兵士や労働者は独裁国家の兵士や労働者よりも働きが優るからだ、というものだ。(略)

 

 

 

一八六九年から一九〇九年までハーヴァード大学の総長を務めたチャールズ・W・エリオットは、一九一七年八月五日、「ニューヨーク・タイムズ」紙に次のように書いている。「民主的な軍隊は、貴族政治によって組織されて独裁的に支配されている軍隊よりもよく戦う」し、「大衆が法律を決め、公僕を選出し、平和と戦争の問題を処理する国の軍隊の方が、生得の権利と全能の神の委任によって支配する専制君主の軍隊よりもよく戦う」。(略)

 

 

ところが、二一世紀には、男性も女性もその大多数が軍事的価値と経済的価値を失いかねない。二つの大戦の時のような大規模な徴兵は過去のものとなった。二一世紀の最も先進的な軍隊は、人員よりも最先端のテクノロジーに依存する度合いがはるかに高い。

 

 

今や各国は、消耗品のような兵士を際限なく必要とする代わりに、高度な訓練を受けた少数の兵士と、さらに少数の特殊部隊のスーパー戦士と、高度なテクノロジーの生み出し方と使い方を知っている一握りの専門家さえいれば済む。

 

 

ドローンやサイバーワーム(訳註 単独で行動し、自己複製し、他のプログラムに感染して拡散する、悪意のあるソフトウェア)から成るハイテク部隊が、二〇世紀の巨大な軍隊に取ってかわりつつあり、将軍たちは重大な決定をしだいにアルゴリズムに委ねるようになっている。(略)」

 

 

 

ホモ・デウス(下)(第8章 研究室の時限爆弾 )

「人生の意味

 

物語る自己は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇「問題」のスターだ。この小説は、ミゲル・デ・セルバンテスの有名な小説の題名の由来となったドン・キホーテに関わる。(略)

もしこうした空想を信じているせいでドン・キホーテが本物の人間を襲って殺してしまったらどうなるだろう、とボルヘスは考える。

 

 

 

人間の境遇についての根本的な疑問をボルヘスは投げかける。私たちの物語る自己が紡ぐ作り話が自分自身あるいは周囲の人々に重大な害を与えるときには何が起こるのか?主な可能性は三つある、とボルヘスは言う。

 

 

たいしたことは起こらないというのが第一の可能性だ。(略)

ドン・キホーテは人を殺めた後、途方もない戦慄を覚え、その衝撃で妄想から目覚める。これは若い新兵が祖国のために死ぬのは善いことだと信じて戦場に出たものの、けっきょく戦争の実情を目の当たりにしてすっかり幻滅するというのと同じ類だ。

 

 

だが、第三の、はるかに複雑で深刻な可能性もある。空想の巨人と戦っているかぎりは、ドン・キホーテは真似事をしていたにすぎない。ところが彼は、誰かを本当に殺したら、自分の空想に必死にしがみつく。自分の悲惨な悪行に意味を与えらるのは、その空想だけだからだ。

 

 

矛盾するようだが、私たちは空想の物語のために犠牲を払えば払うほど執拗にその物語にしがみつく。その犠牲と自分が引き起こした苦しみに、ぜがひでも意味を与えたいからだ。

これは政治の世界では、「我が国の若者たちは犬死にはしなかった」症候群として知られている。(略)

 

 

もっとも、政治家だけを責めることはできない。一般大衆も戦争を支持し続けた。そして戦後、イタリアが要求した領土をすべて獲得するわけにはいかなかったとき、この国の民主主義はベニート・ムッソリーニとその配下のファシストたちに政権を委ねた。ムッソリーニらが、イタリア人が払ったあらゆる犠牲に対して適切な保障を獲得すると約束したからだ。(略)

 

 

聖職者たちはこの原理を何千年も前に発見した。無数の宗教的儀式や戒律の根底にはこの原理がある。神や国家といった想像上の存在を人々に信じさせたかったら、彼らに何か価値あるものを犠牲にさせるべきだ。その犠牲に伴う苦痛が大きいほど、人はその犠牲の想像上の受け取りての存在を強く確信する。(略)

 

 

 

それと同じ論理が経済の領域でも働いている。一九九七年、スコットランド政府は新しい議事堂をたてることを決めた。当初の計画では、建設には二年の月日と四〇〇〇万ポンドの費用がかかる見込みだった。ところが実際に要した時間は五年、金額は四憶ポンドだった。(略)

 

 

 

そして政府は、「うーん、このためにすでに何千万ポンドもつぎ込んだのだから、今やめにして、作りかけの骨組みだけが残されたら、私たちは完全に信用を失うだろう。それなら、あと四〇〇〇万ポンド認めよう」と毎回自分に言い聞かせた。(略)そしてそのまた数カ月後、同じ事態が発生し、それを繰り返しているうちに、とうとう実際の費用は当初の見積もりの一〇倍に達した。

 

 

この罠にはまるのは政府だけではない。企業もうまく行かない事業に何百万ドル投入することが多く、個人も破綻した結婚生活や将来性のない仕事にしがみつく。

私たちの物語る自己は、過去の苦しみにはまったく意味がなかったと認めなくて済むように、将来も苦しみ続けることのほうをはるかに好む。(略)

 

 

というわけで、国家や神や貨幣と同様、自己もまた想像上の物語であることが見て取れる。私たちのそれぞれが手の込んだシステムを持っており、自分の経験の大半を捨てて少数の選り抜きのサンプルだけとっておき、自分の観た映画や、読んだ小説、耳にした演説、耽った白昼夢と混ぜ合わせ、その寄せ集めの中から、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかにまつわる筋の通った物語を織り上げる。

 

 

この物語が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる。私が自分の

命を犠牲にすることを物語の筋が求めるなら、それさえこの物語は私にやらせる。私たちは誰もが自分のジャンルを持っている。悲劇を生きる人もいれば、果てしない宗教的ドラマの中で暮らす人もいるし、まるでアクション映画であるかのように人生に取り組む人もいれば、喜劇に出演しているかのように振舞う人も少なからずいる。だが結局、それはすべてただの物語にすぎない。

 

 

それならば、人生の意味とは何なのか?何か外部の存在に既成の意味を提供してもらうことを期待するべきではないと自由主義は主張する。個々の有権者や消費者や視聴者が自分の自由意志を使って、自分の人生ばかりではなくこの世界全体の意味を生み出すべきなのだ。

 

 

ところが生命科学自由主義を切り崩し、自由な個人というのは生化学的アルゴリズムの集合によってでっち上げられた虚構の物語に過ぎないと主張する。(略)

自由意志と個人が存在するのかという疑問は、むろん新しいものではない。二〇〇〇年以上前に、インドや中国やギリシアの思想家たちは、「個人の自己は幻想である」と主張した。とはいえ、そのような疑念は、経済や政治や日常生活に実際的な影響を及ぼさない限り、歴史をたいして変えることはない。

 

 

 

人間は認知的不協和扱いの達人で、研究室ではある事柄を信じ、法廷あるいは議会ではまったく違う事柄を信じるなどということを平気でやる。ダーウィンが「種の起源」を刊行した日にキリスト教が消えはしなかったのとちょうど同じで、自由な個人など存在しないという結論に科学者たちが達したからというだけで自由主義が消え失せることはない。(略)

 

 

ところが、異端の科学的見識が日常のテクノロジーや毎日の決まりきった活動や経済構造に転換されると、この二重のゲームを続けるのは次第に難しくなり、おそらく私たち(あるいは私たちの後継者)には、宗教的信念と政治制度の全く新しいパッケージが必要になるだろう。

 

 

三〇〇〇年紀の始まりにあたる今、自由主義は、「自由な個人などいない」という哲学的な考えによってではなく、むしろ具体的なテクノロジーによって脅かされている。私たちは、個々の人間に自由意志など全く許さない、甚だ有用な装置や道具や構造の洪水に直面しようとしている。民主主義と自由市場と人権は、この洪水を生き延びられるだろうか?」

 

 

 

ホモ・デウス(下)(第8章 研究室の時限爆弾)

「人が経済的な決定をどう下すかを知りたがっている行動経済学者たちも、同じような結論に達している。

正確に言うなら、彼らが知りたいのは、誰がそうした決定を下すか、だ。誰がメルセデス・ベンツではなくトヨタの自動車を買うことや、休暇にタイではなくパリに行くことや、上海の証券取引所で取り扱う金融商品ではなく韓国の国債に投資することを決めるのか?

 

 

 

ほとんどの実験は、こうした決定のどれを取っても、それを下しているような単独の自己が存在しないことを示している。むしろそれらの決定は、異なる、そして対立していることの多い内なる存在どうしの主導権争いの結果なのだ。

 

 

 

或る先験的な実験を行ったのが、二〇〇二年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンだ。カーネマンは、人々に三部から成る実験に参加して貰った。参加者は実験の「短い」部分では、不快で、異端荷を感じるか感じないかという摂氏一四度の水が入った器に手を入れた。そして一分後に、手を出すように言われた。

 

 

「長い」部分では、やはり一四度の水が入った別の器にもう一方の手を入れた。ところが、一分後、温かい水が密かに加えられて水温がわずかに上がり、一五度になった。その三〇秒後、手を器から出すように指示された。

 

 

「短い」部分を先にやった参加者もいれば、「長い」部分から始めた参加者もいた。どちらの場合にも、二つの部分が終わってからきっかり七分後に、三番目の、この実験で最も重要な部分に入った。参加者は最初の二つの部分のどちらかを繰り返さなくてはならないが、どちらを選ぶかは本人次第だと告げられた。

 

 

八割もの参加者が、「長い」部分を繰り返す方を選んだ。そちらのほうが苦痛が少なかったと記憶していたからだ。

この冷水実権派じつに単純だが、それが意味するところは自由主義の世界観の核心を揺るがせる。私たちの中には、経験する自己と物語る自己という、少なくとも二つの異なる自己が存在することを、この実験は暴き出すからだ。(略)

 

 

ところが、経験する自己は何も覚えていない。何一つ物語を語らず、大切な決定を下す時に相談を受けることもめったにない。記憶を検索し、物語を語り、大きな決定を下すのはみな、私たちの中の完全に違う存在、すなわち物語る自己の専売特許だ。

 

 

 

物語る自己は、ガザニガの左脳の解釈者と似ている。たえず過去についてのほら話作りや、将来の計画立案にせっせと励んでいる。(略)物語る自己は、私たちの経験を評価する時にはいつも、経験の持続時間を無視して、「ピーク・エンドの法則」を採用し、ピークの瞬間と最後(エンド)の瞬間だけを思い出し、両者の平均に即して全体の経験を査定する。

 

 

これは私たちの実際的な決定のすべてに多大な影響を及ぼす。(略)

冷水実験のときとちょうど同じで、全体の痛みのレベルは持続時間とは無関係で、ピーク・エンドの法則だけを反映していた。一つの結腸鏡検査は八分続き、最悪の瞬間に患者はレベル8の痛みを、最後の瞬間にはレベル7の痛みを報告した。

 

 

検査の後、この患者は全体の痛みのレベルを7.5とした。別の結腸鏡検査は二四分間続いた。今度も痛みのピークはレベル8だったが、検査の最後の瞬間には、患者が報告した痛みのレベルは1だった。この患者は全体の痛みのレベルをわずか4.5とした。(略)

 

 

では、患者たちは短くて痛い検査と、長くて慎重な検査のどちらを好むのか?この疑問には単一の答えがない。なぜなら、患者たちには少なくとも二つの異なる自己があり、それぞれ関心が違うからだ。(略)

 

 

 

小児科医はこのトリックを十分心得ている。獣医も同じだ。誰らの多くは、クリニックにお菓子がいっぱい入った器を常備しておき、痛い注射や不快な検査をした後に、子供(あるいは犬)に犯しをいくつか与える。物語る自己が医師のもとに行ったことを思い出した時には、最後の楽しい一〇秒間のおかげで、その前の何分にもわたる不安と痛みが帳消しになる。

 

 

進化は小児科医たちよりもはるか昔にこのトリックを発見した。多くの女性が出産のときに経験する耐え難い苦痛を考えると、正気の女性なら度それを味わったら二度と同じ目に遭うことに同意するはずがないと、人は思うかも知れない。

 

 

ところが出産の最後とその後数日間にホルモン系がコルチゾールとベータエンドルフィンを分泌し、これらが痛みを和らげ、安堵感を生み出し、ときにはえも言われぬ喜びさえ引き起こす。そのうえ、赤ん坊に対して募る愛情と、家族や友人、宗教の教義、国家主義的なプロパガンダあの拍手喝采とが相まって、出産をトラウマから好ましい体験に変える。(略)

 

 

私たちの人生における重大な選択(パートナー、キャリア、住まい、休暇などの選択)の大半は、物語る自己が行なう。あなたが二通りの休暇のどちらかを選べるとしゆおう。ヴァージニア州ジェイムズタウンに行き、一六〇七年に北アメリカ大陸本土初のイギリスの定住地が置かれた歴史的な植民地の村を訪れるというのが第一の選択肢。第二の選択肢は、アラスカでトレッキングであろうが、フロリダでの日光浴であろうが、ラスヴェガスでのセックスと薬物とギャンブルの勝手気ままなどんちゃん騒ぎであろうが、何であれ自分にとって最高の夢のバカンスを実現すること。

 

 

ただし、一つ条件がついている。もし夢のバカンスを選んだら、帰りの飛行機に乗り込む直前に、そのバカンスの記憶をそっくり消し去る薬を飲まなければならない。(略)

たいていの人はかつての植民地ジェイムズタウンを選ぶだろう。

 

 

 

なぜなら、ほとんどの人が物語る自己にクレジットカードを握らせるからで、この自己は物語にしか関心がなく、どれほど興奮に満ちた経験であっても、記憶にとどめられないのなら、まったく興味を抱かないからだ。(略)

 

 

 

そのうえ、経験する自己は強力なので、物語る自己が練り上げた計画を台無しにすることがよくある。例えば私は、新年を迎えて、これからダイエットを始めて毎日スポーツジムに通うと決心したとしよう。

このような野心的な計画は物語る自己ならではのものだ。

 

 

だが翌週、ジムに行く時間が来ると、経験する自己が主導権を奪う。私はジムに行く気になれず、ピザを注文してソファに腰を下ろし、テレビをつける。

 

 

とはいえ、私たちのほとんどは、自分を物語る自己と同一視する。私たちが「私」と言う時には、自分がたどる一連の経験の奔流ではなく、頭の中にある物語を指している。混とんとしてわけのわからない人生を取り上げて、そこから一見すると筋が通っていて首尾一貫した作り話を紡ぎ出す内なるシステムを、私たちは自分と同一視する。

 

 

 

話の筋は嘘と脱落だらけであろうと、何度となく書き直されて、今日の物語が昨日の物語と完全に矛盾していようと、かまいはしない。重要なのは、私たちには生まれてから死ぬまで(そしてことによるとその先まで)変わることのない単一のアイデンティティがあるという感じをつねに維持することだ。これが、私は分割不能の個人である、私には明確で一貫した内なる声があって、この世界全体に意味を提供しているという、自由主義の疑わしい信念を生じさせたのだ。」

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下)(第8章 研究室の時限爆弾)

「もし哲学が実地に試されている所を見たければ、ロボラットの研究室を訪ねるといい。ロボラットはありきたりのラットに一工夫加えたもので、脳の感覚野と報酬領域に電極を埋め込まれている。そのおかげで、科学者はリモートコントロールでラットを好きなように動かせる。

 

 

 

彼らはラットに短時間の訓練をさせてから、右や左に曲がらせるだけではなく、梯子を上らせたり、生ゴミの山の臭いを嗅ぎ回らせたり、極端に高い場所から飛び降りるといった、普段はラットが嫌うことをやらせたりするのに成功した。(略)

 

 

動物福祉活動家は、そのような実験がラットに与える苦しみに対する懸念を表明してきた。ところが、ロボラット研究を先導する研究者の一人である、ニューヨーク州立大学のサンジヴ・タルワー教授は、じつはラットは実験を楽しんでいると主張して、そうした懸念を退ける。なにしろラットは「快感のために作業をする」のであり、脳の報酬中枢を電極で刺激されると「ラットは極楽の気分を覚える」から、とタルワーは説明する。

 

 

 

私たちの理解の及ぶ限りでは、ラットは自分が誰かに制御されているとは感じていないし、自分の意志に反して何かをすることを強要されているとも感じていない。(略)ホモ・サピエンスに行われた実権は、人間もラットを同じように操作でき、愛情や恐れや憂鬱といった複雑な感情さえも、脳の適切な場所を刺激すれば生み出したり消し去ったりできることを示している。

 

 

 

アメリカ軍は最近、人間の脳にコンピューターチップを埋め込む実験を始めた。この方法を使って心的外傷後ストレス障害に苦しむ兵士を治療できればと望んでのことだ。エルサレムのハダサ病院では医師たちが、深刻なうつ病で苦しむ患者の斬新な治療法の開発に取り組んでいる。

 

 

患者の脳に電極を埋め込み、胸に埋め込んだ極小のコンピューターとつなぐ。コンピューターからの命令を受け取ると、電極は微弱な電流を流し、うつを引き起こしている脳領域を麻痺させる。この治療法はいつもうまくいくわけではないが、これまでずっと悩まされてきた暗い空虚な気持ちが魔法のように消えて無くなったと患者が報告する場合もあった。(略)

 

 

アメリカ軍は、訓練と実戦の両方で兵士の集中力を研ぎ澄まし、任務追行能力を高めることを期待してそのようなヘルメットの実験を行っている。主な実験を実施しているのは人間有効性局(Human Effectiveness Directorate)で、オハイオ州の空軍基地にある組織だ。結果は決定的と言うにはほど遠いし、実際の成果をんが得ると、経頭蓋刺激装置の今のもてはやされぶりは先走りも甚だしいが、この方法でドローン操縦士や航空管制官や狙撃兵をはじめ、長時間にわたって高度の注意力を維持する必要のある任務についている人員の認知能力を実際に高め得るという研究結果もいくつか出ている。

 

 

 

 

「ニューサイエンティスト」誌の記者サリー・アディ―は、狙撃兵の訓練施設を訪れて自ら効果を試すことを許された。(略)この実験のせいでサリーの人生が変わった。その後の数日で、彼女は自分が「スピリチュアルなものに近い体験」をしたことに気づいた。「その経験の特徴は、自分が前より賢くなったと感じたり、物覚えが良くなったりするというものではなかった。

 

 

 

愕然としたのは、生まれて初めて、頭の中の何もかもが、ついに口をつぐんだことだった……自己不信と無縁の自分の脳というのは新発見だった。頭の中が突然、信じられないほど静まり返った……この経験後の数週間というもの、いちばんやりたくてしかたなかったのは、あそこに戻ってもう一度電極を付ける事だったと言ったら、共感してもらえるといいのだが。(略)」これらの声の中には、社会の偏見を復唱するものも、自分の個人史を反映するものも、遺伝的に受け継いだものをはっきり表現するものもある。

 

 

 

それらがすべて合わさって目に見えない物語を生み出し、私たちの意識的決定を、自分ではめったに把握できない形で方向付ける、とサリーは言う。もし、私たちが内なる独白を書き直すことができたら、あるいは、そのような独白をときどき完全に黙らせることさえできたら、いったいどうなるのだろう?

二〇一六年現在、経頭蓋刺激装置はまだその揺籃期にあり、成熟したテクノロジーになるのか、なるとすればそれはいつかは定かではない。(略)

 

 

頭の中の声を黙らせたり大きくしたりする能力は、じつは自由意志を損なうどころか強化する、と反論する人がいるかもしれない。(略)ところが、ほどなく見るように、自分には単一の自己があり、したがって、自分の真の欲望と他人の声を区別できるという考え方もまた、自由主義の神話にすぎず、最新の科学研究にて偽りであることが暴かれた。

 

 

 

どの自己が私なのか?

 

科学は、自由意志があるという自由主義の信念を崩すだけではなく、個人主義の信念も揺るがせる。自由主義者たちは、私たちには単一の、分割不能の自己があると信じている。(略)それなのに、もし私が本当に注意を払って自己を知ろうと努めれば、人文の奥底に、単一で明確な本物の声を必ず発見できるはずで、それが私の真の自己であり、この世界のあらゆる意味と権威の源泉なのだ。

 

 

自由主義が理に適うものであるためには、私には一つ、ただ一つの真の自己がなくてはならない。(略)

ところが生命科学は過去数十年のうちに、この自由主義の物語がただの神話でしかないという結論に達した。単一の本物の自己が実在するというのには、不滅の魂やサンタクロースや復活祭のウサギ(訳註 復活祭に子どもたちにプレゼントを持ってくるとされるウサギ)が実在するというのと同じ程度の信憑性しかない。(略)

 

 

 

これらのいわゆる分離脳患者の研究のうち、とりわけ注目するべきいくつかを行なったのが、革新的な発見を認められて一九八一年にノーベル生理学・医学賞を受賞したロジャー・ウォルコット・スペリー教授と、その教え子のマイケル・S/ガザニガ教授だ。(略)別の実験でガザニガのチームは、発話を司る脳の左半球にニワトリの足先の絵を瞬間的に見せると同時に、右脳には雪景色の画像を一瞬見せた。

 

 

何が見えたかと訊かれたPSという患者は「ニワトリの足先」と答えた。それからガザニガは、絵の描かれたカードを何枚もPSに見せ、自分が目にした絵と一番よく合っているものを指さすように言った。患者の右手(左脳に制御されている)はニワトリの絵を指さしたが、同時に左手がさっと伸びて除雪用のシャベルを指さした。

 

 

それからガザニガは当然の疑問を投げかけた。「なぜニワトリとシャベルの両方を指さしたのですか?」するとPSはこう答えた。「ああ、ニワトリの足はニワトリと関係があるし、ニワトリ小屋を掃除するのにシャベルが必要だからです」

 

 

いったい何が起こっていたのだろう?発話を制御する左脳は雪景色についてのデータは持っていなかったので、左手がシャベルを指さし多理由が本当はわからなかった。だからもっともらしい話をさっさとでっち上げたのだ。

 

 

 

ガザニガはこの実験を何度も繰り返した後、脳の左半球は言語能力の座であるばかりではなく、内なる解釈者の座でもあり、この解釈者が絶えず人生の意味を理解しようとし、部分的な手がかりを使ってまことしやかな物語を考え出すのだと結論した。(略)

 

 

 

これは、アメリカのCIAが国務省の知らないうちにパキスタンでドローン攻撃を行うようなものだ。それについてジャーナリストが国務省の雨人たちを問い詰めると、彼らはいかにもありそうな説明をしておく。実際には、メディア担当の情報操作の専門家たちは、攻撃が命令された理由については手がかりすらないので、とりあえずは何かそれらしい話を勝手に考えるのだ。

 

 

同じようなメカニズムを、分離脳患者たちだけではなくすべての人間が利用している。私の国務省が知りもしなければ承諾もしないうちに、私のCIAが何度となく物事を行ない、それから私が一番よく見えるような話を国務省がでっちあげるわけだ。そして、国務省自体も、自分が考え出したまったくの空想を固く信じるようになる。」

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下)(第3部 ホモ・サピエンスによる制御が不能になる)

〇 第三部のタイトルページに書かれていた言葉。

「 人間はこの世界を動かし

  それに意味を与え続けることができるか?

  バイオテクノロジーとAIは、

  人間至上主義をどのように脅かすか?

  誰が人類の跡を継ぎ、どんな新宗教

  人間至上主義に取って代わる可能性があるのか?  」

 

〇 このタイトルページの裏には、図39として、「コンピューターと化した脳、脳と化したコンピューター。AIは今や人間の知能を越えようとしている。」と書かれています。

 

 

「第8章 研究室の時限爆弾

 

二〇一六年の世界は、個人主義と人権と民主主義と自由市場という

自由主義のパッケージに支配されている。とはいえ、二一世紀の科学は、自由主義の秩序の土台を崩しつつある。科学は価値にまつわる疑問には対処しないので、自由主義者が平等よりも自由を高く評価するのが正しいのかどうか、あるいは、集団よりも個人を高く評価するのが正しいのかどうかは判断できない。

 

 

一方、自由主義も他のあらゆる宗教と同じで、抽象的な倫理的判断だけではなく、自らが事実に関する言明と信じるものにも基づいている。そして、そうした事実に関する言明は、厳密な科学的精査にはとうてい耐えられないのだ。

 

 

 

自由主義者が個人の自由をこれほど重視するのは、人間には自由意志があると信じているからだ。自由主義によれば、有権者や消費者の決定は、必然的に規定されている決定的なものでもランダムなものでもないという。人は勿論外部の力や偶然の出来事の影響を受けるが、けっきょくは、一人ひとりが自由という魔法の杖を振るって、物事を自分で決められる。(略)

森羅万象に意味を与えるのは私たちの自由意志であり、他人は私たちが本当はどう感じているかを知ったり、何を選ぶかを確実に予測したりすることはできないので、ビッグ・ブラザー(訳註 ジョージ・オーウェルの「一九八四年」に登場する全体主義国家の独裁者)の類に頼って、自分の関心や欲望の面倒を見てもらおうなどとするべきではない。

 

 

 

人間には自由意志があると考えるのは、倫理的な判断ではない。それはこの世界について事実に関する記述だと称される。このいわゆる事実に関する記述は、ジョン・ロックジャン=ジャック・ルソーヤトマスf・ジェファーソンの時代には道理に適っていたかもしれないが、生命かがk需の最新の八件とは相容れない。

 

 

自由意志と現代の科学との矛盾は研究室の持て余し者で、多くの科学者はなるべくそれから目を逸らし、顕微鏡やfMRIスキャナーを覗き込むありだ。

 

 

 

一八世紀には、ホモ・サピエンスは謎めいたブラックボックスさながらで、内部の仕組みは人間の理解を越えていた。だから、ある人がなぜナイフを抜いて別の人を刺し殺したのかと学者が尋ねると、次のような答えが受け容れられた。「なぜなら、そうすることを選んだからだ。自分の自由意志を使って殺人を選んだ。したがって、その人は自分の犯罪の全責任を負っている」。

 

 

 

ところが二〇世紀に科学者がサピエンスのブラックボックスをk¥開けると、魂も自由意志も「自己」も見つからず、遺伝子とホルモンとニューロンがあるばかりで、それらはその他の現実の現象を支配するのと同じ物理と科学の法則に従っていた。

 

 

今日、ある人がなぜナイフを抜いて別の人を刺し殺したのかと学者が尋ねたときには、「なぜなら、そうすることを選んだからだ」という答えは通用しない。代わりに、遺伝学者や脳科学者はもっとずっと詳しい答えを与える。「その人がそうしたのは、脳内のコレコレの電気化学的プロセスのせいであり、それらのプロセスは特定の遺伝的素質によって決まり、その素質自体は太古の進化圧と偶然の変異の組み合わせを反映している」

 

〇 この本は、実はもう読み終わっているのですが、メモの方が遅れています。今、もう一度読みながら思い出したのは、ハンナ・アーレントの「精神の生活 下」です。

 

引用します。

 

「「私は思弁的思考活動のばか騒ぎのことについては既に話した。それは知性の認識能力を超えて思考したいというカントの理性の欲求を解放しようとするところから始まったが、その後を継いだドイツ観念論者は概念を人格化して遊びとしてしまい、科学的妥当性があるのだと要求した。

しかし、それは、カントの「批判」とははるかにかけ離れたものになってしまった。
科学的真理という観点から見ると、この観念論者たちの思弁は、えせ科学であった。


今ではこのスペクトルの反対の端で、何か同様にえさ的なものが進行しているように思われる。唯物論者たちは、コンピュータやサイバネティクス、オートメーションの助けを借りて、この思弁のゲームを行う。彼らの外挿法によっては、観念論者のゲームのような幽霊ではないが、しかし心霊論者の降神会の場合のように、[精神の]物質扱いが行われる。

この唯物論者のゲームにおいて非常に驚くべきことは、その結果が観念論者の諸概念に似ていることである。こうしてヘーゲルの「世界精神」は近年、大型コンピュータのモデルとして造られた「神経システム」の構造に物質化を見出した。すなわちルイス。・トーマスは、世界規模の人間の共同体を一つの巨大頭脳の形で捉えることを提案している。


この頭脳はきわめて敏速に考えを取り替えるので、「人間のたくさんの頭脳は、しばしば機能的に融合を被っているかのように見える」。その「神経システム」としての人類と共に、こうして全地球は「複雑に相互にかみ合った諸部分からなる、呼吸する有機体…となる」。
そしてこの一切は、惑星の大気という保護膜の下で成長している。


こうした考えは、科学でも哲学でもなく、SFである。」

 

〇 ハンナ・アーレントの時代にはまだバイオテクノロジーもAIもなかったので、SFでしたが、現代においては、現実のことになってきました。ただ、この事実をどう取り扱うかについては、まだまだわかっていない未知の領域があるとしっかり認識していなければならないのだろうな、と思います。

 

その認識がないまま、精神が全て科学で解明できるかのように考えてしまうと、SFになってしまうと思うのですが。

 

「殺人につながる脳の電気化学的プロセスは、決定論か、ランダムか、その組み合わせのいずれかだ。だが、けっして自由ではない。たとえば、ニューロンが発火するとき、それは外部の刺激に対する決定論的な反応か、ことによると、放射性元素の自然発生的な崩壊のようなランダムな出来事の結果かもしれない。

 

 

 

どちらの選択肢にも、自由意志の入り込む余地はない。先行する出来事によってそれぞれ決まる生化学的な出来事の連鎖反応を通して行き着いた決定は、断じて自由ではない。原子内部でランダムに起こる偶然の出来事から生じる決定も、自由ではなく、ただランダムなだけだ。そして、ランダムに起こる偶然の出来事が決定論的なプロセスと組み合わさると、確率的な結果が得られるが、これも自由には相当しない。(略)

 

 

実は、「自由」という神聖な単語は、まさに「魂」と同じく、具体的な意味などまったく含まない空虚な言葉だったのだ。自由意志は私たち人間が創作した様々な想像上の物語の中にだけ存在している。

 

 

 

事由へのとどめの一撃を加えたのは進化論だ。進化論は不滅の魂と折り合いをつけることができないのとちょうど同じで、自由意志という概念も受け入れることができない。もし人間が自由だとすれば、自然選択が人間の進路を決定することなど、できたはずがないではないか。進化論によれば、住み処、食物、交尾相手お、何についてであれ動物が行なう選択はみな、自分の遺伝子コードを反映しているという。

 

 

 

 

環境に適応していない遺伝子のせいで、毒キノコを食べ、元気のないメスと交尾うことを選択すれば、その遺伝子は途絶える。ところが、もし動物が、何を食べ、誰と交尾するかを「自由に」選んだら、自然選択には出る幕がない。

 

 

 

人はこのような科学的説明を突きつけられると、しばしばそれを軽くあしらい、自分は自由だと感じていることや、自分自身の願望や決定に従って行動していることを指摘する。それは正しい。人間は自分の欲望に即して振舞う。

 

 

もし「自由意思」とは自分の欲望に即して振舞うことを意味するのなら、たしかに人間には自由意志がある。そして、それはチンパンジーも犬もオウムも同じだ。(略)

 

これはたんなる仮説でもなければ、哲学的な推量でもない。今日私たちは脳スキャナーを使って、人が自分の欲望や決定を自覚する前に、その欲望や決定を予測することができる。その種の実験の一つでは、参加者は両手に一つずつスイッチを握った状態で巨大な脳スキャナーの中に入れられる。

 

 

 

そして、いつでもその気になったときに二つのスイッチのうちの一つを押すように言われる。脳の神経活動を観察している科学者は、参加者が実際にスイッチを押すよりもずっと前に、そして、本人が自分の意図を自覚する前にさえ、どちらのスイッチを押すかを予測できる。その人の決定を示す脳内の神経の活動は、本人がこの選択を自覚する数百ミリ秒から数秒前に始まるのだ。(略)

 

 

それにもかかわらず、人が自由意志について論じ続けるのは、科学者までもが時代遅れの神学的概念を相変わらず使っていることがあまりに多いからだ。キリスト教イスラム教とユダヤ教神学者は何世紀にもわたって、魂と意志との関係について議論してきた。彼らはどの人間にも魂と呼ばれる内なる本質があり、それがその人の真の自己だと決めてかかっていた。(略)

 

 

たとえば、イヴはなぜ、ヘビが差し出した禁断の果実を食べたいと思ったのか?この欲望は押し付けられたものなのか?まったくの偶然で彼女の頭に浮かんだのか?それとも、彼女は「自由に」その欲望を選んだのか?もし自由に選ばなかったのなら、なぜ罰せられたのか?

 

 

ところが、魂など存在せず、人間には「自己」と呼ばれる内なる本質などないことをいったん受け容れてしまえば、「自己」はどうやって自らの欲望を選ぶのか?」と問うことは、もう意味を成さなくなる。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下)(第7章 人間至上主義革命)

キリスト教は社会的改革や倫理的改革を引き起こしたのに加えて、経済やテクノロジーの重要な革新ももたらした。カトリック教会は中世ヨーロッパの最も高度な管理制度を確立し、文書保管所や目録や時間表をはじめとするデータ処理技術の使用の先駆けとなった。

 

 

ヴァチカンは、一ニ世紀のヨーロッパでシリコンヴァレーに最も近い存在だった。カトリック教会はヨーロッパ初の経済団体、すなわち修道院を設立し、それが一〇〇〇年にわたってヨーロッパ経済の戦闘に立ち、先進的な農業と管理の手法を導入した。

 

 

修道院は他のどの組織よりも早く時計を使い始め、何世紀もの間、ヨーロッパでは修道院司教座聖堂学校が最も重要な学習拠点であり続け、ボローニャ大学やオックスフォード大学やサラマンカ大学と言ったヨーロッパにおける最初期の大学の多くの創立を助けた。

 

 

 

今日もなお、カトリック教会は何億もの信徒の忠誠と献金を享受し続けている。とはいえ、カトリック教会やそのほかの有神論の宗教は、創造的な勢力から受け身の勢力に変わって久しい。(略)

 

 

こう自問してほしい。二〇世紀の最も影響力のある発見や発明や創造物はなんだったか?これは難しい質問だ。なぜなら、抗生物質のような科学的発見や、コンピューターのようなテクノロジー上の発明や、フェミニズムのようなイデオロギー上の創造物など、じつに多くの候補のリストから一つ選ぶのは至難の業だからだ。(略)

 

 

 

この二つの質問をじっくり考えたうえで、二一世紀の大きな変化はどこから生まれ出てくると思うか?イスラミックステート(イスラム国)からか、それともグーグルからか?たしかにイスラミックステートはyoutubeに動画をアップロードする方法を知ってはいるが、拷問産業を別とすれば、最近シリアやイラクからどんな新発明が出現したか?(略)」

 

 

〇 キリスト教カトリックが社会に対して及ぼした影響を見るとき、それは、まるで植物になぞらえて言えば、土の下の根のような働きをしていたのでは?と感じます。

一人ひとりの心(魂)の領域にまで影響を及ぼし、様々なアイディアや情熱を掻き立てていたように見えます。

今、もう神を信ずる人はいなくなった…、では、その根はどうなったか?

私から見ると、神とか、日本で言えば天とかいうような「もの」を信じることはなくても、その概念、イメージは今も残っていて、信実なるもの、善なるもの、美なるもの、そして愛、を求める心の働きは生きているように見えます。

 

その心の動きが今も根を腐らせずに働きを続けている様に見えるのですが。

むしろ、キリスト教とかカトリックという組織が完全になくなってしまった時、本当に、概念だけで、これからもその根の働きを生かし続けられるのか、が気になります。

 

 

「多くの科学者を含めた何十億もの人が、権威の源泉として宗教の聖典を使い続けているが、それらの文書はもう、創造性の源泉ではない。たとえば、キリスト教の中でも進歩的な諸宗派が同性婚や女性聖職者を受け容れたことについて考えてほしい。どうして受け容れることになったのか?

 

 

聖書、あるいは聖アウグスティヌスマルティン・ルターの書いたものを読んだからではない。そうではなくて、ミシェル・フーコーの「性の歴史」(渡辺守章訳、新潮社、一九八六~八七年)やダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」のような文書を読んだからだ。(略)

 

 

そういうわけで、伝統的な宗教は自由主義の真の代替となるものを提供してくれない。聖典には、遺伝子工学やAIについて語るべきことがないし、ほとんどの司祭やラビやムフティーは生物学とコンピューター科学の最新の飛躍的な発展を理解していない。

 

 

なぜなら、もしそうした発展を理解したければ、あまり選択肢がないからだ、古代の文書を暗記してそれについて議論する代わりに、科学の論文を読んだり、研究室で実験したりするのに如何を掛けざるをえないのだ。(略)

 

 

本書は、二一世紀には人間は不死と至福と神性を獲得しようとするだろうと予測することから始まった。この予測はとりわけ独創的でもなければ、先見の明があるものでもない。それはただ、自由主義的な人間至上主義の伝統的な理想を反映しているにすぎない。

 

 

 

人間至上主義は人間の命と情動と欲望を長らく神聖視してきたので、人間至上主義の文明が人間の寿命と幸福と力を最大化しようとしたところで、驚くまでもない。

とはいえ、本書を締めくくる第三部では、この人間至上主義の夢を実現しようとすれば、新しいポスト人間至上主義のテクノりじーを解き放ち、それによって、ほかならぬその夢の基盤を損なうだろうと主張することになる。

 

 

人間至上主義に従って感情を信頼したおかげで、私たちは大小を払うことなく現代の契約の果実の恩恵にあずかることができた。私たちは、人間の力を制限したり意味を与えてくれたりする神を必要としない。消費者と有権者は断じて自由な選択をしていないことに私たちがいったん気づいたら、そして彼らの気持ちを計算したり、デザインしたり、その裏をかいたりするテクノロジーを一旦手にしたら、どうなるのか?

 

 

もし全宇宙が人間の経験次第だとすれば、人間の経験もまたデザイン可能な製品となってスーパーマーケットに並ぶ他のどんな品物とも本質的に少しも違わなくなったときには、いったい何が起こるのだろう?」

 

 

〇 …と、ここで、第二部が終わっています。第二部は上巻からの続きです。上巻を読まなければ、はっきりしないことがたくさんあると

思いながら読みました。第三部は、ここで触れられている、「消費者と有権者は断じて自由な選択をしていない」ということについて、具体的な例をたくさん挙げて、証明してくれています。

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・デウス(下) (第7章 人間至上主義革命)

「電気と遺伝学とイスラム過激派

 

二〇一六年の時点で、個人主義と人権と民主主義と自由市場という、自由主義のパッケージの本格的な代替となりうるものは一つもない。

二〇一一年に西洋世界で猛威を振るった「ウォール街を占拠せよ」やスペインの15M運動(訳註 二〇一一年、反緊縮を訴える市民がマドリードのプエルタ・デル・ソル広場を占拠した運動)のような社会的抗議行動は、民主主義や個人主義や人権に敵対するものでは断じてなかったし、自由市場経済の基本原理にさえ盾つくものではない。

 

 

むしろ正反対で、そのような自由主義の理想の実現を怠っているとして政府を非難する。

そして、市場を「大きすぎて潰せない」企業や銀行に支配させたり操作させたりしないで、本当に自由にすることを要求する。豊富な資金を持つロビイストや強力な利益団体ではなく一般市民のために尽くす真の議会制民主主義制度を求める。

 

 

自由主義のパッケージの粗探しがお気に入りの暇つぶしである欧米の学者や活動家も、これまでのところ、そのパッケージに優る者は思いつけずにいる。

中国は欧米の社会的抗議運動家よりもはるかに真剣に挑んでいるように見える。

 

 

中国は自国の政治と経済の自由化を進めてはいるものの、民主主義国家でもなければ、真の自由市場経済でもないそれにもかかわらず、中国は二一世紀の経済大国になった。ところがこの経済大国は、イデオロギーの影はほとんど落していない。中国人が昨今はなにを信じているのかを知っている人は、中国人自身を含めて誰もいないようだ。(略)

 

 

 

だから中国は現時点では自由主義の真の代替を提示してはいない。自由主義モデルに絶望し、その代わりとなるものを探しているギリシアによって、中国を真似るのは、見込みのある選択肢ではない。

 

 

それでは、イスラム過激派はどうだろう?あるいは、キリスト教原理主義や、メシアニック・ジュダイズム(訳註 ユダヤ教の伝統を保持したまま、キリストを救世主と信じる、ユダヤ人のキリスト教信仰)、復興主義のヒンドゥー教はどうか?(略)

 

 

神は死んだとニーチェが宣言してから一世紀以上過ぎた今、神は返り咲こうとしているように見える。だが、それは幻想にすぎない。神は死んだ。ただ、その亡骸の始末に手間取っているだけだ。イスラム過激派は、自由主義のパッケージにとっては、真の脅威ではない。なぜなら、狂信者ははなはだ熱烈ではあるものの、二一世紀の世界を本当には理解しておらず、私たちの周り中で新しいテクノロジーが生み出している、今までにない危険や機会について、当を得たことは何も言えないからだ。

 

 

 

宗教とテクノロジーはつねになんとも微妙なタンゴを踊っている。互いに押し合い、支え合い、離れすぎるわけにはいかない。テクノロジーは宗教に頼っている。(略)

 

 

だが、二〇世紀が立証したように、人はまったく同じ道具を使ってファシズムの社会も、共産主義独裁政権も、自由民主主義国家も生み出せる。宗教的な信念がなければ、機関車はどちらに進めばいいか決められない。

 

 

 

その一方で、テクノロジーが私たちの宗教的ビジョンの限界を定めることもよくある。ウェイターがメニューを私、客の食欲に対して境界を示すのと同じようなものだ。(略)

 

 

イスラム原理主義者は「イスラム教こそ答えだ」という決まり文句を繰り返すかもしれないが、その時代のテクノロジーの現実から乖離してしまった宗教は、投げかけられる疑問を理解する能力さえ失う。AIがほとんどの認知的課題で人間を凌ぐようになったら、求人市場はどうなるのだろう?(略)

バイオテクノロジーのおかげで親の望む特性を持つデザイナーベビーを誕生させ、豊かな人々と貧しい人々の間に前例のないほどの格差を生み出せるようになったら、人間社会に何が起こるのか?

 

 

これらの質問のどれに対する答えも、クルアーンシャリーアイスラム法)、聖書や「論語」には見つからない。なぜなら、中世の中東や古代の中国で、コンピューターや遺伝学やナノテクノロジーについて多くを知る人など一人もいなかったからだ。(略)

 

 

たしかに、何億もの人がそれでもイスラム教やキリスト教ヒンドゥー教を信じ続けるかも知れない。だが歴史の中では、たんなる数にはたいして価値がない。(略)一万年前、ほとんどの人は狩猟採集民で、中東のほんのわずかな先駆者だけが農耕民だった。とはいえ、未来はその農耕民たちのものだった。(略)

 

 

産業革命が世界中に拡がり、ガンジス川ナイル川揚子江をさかのぼって浸透して行った時にさえ、ほとんどの人は蒸気機関よりもヴェーダや聖書、クルアーン、「論語」を信奉し続けた。(略)

工場や鉄道や蒸気船が世界を埋め尽くしていく中にあってさえ、何億もの人が洪やダヤーナンダ、ピウス、マフディーの宗教的教義にしがみついた。

 

とはいえ私たちのほとんどは、一九世紀が信仰の時代だったとは考えない。先見性のある一九世紀の人物と言えば、マフディーやピウス九世や洪秀全ではなく、マルクスエンゲルスレーニンが頭に浮かぶ可能性の方がはるかに高い。そしてそれはもっともだ。(略)

 

 

では、洪秀全やマフディーがうまくいかなかったのに、マルクスレーニンが成功したのはなぜか?それは、社会主義的な人間至上主義がイスラム教やキリスト教の神学よりも哲学的に高尚だったからというわけではなく、マルクスレーニンが、古代の聖典と予言的な夢を詳細に調べることよりも、当時のテクノロジーと経済の実情を理解することに、より多くの注意を向たからだ。(略)

 

 

 

マルクスレーニンは、そうした欲求と希望に応えるために、蒸気機関の仕組みや炭坑の操業方法、鉄道がどのように経済を方向付け、電気がどのような影響を政治に及ぼすかを研究した。(略)

 

 

 

一九世紀半ばには、マルクスほど鋭い洞察力を持った人はほとんどいなかった。だから急速な工業化を遂げた国はわずかしかなかった。そして、これらの少数の国々が世界を征服した。ほとんどの社会はなにが起こっているかを理解しそこね、そのため、進歩の列車に乗り遅れた。(略)

 

 

 

二一世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンスと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。これに乗り損ねた人には、二度とチャンスは巡ってこない。この列車に席を確保するためには、二一世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を愛する必要がある。これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食料や織物、乗り物、武器の生産にだけ使われるわけではない。

 

 

 

二一世紀の首位ような製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人の間の格差は、ディケンズのイギリスとマフディーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に広がる。それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。二一世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に取り残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。

 

 

一〇〇年前には時代の先端を言っていた社会主義は、新しいテクノロジーにはついていいけなかった。レオニード・ブレジネフとフィデル・カストロは、マルクスレーニンが蒸気の時代にまとめた考え方にしがみつき、コンピューターとバイオテクノロジーの力を理解しなかった。それに対して自由主義者は、情報時代にずっとうまく適応した。

(略)

 

 

イスラム過激派は、社会主義者よりもずっと苦しい立場にありう。彼らは産業革命とさえまだ折り合いをつけられずにいる。遺伝子工学やAIについて当を得たことがほとんど言えないのも無理はない。イスラム教やキリスト教などの伝統的な宗教は、依然として世界に大きな影響力をふるい続けている。とはいえ、彼らの役割は今やおおむね受け身のものになっている。(略)」