読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

昭和天皇の研究 その実像を探る

「戦争制御における内閣の権限と、近衛の言い訳

 

この「天皇憲法」という問題で、自決前(昭和二十年十二月)に令息に渡した所感で、近衛は次のように回想を記している。

 

「日本憲法というものは天皇親政の建前で、英国の憲法とは根本において相違があるのである。ことに統帥権の問題は、政府には全然発言権がなく、政府と統帥部との両方を抑え得るものは、陛下ただお一人である。

 

 

しかるに、陛下が消極的であらせられることは平時には結構であるが、和戦いずれかというが如き、国家が生死の関頭に立った場合には障碍が起こり得る場合なしとしない。英国流に、陛下がただ激励とか注意を与えられるとかいうだけでは、軍事と政治外交とが協力一致して進み得ないkじょとを、今度の日米交渉(昭和十六年)においてことに痛感した」

 

 

これを読まれた天皇は「どうも近衛は自分だけ都合のよいことをいっているね」と不興気であったという。近衛のこの「言い訳」は確かに少々おかしいのだが、いまもこの「近衛の見解」と同じ見解の人が少なくない。なぜであろうか。(略)

 

 

明治憲法には、「統帥権」という言葉はない。統帥とは、元来は軍の指揮権であり、いずれの国であれ、これは独立した一機関が持っている。簡単に言えば、首相は勝手に軍を動かすことは出来ない。しかし、軍も勝手に動くことは出来ない。というのは少なくとも近代社会では、軍隊を動かすには予算が必要だが、これの決定権を軍は持っていないからである。

 

 

具体的に言えば、参謀本部が作戦を立案するのに政府は介入できない。しかしその作戦を実施に移そうとするなら、政府が軍事費を支出しないかぎり不可能である。動員するにも、兵員を輸送するにも、軍需品を調達するにも、すべて予算を内閣が承認し、これを議会が審議して可決しない以上、不可能である。

 

 

 

日華事変で近衛は「不拡大方針」を宣言した。しかしその一方で、拡大作戦が可能な臨時軍事費を閣議で決定して帝国議会でこれを可決させている。このことを彼自身、どう考えていたのか。(略)

 

 

チャーチルは「戦争責任は戦費を支出した者にある」という意味のことを言ったそうだが、卓見であろう。もちろんこのことは、この権限を持つ政府と議会の責任ということである。

 

 

 

天皇が直接に作戦を中止させようとしたことはある。これは昭和八年の熱河作戦に天皇が激怒され、奈良侍従武官長に「(大元帥の)統帥最高命令」で、これを中止させることは出来ないか、と言われている。奈良武官長はこれに対して「国策上に害があることであれば、閣議において熱河作戦を中止させることができる。

 

 

国策の決定は内閣の仕事であって、閣外のものがあれこれ指導することは許されない……」旨、奉答している。この答えは憲法に基づけば正しいが、これについては機関説の項(251ページ)で触れよう。(略)

 

 

 

この点から見れば、近衛が本当に「不拡大方針」を貫くなら、拡大作戦が出来ないように臨時軍事費を予算案から削れば、それで目的が達せられる。なぜそれをしなかったのか。彼にはそれだけのことを行なう勇気がなかった。というより軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向があった。

 

 

園遊会ヒトラーの仮装をしているが、翼賛会をつくり、ナチスの授権法のような形で権力を握って「革新政治」を行ないたいのが彼の本心であったろう。しかしこのお公家さんには、独裁者の能力はなかった、というだけの話である。

 

 

革命の狂気と”総括”

 

近衛には野心もあったし、暗殺への恐怖もあった。これは一面では無理からぬことで、当時は今から見ればまことに奇妙なファナティックな人間が横行していた。といってもそれは戦後にもあったことで、連合赤軍の右翼版と考えれば、そのファナティシズムはある程度想像がつくであろう。

 

 

 

ただ戦後と違う点は、それが軍人で武器を持っていた点である。そして彼らも同じように、軍人同士で”総括”し合っていた。そして”総括”は、昔も今も罪悪とは考えられず、それを行なったものに罪の意識がなかったのも似ている。彼らはともに同志を”総括”しつつ革命を目指した。

 

 

この奇妙な心理はドストエフスキーが「悪霊」で分析しているから詳説しない。(略)

 

 

日本はそうならず、現在のようになったのは、様々な要因があったが、その間に「鈍行馬車」の天皇がどのような役割を演じたかは、まことに興味深い問題だが、ここではまず、順序として、戦前の「連合赤軍的な狂気」とその狂気の中に彼らが抱いた「錦旗革命の夢」について記さねばなるまい。」

 

 

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「七章  「錦旗革命・昭和維新」の欺瞞  =なぜ、日本がファシズムに憧れ

       るようになったのか

 

ファシズムの台頭と、青年将校たちの憧れ

 

前述のように、天皇が摂政になられたのが大正十年(一九二一年)、その翌十一年、イタリアではムッソリーニの率いるファシスト黒シャツ党が有名な”ローマ進軍”を行ない、史上初めてファシスト政権が樹立された。

 

 

しかしこれがすぐに日本人の注目を集めたわけではなく、今でいえば中米の小国のクーデター騒ぎぐらいにしか受け取られなかった。そしてその翌年が関東大震災であり、日本自体が外国の動きに注意を払う余裕はなかった。(略)

 

 

このファシズムの影が、さまざまな形で日本に忍び寄って来るのは、昭和二年の金融恐慌、翌三年イタリア議会のファシスト独裁法可決、昭和四年のアメリカ株式市場大暴落とその影響を受けて生糸価格の暴落、つづく昭和五年の世界恐慌の波及による「昭和恐慌」といった内外の諸要因が、日本に作用しはじめたころであろう。ついで昭和八年、ドイツ議会は授権法可決によってヒトラーの独裁を承認した。

 

 

これで見てもわかるように、ファシズムは議会制民主主義と裏腹の関係にある。いわば国権の最高機関である国会が、その議決によってある人間に全権を付与したのだから、その人間は合法的に独裁権を持つという論理である。

 

 

この論理は必ずしも日本では通用しなかった。というのは総理の任命権は天皇にあったからであり、ここで当然に出てくるのは、天皇を動かせばファシスト政権が樹立出来るという発想である。それに、さらに「天皇は自らの意思を持たない玉または錦の御旗にすぎない」という発想が加われば、天皇を奪取すればよいということになる。これが青年将校が口にした「錦旗革命・昭和維新」の基本的な図式であろう。」

 

 

〇 議会制民主主義では、国権の最高機関である国会が、その議決によってある人間を独裁者にできる……、 でも、日本においてはそうはならない、天皇が更にその上にいるから…

ということなのでしょうか。でも、その天皇は「立憲君主」として議会の決定に従う君主であるので、結局、議会の決定を反故にすることはできない。

 

ここが、とてもわかり難いと思います。

「日本には天皇がおられて、総理の任命権は天皇にある」

議会が選出した総理を任命しないなどということは「立憲君主」としては不可能でしょう。でも、「本当は」天皇の方が上なのでしょう?だったら、任命しないということもありなのでは?と思うのが、普通では…と思ってしまいます。

 

とてもとてもわかり難い。

 

 

「かつての中国の大躍進のとき「ヨーロッパが三〇〇年かかったことを、中国では三〇年で行なう新しい道を発見した」といった意味の論調を読んだが、こういった傾向は、ヒトラーf、ムッソリーニ出現のときも変わらなかった。そして、いずれの場合も、ある面では確かに事実を報道していたのである。

 

 

たとえば、ムッソリーニが出現して、ローマから名物の乞食が姿を消した。ナチス・ドイツには失業者はない。ベルリンから名物の娼婦が消えた。大アウトバーンを建設している。国民車(フォルクス・ワーゲン)がいずれは一家族に一台行わたる。健康保険が完備していて病気になっても一銭もいらない等々。当時の貧しい日本人にアッピールしたのは、私の記憶している限り、以上のような点であった。

 

 

これらを、第一次世界大戦後の殺人的なインフレと疲弊を克服して、急速に成し遂げたヒトラーは、まさに「大躍進の奇蹟の人」に見えた。

そして、一方、自分の周囲を見渡せば、新宿のガード下に乞食がたむろしており、農村は疲弊して娘を娼婦に売り、町に失業者があふれている。病気になっても医療の保証はなく、肺結核にでもなれば本人死亡、一家離散である。(略)

 

 

 

相手は大躍進、日本は停滞と沈淪といった印象を多くの人が持った。もちろん政治にも経済にも奇蹟はない。ただ以上のような「報道された成果」の裏側に何がかを知らなければ、ただ素晴らしいと思うだけである。

若くて純粋、と言えば聞こえはよいが、隔離された特殊教育で純粋培養された世間知らずの青年将校が、以上のことに加えて、まことに颯爽と見えるナチス再軍備にも、強い共感を示しても不思議ではなかった。(略)

 

 

 

「今の陛下は凡庸で困る」

 

日時はあまりはっきりしないが、このころ秩父宮天皇に「憲法停止・御親政」を建言し、天皇は断乎としてこれを拒否されたらしい。というのは「本庄日記」に次のような記述があるからである。

 

「陛下は、侍従長に、祖宗の威徳を傷つくるが如きのことは自分の到底同意し得ざるところ、親政というも自分は憲法の命ずるところに拠り、現に大綱を把握して大政を総攬せり。これ以上は何を為すべき。また憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたるところのものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ずと漏らされりと」

 

 

この言葉は明治憲法発布のときの明治天皇勅語「朕及沈カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ」を遵守し、これを「破壊」するようなことは絶対にしないという宣言に等しい。

 

 

この記述で注意しなければならないのは、直接に本庄侍従武官長に言われたのではなく、侍従長に言われたことの伝聞だという点である。したがって「憲法停止・御親政」が秩父宮の意見なのか、そういう意見が青年将校の中にあると告げられたのか、この点は明確ではない。

 

 

秩父宮二・二六事件の首謀者の一人安藤大尉ときわめて親しかったから、その意見を伝えたことは充分にあり得るが、秩父宮自身がこれにどれだけの共感を持っていたかは明らかではない。(略)

 

 

社会主義国家社会主義(ナチズム)は上下を問わぬこの時代の流行であったから、秩父宮の上申は、無理からぬことと言ってよいかもしれぬ。

以上のように見れば、秩父宮が革新将校にある種の共感を持っても不思議はない。不思議なのはむしろ、まだ二十代の天皇が全く関心を示さなかったことであろう。

 

 

これにはさまざまな理由があろうが、天皇は幼児期から決して器用ではなく、図画や手工は不得手、またいわゆる文学青年の要素は全くなく、作文は苦手であり、また俊敏活発で要領のいい方ではなかった。簡単にいえば、巧みに時流に乗ったり、かつがれたりするタイプではない。この点、秩父宮とは正反対といってよく、小学校の頃の成績は秩父宮より天皇の方が悪かった。(略)

 

 

「陸軍の一部の者が「今の陛下は凡庸で困る」と言っているそうだが……」(「西園寺公と政局」)という言葉が出てくる。また前に触れた三月事件は橋本欣五郎中佐らの桜会グループと、大川周明国家主義思想家)が組んだクーデター計画だが、天皇を廃して秩父宮を擁立しようとした計画もあったという説もある。

 

 

さらに皇太子が生まれると、昭和十五年に天皇は「秩父宮は軽い戒結核で静養しており、私の万一の場合は、摂政は高松宮に願わなくてはならないと思う。それゆえ、高松宮(海軍中佐)を第一線勤務につけないようにしてほしい」と天皇は米内(光政)海相に言われたという。これは「憲法停止・御親政」の秩父宮が摂政になることを、予め封じられたと受け取ることも出来よう。(略)

 

 

そしてこの予測し得ない未来に対して、天皇はまことに「愚直」とも言いたい行き方で進んでいった。文字どおり「自分は憲法の命ずるところに拠り」なのである。この言葉が公表されていたら、当時の日本人はみな驚いたであろう。というのは、ほとんどすべての当時の日本人は、天皇が頂上と信じており、天皇が命ずることがあっても、何かが天皇に命ずるとは信じられなかったからである。

 

 

ここには教育問題もある。というのは戦前の義務教育では、憲法教育は皆無に等しかったからである。「憲法停止・御親政」という言葉は、天皇憲法を停止出来るという前提に基づいており、これは「天皇憲法以上の存在」と信じているが故に、はじめて口に出来る言葉だからである。」

 

〇 天皇制は、庶民にはとてもわかり難い。「立憲君主制」の天皇であろうとする天皇であるうちは、昭和・平成・令和…と今のような天皇制が続いていくのかも知れないけれど、万が一、「憲法停止・御親政」を意図する天皇になってしまった時、どうなるのだろう…と思ってしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「かたくななまでに憲法を遵守する姿勢のルーツ

 

天皇はしばしば「立憲君主として」という言葉を口にされ、また「憲法の命ずるところにより」とも言われている。そしてその私生活は、まことに生まじめなぐらい「教育勅語」の通りである。そしてその基本を「五箇条の御誓文」に置かれていた。

 

 

この「憲法遵守」は少々、「杓子定規」といった感じさえするほどで、近衛(文麿)などはそれに対してある種の”不満”さえ口にしている。これについて「倫理御進講草案」の中で「教育勅語」の解説を行っているが、その「国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ」のところで彼が語るエピソードがある。

 

 

もちろん全体の趣旨は、天皇がまず率先して「国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ」でなければ、国民に法律を尊重させることは出来ない、であるが、彼の挙げている例が興味深い。次にその例を記そう。

 

 

文化年間(一八〇四 — 一八年)、北海道エトロフ島にロシアの南下により事変起こり、幕府は御目付・羽太正養を蝦夷地奉行として、さっそく、かの地に赴かせた。正養は幕府の命を受けて急ぎ旅の仕度をし、種々の兵器・大砲を牽き、下総の国栗橋の関所に到着したが、あまり急いだために、通行券を置いてきてしまった。(略)

 

 

関守は、それは関所の規則に反すると言って受け付けない。正養やむなく、多くの供人、兵器・大砲を引き連れていったん江戸に帰り、通行券を持って再びその関を通り抜けた。

 

 

「この関守が高位の人に恐れず、法則を取って動ぜざると、正養が急変に赴く身にもかかわらず関所の規則に従いしとは、ともに遵法の道を守りしものというべし」

 

言うまでもなく杉浦は、この関守の態度を高く評価している。「そんな杓子定規に規則に拘泥して、そのためエトロフ島をロシアに占領されたらどうなるか」といった非難は「乱世の論理」であって、「守成の論理」ではない。

 

 

そして天皇はこの関守のように「明治憲法」を遵守して動こうとはしない。前述のニ・二六事件の処理と終戦の「聖断」は、憲法を考慮せずに純粋に政治的にのみ見れば、きわめて適切なもので、これを非難する者はいないであろう。ただ天皇御自身にとっては「立憲君主としての道を踏みまちがえた」のである。

 

 

こういう点で、どう見ても天皇は「憲政の王道を歩む守成の明君」ではあっても、「覇権的な乱世の独裁君主」ではない。」

 

 

〇 3.11の原発事故によって、多くの法律違反が行なわれました。「乱世」だったので、しょうがないということだったのでしょうが、今の安倍首相が平然と大っぴらに法律を破るのは、あの時を基点にしているように感じます。

ルールは、一旦無視されると、どこまでもルーズになってしまうのだと。

感じます。

 

どこかで、きっちり法律に則って、彼を刑務所に入れない限り、この国は、法律など一部の人間には何の意味も持たない、ただの飾り物になってしまいます。

 

 

天皇を「ロボット」と見做した人々

 

大正民本主義がそのまま戦後民主主義へと通じていれば、天皇は最も幸福な生涯を送られた君主ということになったであろう。だが、天皇が摂政に就任されたとき、早くも乱世の徴候が現れていた。

 

摂政になられたのは大正十年十一月二十五日、その二十日前に、原敬首相は、東京駅で中岡艮一に刺殺されていた。

この暗殺から二・二六事件まで、暗殺者やその背後にいる者には、共通した一つの誤認があった。

簡単にいえば彼らは、天皇を、「君側の奸」にあやつられているロボットと見ていたことである。

 

 

天皇絶対」と言いながらこれを「ロボット視」していた彼らの態度を、津田左右吉博士は鋭く批判しているが、これは天皇への最大の侮辱である。しかし信じた彼ら右翼は「君側の奸」さえ除けば、天皇は自分たちの思い通りのロボットになると思い込んでいた。一人格に対する之以上の侮蔑を私は知らない。

 

 

彼らは「天皇絶対」を口にしながら、天皇を「玉」とか「錦の御旗」とか表現し、平然と「物扱い」にしていた。(略)

 

 

天皇は彼らにかつがれるロボットではない。彼らがこのことを思い知らされたのは二・二六事件の時であった。そしてそうではないと知ったときの、「天皇への呪詛」はすさまじい。(略)

 

京都から九州へと敗走する足利尊氏に、この敗因は「錦の御旗」がなかったからであり、そこで光厳院を立てて「錦の御旗」を手に入れるようにと言ったのが赤松円心である。下剋上の時代に、彼がなぜこう言ったかは本書ではとくに追及しないが、それは足利時代がはじまるころのことであり、明治天皇は決してロボットではない。

 

 

そして明治大帝を模範とすることを、幼児期から叩き込まれた天皇が「君側の奸」のロボットであるはずはなかった。ただ、明治は「創業の時代」自分は「守成の時代」という任務の差をはっきりと自覚されていたということである。

 

 

 

帝国陸軍 —— 天皇に対し最も「不忠」な集団

 

表面的には敬意を払いつつ、内心では軽視している者は、彼らの他にもいた。何しろ即位された時の天皇は二十五歳であり、海千山千の連中から見れば、自分の子どものような若輩である。天皇が味わねばならなかったのは、家光と同じような「三代目」の苦労であった。

 

 

昭和三年、関東軍の一部による張作霖爆殺事件が起こる。(略)出先軍部の暴走を懸念された天皇田中首相に関係者の厳重処罰と軍紀の粛清を命じられた。ところが田中は陸軍の強い反対で軍法会議さえ開けず、行政処分の方針を報告したところ、天皇は激怒された。これは陸軍刑法から見れば「抗命罪」になるであろう。昭和戦前を通じて、天皇に対して最も「不忠」だったのは、実は陸軍だったのである。

 

 

岡田啓介回顧録」には、次のように記されている。

 

「田中はさきに陛下に、取り調べの上厳重に処罰します、と申し上げたてまえ、その後のことを御報告しなければならないので、参内し拝謁を願った。陛下は、田中が読み上げる上奏文をお聞きになっているうちに、みるみるお顔の色がお変わりになり、読み終わるや否や、「この前の言葉と矛盾するではないか」とおっしゃった。

 

 

田中は、恐れ入って「そのことについては、いろいろ御説明申し上げます」と申し上げると、御立腹の陛下は、「説明を聞く必要がない」と奥へおはいりになったそうだ」

 

 

陸軍大将から政友会総裁、ついで総理となった田中義一は、天皇よりも陸軍の意向を重視し、天皇を軽視して法律を無視した。しかしこれが田中内閣の総辞職となり、ついで田中義一の急死となると、天皇は、立憲君主として少し行き過ぎではなかったかと思われたらしい。(略)

 

 

不吉な兆候が、裕仁親王が摂政に就任された翌年に起こっている。ムッソリーニ率いられたファシスト黒シャツ党がローマに進軍し、ムッソリーニは首相になり、史上はじめてのファシズム政権が樹立された。

 

 

しかしこのことは、ほとんど日本では問題になれなかった。(略)

社会主義者国家社会主義者すなわちナチスに転換しやすいのは、別に不思議な現象ではない。スターリズムといわれる一国社会主義も、言葉を換えれば国家社会主義であろう。ナチススターリンの敵対関係は、一種の「近親憎悪」にすぎない。(略)

 

 

というのは、翌大正十二年には関東大震災があり、首都が壊滅した日本はそれどころではなかったからである。

 

 

 

しかし不吉な運命が、杉浦重剛山川健次郎も予期しなかった運命が、天皇の前にあった。何人も、自己の運命を予知することはできない。要はそれに対して、生涯を通じての「自己の規定」を貫き得るか否かである。」

 

 

〇 社会主義者ナチス国家社会主義)に転換しやすい、という説明が、

ショックでした。

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「「売家と唐様で書く三代目」

 

この「憲政の王道を歩む守成の明君」を育てるという杉浦の方針は相当に徹底したもので、「草案」で日本の例を挙げる場合、信長・秀吉・家康は、その表題にはないが「徳川家光」は出てくる。理由は明らかで、彼は家康から三代目、天皇もまた明治天皇から三代目だからである。(略)

 

 

もっとも、これ以外にも彼はしばしば「三代目」について語っており、「徳川家光」の末尾でも次のように記している。

 

 

「かつても申し述べたる所なるが、「売家と唐様で書く三代目」といえる俗諺あり。その意味は、父祖が苦心して積み上げたる家屋なれども、三代目ごろに至りては、その苦痛を知らず、新奇を好み、柔弱に流れ、終に家を傾け産を破るに至るをいうなり。これ最も恐るべく慎むべきなり。家光が如きはこれに反し、三代目にして能く父祖の事業を大成したるもの、また偉なりとすべし」

 

 

 

戦前、尾崎咢堂(行雄)の「三代目演説事件」というのがあった。(略)

もっとも尾崎咢堂は「天皇は三代目だから……」と言ったのではなく「国民が三代目で……」と言っており、その主眼はむしろ「憲政擁護」なのだが、これについては後述する(十章)。

 

 

これはひとまず措き、いわゆる「三代目問題」は、杉浦が折に触れてしばしば「述べたる所」であり、天皇は三代目の問題をよく知っていた。簡単にいえば、初代以来の功臣との関係である。これには二つの面がある。

 

 

一つは三代目自身が、何となく「位負け」を感ずる創業の功臣、いわば経験者を遠ざけ、同年輩の気の合う「イエスマン」を集めたがる傾向があること。典型的なのは「反面教師」ウィルヘルム二世で、彼はビスマルクを免職にして若い連中を周囲に集めた。(略)

 

 

第二が、創業の功臣の側の「若き当主」への「面従腹背」である。一応はたてまつっているが内心ではバカにしており、心服はしていない。家光も天皇も同じような問題を抱えており、これが最もひどかったのは実は陸軍であった。口では天皇絶対などと言いながら、陸軍の天皇無視は前述のように天皇自らが「大権を犯す」と憤激するほどひどかった。(略)

 

 

三代目・家光にみる「守成の勇気」

 

では以上の、三代目が宿命的に遭遇せざるを得ない状態に、家光はどのように対処したか。若き家光酒井雅楽頭(家康、秀忠に仕えて来た重臣。本名忠世)を嫌い、彼の家だと言われると顔を背けて通るほどであった。ところがあるとき秀忠に呼ばれて言われた。

 

「「将軍(家光)には雅楽が気に入らぬとな。彼は東照宮(家康)このかたの旧臣え、天下大小の政事に熟練しぬれば、大統(将軍位)を譲らせ給うにそえて、彼を進らせぬ。さるを気に入らぬとあるは、御身の我意というものなり。天下を治るものは我意はならぬものぞ」と」

 

 

家光はこの言葉を聞いて後悔し、忠世(雅楽頭)を召して言った。

「「今日はご隠居様よりことのほか御勘事(おとがめ)あり。よく思いめぐらせば、汝が天下の政道を大事と思いていう詞を、われ悪しざまに聞ぬるは、今さら悔いても甲斐なし。この後はなおさら思う所残さず聞こえ上げよ」」

と言って彼を優遇したという。

 

 

 

興味深いことに、天皇が最も信頼していたのは明治維新の経験者、また日露戦争の経験者で、慎重な意見の持ち主であった。前者の代表と言えば西園寺公望(元老、一八四九 — 一九四○年)、後者の代表は鈴木貫太郎(一八六七 — 一九四八年)、すなわち終戦の「聖断」の時の総理である。

 

 

天皇はその「聖断」について、一章でも紹介したとおり、「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、この事が出来たのだと思っている」と言われている。天皇はこの点、ウィルヘルム二世の逆であり、天皇と同年輩の青年将校にかつがれるようなことは絶対になかった。(略)

 

第二が「若き当主」への先代の功臣の面従腹背である。(略)

これに対して家光は、諸侯に対して、俗にいう「生まれながらの将軍」の宣言をし、「これを以て他日さらに君臣の義を用い、衆(諸侯)を遇せんと欲す。(略)

 

 

目の前で与えた刀を抜かせる。誰か一人でも、家光を殺そうと思えば殺せる。

「衆みなその宏度(広い度量)に服したりき」と彼は記す。

簡単にいえば「守成の勇気」は「創業の勇気」と同じではないということであろう。信長は確かに勇敢だが、その勇気の質は家光と同質ではない。そしてこの勇気がないかぎり守成はむずかしい。簡単にいえばそれは、マッカーサーの所に行き "You may hang me" と言える種類の勇気であろう。(略)

 

 

昭和五十四年の記者会見で、天皇は「ジョージ五世は私に親しくイギリスの立憲君主のあり方を話してくださった。その時以来……」と言われているが、そこに自らの模範を見られたのであろう。言うまでもないがイギリスには成文憲法はなく、政局の運営はすべて慣例に基づいて行われている。

 

 

 

天皇はおそらくここに、確立された「憲政の運用」を見られ、それを理想とされたのであろう。天皇明治憲法とそれに基づく慣例によって、すべてが整然と運営される方向へと目指された。その方向に行こうというのがおそらく天皇の自己規定である。」

 

 

 

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「重剛、天皇ロシア革命の真因を説く

 

次の「ペートル大帝」は、ほぼ称賛の対象になっているが、北方戦争で今のレニングラード附近をスウェーデンから奪取して海への出口を確保したことはわずか二行にとどめ、その内容はほとんどが、いかにして西欧の科学技術を導入したか、そしてそのために、どれだけ労苦を惜しまなかったかで占められている。(略)

 

 

記述はまだまだつづき、英国からオランダ、オーストリアfのウィーンなどの視察・研究旅行の記述がつづく。このロシアの西欧先進国の科学・技術の導入を、杉浦は、明治と重ね合わせて説いているように見える。そのようにして、十八世紀に近代化の歩みを進めていたロシアがなぜ、現代(第一次大戦当時)のような状態になったか。ここで杉浦は「守成」のむずかしさへと進む。

 

 

「以上述べたる所にて、ほぼペートル大帝の人となりを知ることを得べし。大帝の性格・行為もとより欠点あるをまぬがれず。しかれども国家のためには身を労し、思いを焦がし、千辛万苦を辞せず、非常なる忍耐と勤勉とを以てロシアの面目を一新し、その隆盛の基を開きたるは、真に大帝の称に愧じざるものというべし。(略)

 

 

想うに国家は国民の団結鞏固なる時は、すなわち強大を致し、団結薄弱なる時は、すなわち国力また薄弱なるを免れず。ロシアの如きは、今日国家の運命を決すべき大戦に際して内部にかくの如き騒乱を来す。これ国民が協同一致の精神において欠如する所あるがためなり(略)

 

 

ロシアに人の和なし。これロシアのために悲しむべき状態を来したる所以なり。

さらば人の和を得るの道如何。詳細にこれを述べんとすれば、すこぶる多端にわたるべきも、その要旨を約言すれば、すなわち上に立ちて政を施すものは能く民を愛してその幸福の増進を謀るべく、下にあるものは能く上を敬いて国家に忠なるべし。もし能くかくの如きを得ば、愛情自ずから生じ、上下を連結し、以て永遠にその、いわゆる人の和を保つべし。いずこにか、破綻を生ぜん。(略)

 

 

 

杉浦はこれを漢文で引用しているが、現代文に訳せば次のようになる。

まずこの問いに、宰相房玄齢が答える。

 

「創業の時とはいわば乱世で、群雄が競い起こります。それを次々に討って降伏させ、いわば勝ち抜き勝負でこれを平定しました。こういう点から見れば創業の方が困難です」と。

 

 

これに対して諫議大夫(天子を諫め、政治の得失を論じた官)の魏徴は次のように言う。

「新しい王朝が起こるのは、〔いわば「継承的創業」であって〕必ず前代の失政による衰え・混乱の後を受け、そのようにした愚鈍で狡猾なものを打倒します。すると、人々は新しい支配者を推戴することを喜び、一応、天下がこれに従います。

 

 

これが「天授け人与う」(「孟子」)であって、天から授かり、人々から与えられるのですから、それほど困難とは思われません。しかし、それを得てしまうと、驕りが出て志向が逸脱します。すると、人々が平和と安静を望んでいるのに課役がやまず、人々が疲弊・困憊しているのに、支配者の無駄で贅沢な仕事は休止しません。国の衰亡は、常にこれによって起こります。こう考えますと、守成の方が難しいと思います」と。

 

 

天皇は別に無駄も贅沢も欲しなかったが、軍部のみならず、一部の国民も身分不相応ともいうべき「軍備」という無駄を欲していた。杉浦はつづける。

 

 

「創業守成ともに難し。秀吉・家康の如きは創業の偉人なり。しかれども豊臣氏は二代にして早く亡び、徳川氏は十五代三百年の久しきを保てり。これ守成の良否如何によるものなり。後の人たるもの鑑みざるべけんや」

 

 

これもまた、ロシアはペートル大帝の超人的努力により大きな躍進を遂げながら、後継者にその成果を守り育て発展さす守成の人がいなかったから破滅した、というのが杉浦の結論である。」

 

〇 太文字部分は、心に沁みます。何故安倍政権とその支持者は、こんなにも、軍備を増強するのか。防衛費がどんどん膨らんでいます。人々が平和と安静を望んでいるのに…。

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

「六章  三代目 —— 「守成の明君」の養成  

  = マッカーサー会談に見せた「勇気」は、どこから来たか

 

「「創業と守成のいずれが難き」

一人間の生涯を考えると、すべてが幼少時の予定どおりにいったという例は皆無に近いであろう。これは天皇とても例外ではない。天皇の自己規定に大きく寄与したと思われる教育者に、明らかに共通している傾向があった。それは若き裕仁親王を、「憲政の王道を歩む守成の明君」に育てようとはしても、決して「覇権的な乱世の独裁君主」に育てようとはしなかったことである。(略)

 

 

戦争であれ革命であれ、これは常に体験者が抱く矛盾した感慨だが、この矛盾は「あの苦しみを二度と体験しないためには、その成果を確実に守れ」という形になる。それが「守成」であろう。

 

 

貞観政要」(唐の太宗と群臣たちとの問答をもとに、政治の要諦を説いた書)の「創業と守成といずれが難き」は有名な言葉だが、この唐の太宗の問いに魏徴が答えているように、守成の方が創業より難しいと言って過言ではない。この「貞観政要」が、「倫理御進講草案」でも採り上げられていることは、「目次」を見ると分かるが、残念ながら本文は残っていない。(略)

 

 

以上のほかに、天皇が教育を受けられた時代も考えてみなければならない。学習院初等科への御入学が明治四十一年、東宮御学問所での授業開始が大正三年、以後七年間ここで学ばれ、ついでイギリスにご外遊、ジョージ五世とイギリスの憲政に深い感銘を受けられ、帰国されて大正十年摂政宮となられ、実質的に政務をお執りになっている。(略)

 

 

議会制度はやや軌道に乗り、「憲政の常道」で議会の多数党の党首に大命が降下するというイギリス的ルールが、確立しそうに見えた時代であった。

維新を生き抜いて来た教育者たちは、これでやっとその成果を守り、その枠内で将来の発展を目指せる「守成の時代」が来たと感じたであろう。ライシャワー博士の持論のように、民主主義は戦後とともに始まったのではなく、軍部により中断された大正自由主義の再生と見るなら、戦後こそ天皇への教育とそれに基づく天皇の自己規定の生かされていた時代と言えるであろう。

 

 

 

外国の皇帝の中で、杉浦が採り上げているのは、前記の反面教師ドイツ皇帝ウィルヘルム二世とナポレオンとペートル大帝の三人だけだが、そのそれぞれに対する杉浦の批評は興味深い。(略)

 

 

さらに、彼は「生まれながらの王者」ともいえる人であったと、次のようなエピソードを紹介している。

 

「提督エデンが未だ少尉なりし時、提督某に伴われてセンtノヘレナに至りて、ナポレオン(原文は「那翁」、以下同)に謁したる時の感想を語りて曰く「ナポレオンは提督と談笑して後、予を顧みたり。予はこのとき始めて、「生まれながらの王者」といえる句の意味を了解したり。

 

 

予は悪魔を憎むが如く仏人を憎めと教育せられたる英人なり。しかれどもナポレオンが予に一顧を与えたる時、彼が威容は荘厳にして威力あり。彼もし予に命じて、伏せ、われ汝の上を歩まんと言わば、われは英国人なりとも、直ちに彼が命令に従いて伏したるならん。ナポレオンの顔色は、その人物の黙示にしてまた精力の表現なり。彼は実に命令せんとて生まれたるものなり。云々」と」(略)

 

 

言うまでもなく、彼の結論は「徳を以て守る所」すなわち「王道的な守成」が出来なかったが故に稀有の才を持ちながら破滅した、である。この点、ナポレオンは天皇にとって、一面教師・一面反面教師であった。(略)

 

 

天皇の書斎にリンカーンダーウィン、ナポレオンの胸像が常に置かれていたことはよく知られているが、ナポレオンが置かれているのは、以上の理由と、もう一つ、すでに記した戦争中も敵国の科学者を厚遇したことであろう。」

 

 

 

 

 

昭和天皇の研究 その実像を探る

天皇退位の決定権は誰にあるか

 

この「反面教師」と天皇とを比べていくと、さまざまな点で、その行き方が全く逆なことに気づく。だがそれについては、後述するとして、敗戦のときウィルヘルム二世はすべてを投げ出すようにして退位し、オランダに亡命したことと、その意思が全くなく、逆に、自らマッカーサーのもとへ出頭した天皇とでは「責任の取り方」が全く違ったといえる。

 

 

 

天皇は明らかに退位を考えており、それに関するご発言は四回あるが、そのいずれを見ても、いわば「逃げる気」は全くない。すでに述べたように終戦の八月二十九日の「木戸日記」に見えるお言葉は、「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして……」である。

 

 

 

さらにマッカーサー会談の”You may hang me."は、もちろん退位を前提としたお言葉であろう。次が二十一年一月四日、藤田侍従長の回想に次のようにある。天皇公職追放令に驚いて言われた。

 

 

「随分と厳しい残酷なものだね。これを、このとおり実行したら、いままで国のために忠実に働いてきた官吏その他も、生活できなくなるのではないか。

藤田に聞くが、これは私にも退位せよというナゾではないだろうか」(略)

 

 

もう一度、すなわち四回目が、昭和二十三年十二月二十四日の「朝日新聞」の記事である。このころ、すでに十一月の十二日に極東軍事裁判A級戦犯二五人に有罪の判決を下し、十二月二十三日、東条英機ら七人の私刑が執行された。これと関連して天皇の戦争責任問題が、いわゆる進歩的文化人の意見発表や世論調査の結果などで連日報道され、退位問題がピークに達したときである。朝日新聞は次のように報じている。

 

 

「ある著名な人から天皇制護持のためにも退位を可とするという内容の著書が差し出された時、陛下は「個人としてはそうも考えるが公人としての立場がそれを許さない」という意味のことを洩らされた。(中略)

 

 

さらに「国民を今日の災難に追い込んだことは申し訳なく思っている。退くことも責任を果たす一つの方法と思うが、むしろ留位して国民と慰め合い、励まし合って日本再建のため尽すことが先祖に対し、国民に対し、またポツダム宣言の主旨に副う所以だと思う」と述べられたそうである」

 

 

 

この「公人としての立場」「ポツダム宣言の主旨に副う」とは具体的に何を意味しているのであろうか。マッカーサーポツダム宣言に基づき天皇を含む日本政府を接収しており、「公人として」の天皇は、勝手に退位するわけにいかない。御巡幸をはじめとする天皇の行動はすべて、マッカーサーの許可の下に行われている。さらにマッカーサー天皇が「私自身をあなたの代表する諸国に委ねる」と言ったと受け取っているし、天皇は確かに、そう受け取り得る言葉を口にしている。(略)

 

 

 

「捕虜の長」を充分自覚されていた天皇

 

時々日本には妙な発言をする人が出てくる。その人は日本が占領下にあることを忘れて、在位も退位も天皇が自由に出来ると思い込んでいたらしい。のんきな話である。

 

 

というのは、マッカーサーは日本全部を捕虜にしたと考えており、捕虜なるがゆえに「米陸軍の予算を使ってかつての敵を養うこと」は当然だと、米下院歳出委員会の疑問に対して次のように答えているからである。

 

 

 

「……われわれは勝利にともなう責任で、日本人を、捕虜として引き受けた。それはかつてバターン半島が陥落した時、われわれの飢えた将兵が、日本軍の捕虜となった時と少しも変わらない。こんどは立場が逆になったが、戦争はもう済んでいる。もし、われわれが今、このせまい島国に閉じ込められて、われわれに監視されている日本国民に、生命をつなぐだけの食糧も与えることを怠るなら、われわれがとった懲罰行為(「バターンの死の行軍」への戦犯処罰」は、果たして正当化できるであろうか」

 

 

 

マッカーサーにとっては、天皇は、「捕虜の長」にすぎない。したがってすべて彼の思うままであり、戦犯逮捕の際、天皇を退位させたほうが占領政策に有利だと考えれば、それは即座に出来たであろう。彼は天皇の言質を取っている。おそらくマッカーサーは、天皇という「捕虜の長」とその言質との両方を「人質」にして、占領政策を進めるのが有利と考えていたであろう。

 

 

 

そして天皇御自身のお言葉から考えれば、天皇もまた自らが「人質」であることを自覚されていたと思われる。(略)」

 

 

〇 以前にも書きましたが、私の母の世代の人々から聞いて、とても印象的だった言葉があります。「戦争に敗けて本当に良かった。敗けてアメリカに支配されたから、私たちは幸せになった。」という言葉です。

 

敵に敗けたのに、その敵を憎まず、むしろ敵に占領されている状況を喜ぶのはなぜか。

このことについて、山本氏は、どこかに書いていたと思います。

日本は、一般庶民を軍部が支配するという形になっていた。一般庶民からすると、支配者が軍部からアメリカに代わっただけであり、その軍部による支配があまりにも酷かったので、アメリカに対する抵抗運動などは、起こらなかったのではないか、と。(どこにあったのか、見つけることが出来ず、記憶で書いているので、違っているかも知れません。)

 

今の安倍政権が、昔のように庶民を支配しようと、スジも道理も倫理も無視するやり方を見ていると、あのような人々に支配されるのは嫌だ!と大声で叫びたくなります。私たちはもう老人ですが、子や孫が可哀そうでたまらない…。

 

 

※「バターン死の行進」については、山本七平著「一下級将校の見た帝国陸軍」に載っていましたので、引用します。

 

「日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのは当たり前であった。そしてこれは単に行軍だけではなく他の面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れることは、はじめから計算に入っトル」と。」

 

〇残虐行為として処罰された「バターン死の行進」よりも、もっと酷い行軍を日本兵は日常的にさせられていたと書かれています。