読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

〇 白井聡著 「国体論 ー菊と星条旗— 」を読んでいます。

まだ読み始めたばかりなので、先ずは読み終えることを目標に読んでいきます。白井氏は「主権者のいない国」という本も書いていて、いつかそれも読んでみたいと思っているのですが、読めるかどうかという問題もあるので、先ずは、この薄い本から、と思います。

 

「序 ーなぜいま、「国体」なのか

(略) 「戦前の国体」とは何であったかと端的に言えば、万世一系天皇を頂点に戴いた「君臣相睦合う家族国家」を理念として全国民に強制する体制であった。
この体制は、「国体」への反対者・批判者を根こそぎ打ち倒しつつ破滅的戦争へと踏み出し、軍事的に敗北が確定してもそれを止めることが誰にもできず、内外に膨大な犠牲者を出した挙句に崩壊した。

 

 

単なる敗戦ではなく無惨極まる敗戦は、「国体」の持っていた内在的欠陥、その独特の社会構造が然らしめたものにほかならなかった。

そのようなものとしての「国体」と手を切ったのが、敗戦後の諸革命を経た日本であり、現代のわれわれの政治や社会は、「国体」とはおおよそ無縁なものになっている、というのが一般的な認識であろう。

 

 

しかし、筆者は全く逆の考えを持っている。現代日本の入り込んだ奇怪な逼塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が「国体」である。(略)」

 

〇 福島の事故を経験しても、原発による発電のデメリットの大きさを見ようとしない人の多さ。安倍政治による不公正さや犯罪的行為を次々とを突きつけられても、なお、自民党を支持し続ける人の多さ。コロナ禍でPCR検査や感染者の早期隔離の必要性が叫ばれても、一向に手を打とうとしない政府を、それにも関わらず、支持し続ける人の多さ。

 

そして、これほどの感染拡大の危機の中、今もオリンピックをやめるという決断が出来ない政府と、その政府を支持する国民。もしくは、何もしない、沈黙するという態度で、政府のやり方を追認している国民。

 

これは、日本人の体質によるものなのだろう、と絶望的な気持ちになっています。

でも、ここで、白井氏は、「日本の入り込んだ奇怪な逼塞状態を分析・説明することのできる唯一の概念が「国体」だ」と言っています。

どういうことなのでしょうか。

 

「(序のつづき)

本文で詳しく見てゆくが、「戦前の国体」が自滅の道行きを突っ走ったのと同じように、「戦後の国体」も破滅の途を歩んでいる。「失われた二〇年」あるいは「三〇年」という逼塞状態は、戦後民主主義と呼ばれてきたレジームの隠された実態が「国体」であったがためにもたらされたものにほかならない。

 

 

その果ての破滅がどのようなかたちで生ずるかは、不確定要素が多いため、誰にも確言はできないだろう。(略)

 

 

真珠湾攻撃当時の日本が戦場では勝利していたにもかかわらず本質的には破滅していたのと全く同じ意味で、われわれの今日の社会はすでに破滅しているのであり、それは「戦後の国体」によって規定されたわれわれの社会の内在的限界の表れである。(略)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パンとサーカス

島田雅彦著「パンとサーカス」が朝刊で連載されています。

2020年8月からの連載で今も継続中です。

第一回目がとても印象的でした。メモしておきたいと思います。

抜き書きは「」で、感想は〇で記します。

 

「三千世界には多様な有象無象が生息し、それぞれの生息域で右往左往している。その生態を今地上に降りてきたエイリアンのように観察しているのが詩人である。詩人は老人や廃人や病人や変人の仲間だが、偉人や賢人、美人、聖人の友人でもある。

 

 

誰もが素通りするぼんやりとした隙間で謙虚に目立たないように暮らしながら、世間を斜めから見て、裏から探るのが趣味かつ仕事。

 

 

この狂った世界、クソな社会を生き延びるには特殊技能が必要だが、詩人はあいにく生存に有利なことが苦手だ。詩人は自由人の代名詞であるが、食えない奴という意味でもある。基本、政治家も官僚も会社員も反社会勢力も組織や他者に寄生して生きていくしかないが、その枠からはみ出した者は「自由の刑」として棄民扱いになる。

 

これまで幾度となく死にかけたが、その都度、辛くも生き延びてきた。半分死んでいる奴は意外としぶとい。本籍は黄泉の国ということにしておく。栄養源はハムカツとキャベツで、この世の住まいはパチンコ店の片隅だったり、川べりのブルーシート・ハウスだったり、居酒屋の小あがりだったり、ネットカフェだったりと日替わりだが、シャワーは毎日浴びている。酒も毎日飲んでいる。

 

 

詩人は救いの神や運命の女神や死神とも縁があり、時々、彼らからメッセージをもらったり、それを誰かに伝えたりしている。

 

 

世界は自分を中心に回っていると思い込んでいる人の数はびっくりする位多いが、地球は勝手に時速一七〇〇キロで回っていることに気づけ、といいたい。みんな振り落とされないように必死に地面にへばりついている。卑怯なへばりつき方、崇高なへばりつき方、投げやりなへばりつき方、可愛いへばりつき方など、人によって様々で、詩人はその様態を他人事として見ている。

 

 

誰も詩人には関心を払わないが、彼は誰に対してもフレンドリーで、密かにみんなの弱みを握っている。誰も読まない詩を書きながら、世界を少しずつ修正する。誰も聞かない歌を裏声で歌いながら、狂った世界をチューニングし直す。詩人には何種類かの名前があったが、一番よく知られているのは「黄昏太郎」という渾名だ。

 

 

誰も本名は知らない。知った所で何の意味がある?名前なんて服と同じでTPOに応じて変えるものだ。」

 

〇 島田雅彦氏の名前は知っていました。何度か著書を読もうとしたこともあります。

でも、読めませんでした。何故読めないのか自分でもよくわかりません。

一つ思うのは、登場人物とその周りの空気が、私には縁遠い世界に感じられてしまう、ということです。

 

縁遠くても、自分の知らない未知の世界の空気を楽しめばいい、と思うのですが、厄介なのは、その世界の空気を吸うと、何となく心がヒリヒリ痛みを感じるのです。つまりその世界は、私にとって、入りたくても入れなかった社会の象徴のような世界に思えるのです。

 

 

この感覚は、島田氏だけではなく、他の著者でも感じます。物語だけでなく、テレビドラマなどでも感じます。「劣等感が刺激される空気」を吸うのが嫌になって読むのをやめ、見るのをやめます。

ちょっと精神的ひきこもりでしょうか。

 

でも、この「パンとサーカス」は頑張って読もうと決心しました。

今の私たちの社会、本当に何とかしなければダメだと思うのです。

なるようにしかならない。どうせ何もできない。

 

 

…………そうなのかもしれないけれど、

何とか出来ないか、今はこんなに絶望的でも、私たちは案外その気になれば、出来るのでは?と思う気持ちが私の中にはあります。

 

そして、この小説はそんな気持ちがテーマになっているように感じました。

 

3月28日分(233回)をメモします。

 

 

「脅迫もせず、犯行声明も出さず、沈黙理に事を進め、捜査の手がかりを一切与えない。計画段階から、空也はこの方針を徹底した。誰が何の目的で暗殺を実行したのか、ヒントが全くない中、ネットでは様々な憶測が飛び交っていた。謎が多いほど、好奇心は刺激され、野次馬は盛り上がる。だが、暗殺事件が世直しの序章だということに気づいた人はほとんどいない。内部告発の連鎖反応が起き、同時進行でさらなるテロを実行すれば、いくら鈍感な人間でも気づくだろう。

 

 

検事総長の暗殺は、検察庁の腐敗や政権との癒着に対する異議申し立てであり、最大手の広告代理店とのパイプ役の秘書官の暗殺は政権批判を忘れたマスメディアへの警告であり、そして、日米同盟の守護者であるアジア政策研究センター長の暗殺はアメリカへの隷属を拒否する示威行動であったということはもう隠しようがない。水面下で革命は進行していると敏感な人々は噂し始めた。

 

 

これまでも世直しの大義を叫ぶ人間はいくらでもいた。彼らは目の前で起きている現実の出来事に便乗して、自分たちの主張は正しかったと言い出すだろう。だが、もっとも正しく世直しの大義を唱えているのは、ほかならぬマリアだった。連続暗殺事件が起きるずっと前から、彼女の赤い手帳には反乱を焚きつけるコトバ、メシア降臨の預言が記されていた。彼女はホームレスに身をやつし、イソノミアの路上でそれらのメッセージを発信し始めていた。

 

 

長い歴史を振り返っても、この国が自発的に変わろうとした例はない。いつだって外圧頼みだった。戦国時代も、明治維新も、敗戦も。今度こそ自分の手で歴史を塗り替えたらいい。カミカゼ・ドローンで空襲をかましたら、政権交代くらいは起きるはずだ。

 

 

限られた少数者の利益に奉仕する政権を、利益に与れない多数者が支持するという茶番がもう何十年も続いていた。「絶対多数のアホが突然賢くなることはない」と多くの知識人は諦めている。デモに参加することさえ躊躇する一般市民が反乱や暴動に加担することはないだろう。逆にその取り締まりを強化しろと主張するに違いない。

 

 

自らの手で自由を勝ち取ろうとするより、政府に服従するから、見返りをくれという者の数が圧倒的に多い。自由よりも管理の徹底を求める自発的服従者たちから見れば、内部告発者も悪性の批判者もテロリストも皆、異端だ。」

 

 

〇 社会を変えたいと強く願い、ただ願うだけではなく行動した人々がいた時代がありました。私が知っているのは、学生運動が激しかった ’60年~’70年頃のことです。でも、その後、あの連合赤軍事件が起こり、結局「革命」だとか「テロ」だとかの方法には、正すべき相手を打ち負かす前に、自分たちが自滅してしまうような、強烈な毒があると知りました。

 

どんなに変えたくても、暴力で変えようとするのは間違っていると。

 

でも、今の私たちの社会は、民主主義の型だけはあるけれど、実質が伴わない、

骨抜きの民主主義国家になっています。

為政者、管理者たちが、平然と民主主義を破壊し、法治社会を壊し、モラルを崩しています。

そのやり方が、暴力やテロを誘発しています。

この物語は、そう警告しているように聞こえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カジュアル・ベイカンシー

J・Kローリング著 「カジュアル・ベイカンシー ―突然の空席―」

について少しメモしておきたいと思います。

 

ハリー・ポッターがあまりにも面白く、すっかりローリングさんに魅せられてしまったので、もっと何か読みたくなって、この本を読みました。

読み終わったのはもうずいぶん前なのですが、「ハリー…」を二回読んだので、この本についても、少し感想を書いておきたいと思いました。

 

本からの抜き書きは「」で、感想は〇で記します。

 

「午後二時限目の始まる時間、スチュアート・”ファッツ”・ウオールは学校を出て行った。なにも、急に思い立ってずる休みをしたわけではない。この日最後の二時間授業のコンピューター演習をサボることは、前夜のうちに決めてあったのだ。(略)

 

 

大の親友同士であるファッツとアンドルーは、相手に対しておそらく同じ程度のあこがれや賛嘆の気持ちを抱いているはずだが、ファッツにかぎっては、アンドルーが自分を求める気持ちより、自分がアンドルーを求める気持ちの方が強いのではないかと思っていた。最近、ファッツは自分のそんな依存心を弱さの表れと考えるようになっている。(略)」

 

 

「人間が侵す過ちの九十九パーセントは、ファッツの見る限り、あるがままの自分を恥じることだ。あるがままの自分を偽り、別の誰かになろうとすることだ。正直さがファッツのトレードマーク、彼の武器であり防御の楯だった。正直さは人を怯えさせる。衝撃を与える。

 

 

ほかの人間は当惑と見せかけの中でのたうち回り、自分たちの実態が漏れ出すのではないかと怯えている。けれども、ファッツはむき出しのもの、醜くて、そのくせ正直なものすべてに惹きつけられ、自分の父親のような輩が屈辱と嫌悪を覚える汚いことやものに惹かれている。

 

 

ファッツは救世主たちと賎民(パリア)たちのことをさんざん考えている。狂人と、あるいは犯罪者とレッテルを貼られた人たち、寝ぼけた大衆に遠ざけられる高貴な不適格者たちのことをいつもいつも考えている。

 

 

困難なのは、、名誉なのは、本来の自分でいることだ。たとえその自分が残酷だったり危険だったりしたとしても。残酷だったり危険だったりするならば、なおさらのこと本来の自分でいるのはむずかしいけれども名誉あることだ。

 

 

たまたま自分がけだものだったとするなら、それを隠さずにいるのは勇気がいる。だからといって、実際以上にけだものであるふりをすることは避けなければならない。そんなことをすれば、誇張やごまかしが始まり、もう一人のカビーになってしまう。カビーと同じくらい噓つきに、偽善者になってしまう。

 

 

 

本物であること(オーセンティック)と本物でないこと(インオーセンティック)は、ファッツがよく使う言葉だ。ただし、頭の中で。彼にとってそのふたつはレーザー光線のような厳密な意味合いを持つ言葉だ。彼はその言葉を自分自身と他人にきわめて厳密に適用する。

 

 

ファッツは自分には本物の特性が複数ある、だからそれを伸ばし、磨き上げねばならないと決めていた。しかし、同時に、自分の思考習慣の一部は不幸な育ち方の不自然な産物で、だから、それは本物ではないから、追放されるべきものとも考えていた。最近の彼は、自分がこれは本物と思う衝動にしたがって行動する実験をしていて、それによって生まれそうな罪悪感と恐怖(本物でない)は無視したり押さえつけたりしてきた。

 

 

しかも、それは、明らかに、練習によってだんだん容易になり始めていた。彼は内面を鍛え上げたかった。無敵になりたかった。結果を恐れる気持ちから自由になりたかった。何よりも善と悪についての見せかけの概念を捨てたかった。

 

 

ファッツはこのところ、アンドルーに依存する自分に苛立ちを感じ始めているが、その理由のひとつは、アンドルーがそばにいると、ときとして、本物の自分を十分に出すのを制限することがあるという点だった。アンドルーはフェアプレイとは何かについての彼なりの規範を持っていた。だから、ファッツは、最近、そんな親友の顔に、彼が隠そうとして隠しおおせなかった不快感や戸惑いや落胆の色が浮かぶのを見てしまった。

 

 

アンドルーは誘惑の餌をまくときでも、他人をあざけりの対象にするときにも、それが行き過ぎにならないようにその寸前でとめるたちだった。だからといって、それでアンドルーを非難するつもりはファッツにはなかった。もしアンドルーが自分と一緒になって極端な行動に出るとしても、もし彼が心底そうしたいと思っているのでなければ、本物ではないということになるだろうから。

 

 

厄介なのは、アンドルーが道徳のようなものにこだわる様子を見せていること、そしてファッツ自身は何がなんでもそういうものとは闘ってやるという思いを募らせていることだった。ファッツは、完璧に本物といえることを感情に左右されずに正しく追及するには、アンドルーとの友情を断ち切る必要があったのではないかと思っている。にもかかわらず、彼はいまでもほかの誰よりも、アンドルーと一緒にいることを優先している。(略)」

 

〇この物語は誰が「主人公」なのかわかりません。登場人物の日々の様子や抱えている問題を淡々と描写しているので、等身大の人間が描かれていて興味深いとは思いながらも、これがどこまで続くのだろうと少しうんざりして来た時に、このファッツについての描写が始まりました。

 

突然言葉に生命力が吹き込まれたかのように、生き生きとした鮮やかな空気がページの中に漂い始めたのを感じました。若いころ、自分もそれに近いことを思ったことがあったからなのか…… 今の自分はそんなことは、心の中に封じ込めて、生きているからなのか……。

 

ここを読んで強い印象を受けました。

 

「近頃ファッツは妙にわびしかった。いつものようにまわりのみんなを笑わせてはいたが。彼が行動を縛る道徳心から自由になろうとしているのは、彼が長年自分の中で押さえつけてきた何ものか、子供時代に別れを告げた時になくした何かを、取り戻そうとする試みだった。

 

 

彼が取り戻したいのは、ある種の無垢さ。そして、それを取り戻すために彼が選んだ道は、悪いとされていながら、ファッツには逆に本物にいたる―ある種の純粋さにいたる唯一の正しい方法と想えるすべてのことをくぐり抜けることだった。興味深いことに、すべてのものごとがあべこべ、日頃聞かされてきたことととは逆だったということがなんと頻繁にあったことか。

 

 

このところ、ファッツは、人から教えられた知恵のひとつひとつをひょいとはじいて逆さまにしてみれば、真実がわかるはずだと思い始めている。暗い迷路を巡り歩き、その中にひそむ異様なるものと格闘したい。信仰心を叩き割り、偽善の仮面をあばき出してやりたい。禁忌(タブー)を犯し、血塗られたその心臓から知恵を絞りだしてやりたい。道徳律の枠外で神の恩寵を受けたい。そして洗礼を受けて無知と愚鈍に戻りたい。

 

 

というわけで、ファッツはまだ違反したことのない数少ない校則のひとつを破り、教室を抜け出してフィールズへと入って来た。彼の知るほかのどの場所よりもフールズはむき出しの状態で拍動する現実に近いからというだけでなく、彼の好奇心を刺激するある種の悪党に出くわしそうだという漠然とした期待があったからだ。(略)」

 

 

 

「もしあれが自分なら、違ったやり方をしただろう、とファッツは思った。他人が自分のつぶれた顔を見てどう思うかと気にするのは、本物のすることではない。自分なら、たとえ喧嘩をしても、ふだんと変わらぬ態度でいたいものだ。もし誰かが喧嘩のことを知っていたとしても、それは彼らがたまたまその現場を目撃したからだ、という調子でありたい。

 

 

ファッツはまだ一度も殴られたことがない。このところ挑発的な態度に出ることが多くなっているというのに。近頃彼はよく、喧嘩をするとどんな気がするだろう、と考えることがある。自分の求める本物という状態には暴力も含まれるのかも知れない。(略)」

 

〇 「本物であること」と「本物でないこと」、この感覚は今も私の中にあるような気がします。また、カビーがバリー・フェアブラザーの冗談にお追従めいた笑い声をあげる姿は、私の中にもそれに似たものがあるような気がします。

 

ファッツはカビーを軽蔑し、嫌悪し、自分は本物であろうとしました。でも私は、自分がカビーであるという自覚を持ちながら、それにも関わらず、生きてきた、と思っています。ファッツのように「本物であること」を目指すだけの勇気がなかった。

 

若かった頃は、本当に色々苦しかった。今はもうなぜあんなに苦しかったのか、

忘れてしまいました。でも、その苦しみの一部にこの「本物であること」と「本物でないこと」の意識があったような気がします。

 

 

「「申し訳ないけど、テリ」とケイ。「あなたはひとりで小さい子どもの世話ができるような状態じゃないわ」

「やってないよ、絶対に―」

 

「そんなふうに、やってない、打ってない、って言い続けてればいいわ」とケイはいった。それを聞いたクリスタルは、はじめてケイの声に人間らしい何かを聞き取った。その何かは、激しい怒り、いらだち―― 何かそのようなものだった。

 

 

「でも、あなたはいずれクリニックで検査を受けることになるわ。お互いにわかってるわよね、検査結果は陽性だってことくらい。クリニックの担当者がいってるの、あなたにとってこれが最後のチャンスだ、って。また放り出されることになるだろう、って」」

 

 

〇 自分が何故ここに付箋を貼っていたのか、後で読み返して不思議でした。でも、思い出しました。あの頃、「モリ・カケ・サクラ」で平然と「やってない」を繰り返す安倍首相を見て、このテリのようだと思ったのでした。「お互いにわかっているウソ」を平然と言う首相、報道するマスコミ、聞く国民。やりきれなさがこのケイの激しい怒りに重なりました。

 

「フェアブラザーさんはいろんなことで面倒をみてくれた。いろんな問題も解決してくれた。うちに来て、ボート部のことでテリと話をしてくれたこともある。テリがチームで遠征するときに要る書類にサインしてくれなかったから、喧嘩になったこともあったけど、それでもいやな顔ひとつしなかった。

 

 

うんざりしてたのかもしれないけど、それを顔には出さなかった。いやな顔をしないのと、うんざりしててもそれを顔に出さないのは、結果として同じことだ。

人を好きになったことも信用したこともないテリが「あの男はいいね」といった。そして書類にサインした。(略)

 

 

クリスタルの頭の中で、澄んだはっきりした声がフェアブラザーさんに話しかけていた。フェアブラザーさんはクリスタルが求める道を示してくれた唯一の大人だった。善良だけど視野の狭いテッサとも、ありのままの事実に耳を貸そうとしないキャスばあちゃんとも違った。」

 

「車が角をひとつ曲がるたびに、母親は自分を家に連れて帰るつもりだという思いが強くなった。これまではカビーのほうが怖かった。でもいまはどちらが怖いのかわからなくなっている。

 

走る車から飛び降りたい。でも、ドアはすべてロックされている。

テッサは何も言わずいきなりハンドルを切ってブレーキをかけた。助手席の脇をつかんで窓に目を向けた。車が停まったのは、ヤーヴィルとパグフォードを結ぶバイパスの待避車線だった。車から降りろといわれるのが怖くて、ファッツは思わず泣き腫らした顔を母親に向けた。

 

「あなたの生みの母親は」といって、テッサはそれまで一度も見せたことのない憐みもやさしさもない顔で、ファッツを見つめた。「十四歳だったの。仲介者の話を聞いた限りでは、中産階級の家庭で育った、とても聡明な女の子だという印象だった。父親が誰かは頑としていわないという話だったわ。

 

 

未成年の恋人を守っているのか、もっと悪いことがあるのかを知る人もいなかった。私たち夫婦は分かる限りの情報を与えられた。場合によっては、精神的もしくは肉体的な障害を抱えている可能性もある。場合によっては」テッサはきっぱりといった。教師が確実に試験に出す予定でいる要点を強調しようとするように、「近親相姦で生まれた子どもである可能性もある」

 

 

ファッツはすくみ上ってテッサから離れた。銃で撃たれた方がましだった。

「わたしはどうしてもあなたを養子にしたかった」とテッサはいった。

(略)

コリンはわたしに言ったわ。「僕には無理だ。赤ん坊を傷つけるかもしれない。それが怖くてたまらない。(略)」

 

 

我が家に連れて来たあなたは、未熟児で、とても小さかった。あなたがうちに来て五日目の夜、コリンはベッドから抜け出して、ガレージにこもって車の排気管にホースを突っ込んで、自殺しようとした。そうでないと、あなたの首を絞めると思いこんだの。コリンはもう少しで死ぬところだったわ」

 

 

「だから、責めるならわたしを責めなさい」とテッサはいった。「わたしが我を通したからあなたもコリンもつらい思いをすることになった。それからあとに起きたことも、多分、責任は全部わたしにあるんでしょうね。でも、これだけはいっておくわ。スチュアート。

 

 

あなたの父親は、自分ではけっしてしていないことに向き合いながら人生を送って来た。あなたにそういう種類の勇気を理解してもらうことは期待していない。でもね」テッサはそこではじめて声を上ずらせた。それは自分の知っている母親の声だった。

 

 

「あの人はあなたを愛しているのよ、スチュアート」

最後に嘘を付け加えたのは、そうせずにはいられなかったからだ。テッサはこの夜はじめて、それが嘘であることを確信した。そして、これまでの人生でしてきたこと、そうすることがいちばんいいと自分に言い聞かせてきたことのすべてが、あとさきを考えない身勝手な行為だったこと、それがすべての混乱と混沌を生み出したことを思い知らされた。

 

 

でも、どの星がすでに死んでいるかを知って、耐えられる人がいるだろうか?テッサは夜空を見上げて目をしばたたいた。じつはみんな死んでいるのだと知って、耐えられる人などいるだろうか?

テッサはキーを回してエンジンをかけ、力まかせにギアを入れて、ふたたびバイパスを走り出した。

「フィールズには行きたくない」ファッツが恐怖に駆られて口を開いた。

「フィールズには行かないわ」とテッサはいった。「あなたを家に連れて帰るのよ」」

 

〇 以前、「「正義」を考える」の中でなぜ「物語が無くなったのか」という問いが語られました。あれ以来、私は何度もそのことを考えました。

そして最近、物語は願いや望み、祈りなどから生まれるのではないか、と思うようになりました。

どうしてもどうしてもそうであってほしい…強い願いが、「神」を作り出し「愛」を作り出し「正義」を作り出す。

 

 

そう信じないでは生きていられないほどに、そのことを願わずにいられない。

そんな所に物語が生まれるのでは、と。

 

実は、最近、朝刊に連載されている島田雅彦著「パンとサーカス」を楽しみに読んでいます。ここにも、強い願いがあります。この物語を読み、そう思うようになった気がします。

 

また少しずつ付け足すことがあるかもしれませんが、これで一旦「カジュアル・ベイカンシー」のメモを終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

棒を振る人生

〇 佐渡裕著 「棒を振る人生 ―指揮者は時間を彫刻するー」 を読みました。

学生時代の友人から、本当に久しぶりに手紙が来たのですが、

その中に、この本のことが書かれていました。

コロナ禍で、彼女も以前に読んだ本を読み返していたようです。

それで、私も読んでみたくなりました。

佐渡裕氏については、テレビで見て知っていたのですが、この本は知りませんでした。

読むことが出来て良かったと思います。

 

「ニューヨークを舞台に人種間の対立を描いた物語は、絶対混じり合うことのない不協和音で締めくくられた。つまり「ウエスト・サイド・ストーリー」は、「人類の対立は永遠に続く」というメッセージとも受け取られる暗鬱な終わり方をする。(略)

 

 

エンディング曲「Make Our Garden Grow」は「私たちは純粋でもないし、賢くも良い人でもない。できることを一生懸命やるだけだ。家を建てて、薪を割って、庭を耕すことだ」と歌う。

その最後の和音は、なんとドミソだった。僕らが音楽の授業で最初に習う、いちばん真っ白でシンプルな和音。それは「ウエスト・サイド・ストーリー」の幕切れと鮮やかな対照をなす。

 

僕はこれこそがバーンスタインのメッセージだと思った。

地球上、至る所で戦争が起こり、人々の対立がやまない混沌とした世界にあって、それでもバーンスタインは人間を心から愛するヒューマニストであり続けた。世界の本質は明るく華やかな和音でも、かなしく沈んだ和音でもない。それは単にドミソなのだと言い切った。」

 

 

 

 

「譜面の読み方は誰に教わるわけでもなく、自分勝手にやっていた。

(略)お気に入りのオーケストラのメンバーの名前まで覚えるくらいのめりこむと、

譜面を読むのがやたらに面白くなっていった。今と違って時間はあり余るほどある。毎日、譜面を見てはレコードを聴いたりピアノを叩いたりした。

 

そうして、たとえば三〇段あるスコアを自分なりの方法で四グループぐらいに整理して聴く方法を、小学生から中学生の間に身につけていった。」

 

〇 ここを読んで、まるで私の知ってるどんな小学生とも違う、と感じました。

私の近くには、オーケストラに夢中になっている小学生は、誰もいませんでした。

(私も含めて。)

また、私の子供たちも、そうはなりませんでした。

ただ、何かに夢中になる時間がどれほど楽しいかについては、なんとなくわかっていたので、出来れば子供たちには、そういう時間を持たせてあげたいと思っていました。

でも、振り返って見ると、そんなふうに育ててあげることは出来なかった…。

 

「変な夢を見たなと思いながら、演奏会の本番を迎えた。「ピアノ協奏曲四番※」の第一楽章を終えて、問題の第二楽章が始まった。ホ短調。冒頭、弦楽器が力強いフレーズをユニゾンで奏でた。

 

そのとき、突然、僕は雷に打たれたように了解した。

「神様がそこにいる」。僕の嘘も本当もすべて見通している圧倒的な力を持つ神がそこにいる。そう感じた。

 

 

続いてピアニストがかなしげな和音を静かに鳴らした。そこにいるのは弱くかなしい自分だった。神様を前にうなだれて「ジュンペイのことを黙っていてごめんなさい」「嘘をついてごめんなさい」と謝っていた。

 

 

すると、指揮をしながら突然、涙がボロボロと流れ出して止まらなくなった。

絶対に過ちを犯さない強く正しい神がいて、その前に間違いを犯してしまう弱い人間がいる。

そのとき、僕はこの作品の楽譜のすべてを理解することができたような気がした。

 

 

僕の突然の涙の理由を、オーケストラの演奏者たちはもちろん知らない。しかし、そのとき僕の全身から発せられた特別な気は確かに伝わったはずだった。そしてそれは、演奏を通して客席にも伝わっていったと思う。

 

 

楽譜を読む、作品を理解する。音楽を自分のものとする、という行為はそんなふうに、自分の無意識をも含む全人格的な体験をもとになされる。

 

 

後年、心理学者の河合隼雄先生、元ラグビー日本代表平尾誠二さんと鼎談したとき、「僕はこんな夢を見たことがあるんです」と、この夢をめぐる自身の経験を紹介した。(略)

 

二〇〇人ほどの観客を前に河合先生は、

「夢の話は僕が何か言わなければいけないんですが、何も言えないです……」と話された後、突然、両手で顔を覆って、その場でわっと泣かれた。

僕は驚いた。(略)」  ※ ベートーヴェン

 

「ここで大事なのはオーケストラの想像力だ。もしもオーケストラに想像力がなく、それぞれが演奏に消極的にしか参加しなけれは、決していい音は鳴らない。だからこそ指揮者はオーケストラの想像力を呼び起こすように、イメージで言葉を表現して伝える必要がある。」

 

〇 「消極的にしか参加しなければ、決して〇〇〇ない」という文章、オーケストラに限らず、様々なことに当てはまるのではないかと思います。

何故か私たちの社会では、出来るだけみんなが「消極的に」なるように躾けられているような気がします。

 

「その僕がオーケストラに向かうときに心がけている姿勢は、音楽に対して誠実であるという一点に尽きる。(略)

そして、演奏家たちと誠心誠意、向き合っていく。少なくとも僕にとっては、それがいい演奏への一番の近道である。結果的に成功しても失敗しても。(略)

 

譜面を深く読む洞察力と説得力、誰もが演奏しやすい明確な指揮の技法、オーケストラの音程やリズムを瞬時に聞き分ける感度のいいセンサー、状況を判断して的確な指示を出せる瞬発力。指揮者にとって、それらはもちろん重要である。

 

 

しかし、それよりも何よりも、オーケストラのメンバーたちが「この指揮者と一緒に音楽をしたい」と想えるかどうかが、指揮者の条件としては、より本質的な要素になる。

オーケストラは、指揮者の能力や人格を即座に見抜く。その部分でのごまかしはいっさいきかない。」

 

 

「ただ、音楽をつくる幸福感の中にいた。

でもこれはベルリン・フィルだから味わえた幸福感ではない。

僕は京都の芸術大学を卒業後、地元のママさんコーラスや女子高校の吹奏楽団の指揮者をしていた二〇代の頃を忘れることができない。

 

 

楽譜を読めないおばちゃんたちと「赤とんぼ」や「夏の思い出」を何か月もかけて練習した。コンクールの金賞を目指して、音楽の知識も技術も未熟な女子高生たちと特訓を重ねた。

練習に行くだけで幸せだった。みんなで一緒に音楽を作り上げていく時の充実感、少しずつうまくなっていくときの喜びは、僕のから全部の細胞が鮮やかに覚えている。

あのときの幸福感は、僕の中で確かな座標軸になっている。」

 

 

「全世界の人々に伝わる大きさと力を持つベートーヴェンの作品の中でも、「第九」は発想の規模が全く違う。」

 

 

「第九」交響曲の最も重要な特徴は、交響曲に初めて人の声、すなわち歌が登場したことだ。そして同時に、第四楽章にこれほどまでに重きが置かれた交響曲もこれまでになかった。第一楽章から第三楽章のすべてが、この第四楽章に向かって書かれているといっても過言ではない。(略)

 

 

第一楽章から暗示され、憧れ、予感させていた「歓喜の歌」のテーマはファ(♯)から始まる。<レとラ>の間を行ったり来たりして結びつけるファ(♯)は、人と人の絆を表す音である。国境、宗教、人種を超え、地球規模でまったく異なる考えを持った人間同士をつなぎ合わせる。

 

そして「歓喜の歌」の誰もが口ずさむことのできるメロディーは、わずか五つの音だけでできている。リコーダーでいうと片手を動かすだけで吹けるほど簡単なメロディーだ。この単純さにこそベートーヴェンの重要なアイデアが宿っている。

 

つまり、誰もが口ずさめるこのシンプルなメロディーによって、全世界の人々は「歌える」「歌おう」「歌いたい」という気持ちに導かれる。それこそベートーヴェンが、このメロディーに込めた狙いだったと思う。

 

 

ベートーヴェン階級差別や貧富の差が激しい時代に「みんなが一つになるべきだ」と歌うシラーの詩に出会って共感した。この詩をメロディーに乗せて歌えば、多くの人々がこのメッセージを受け取ってくれるに違いないと考えて曲を作り始めた。(略)

 

 

一九九九年から僕が総監督に就いた<サントリー一万人の第九」>は、一般公募で集まったアマチュアの合唱団員一万人が毎年十二月、大阪城ホール「第九」を演奏する。関西らしいこの壮大なコンサートは、毎日放送の企画・制作・山本直純指揮で一九八三年から続いていた。(略)

 

 

ベートヴェンは、ヨーロッパで生まれ発展したクラシック音楽のいわば象徴的存在である。ヨーロッパ生まれでありながら、その音楽の感動は地球の裏側に生きる我々も含めてみんなのものであることを僕は証明したかった。(略)

 

 

一万人がただ集まって歌う場ではなく、一人ひとりが自分の人生をひっさげて、一度きりの本番に臨んでいる。(略)

そんな普通の人たちがそれぞれの人生を背負いながら集まって、ともに心を震わせながら、とても創造的な音楽を生み出した。その達成感にそれぞれが生活する場に戻り、明日からの日常をまた誇らしく生きていく―。

世の中には暗いニュースが日々溢れているが、「人間、捨てたもんじゃない」と心から思えた。(略)」

 

〇 ここを読みながら、友人がこの本を読んで、私のことを思い出してくれたのは、

学生時代に私が、ここに書かれているようなアマチュア合唱団の一員として、「第九」を歌った体験を話したことがあったからだ…と思い出しました。

あの時、彼女にあのコンサートのチケットを買ってもらったことも、もうすっかり忘れていました。

 

あれは一九七六年頃の四月だったと思います。

国分寺の駅で、二人の女性にオーケストラと一緒に第九を歌う合唱団に入らない?と誘われたのです。都会で勧誘されることには、警戒感があったのですが、その二人がとても感じの良さそうな人だったことと、好きな合唱が出来るということで、入ることになりました。

 

練習場所は主に新宿だったと思います。発声練習やドイツ語の歌詞を音節ごとに発音する練習など、思ったよりもハードな内容でした。指導してくれるパートリーダーのような人は、多分どこかの音大のプロを目指している人、もしくはプロ?というような

本格的なオペラ歌手のような声の人でした。

 

練習は毎日でした。しかも、練習場所が何か所か変わるので、遅れずにその場所に行くことだけでも、金銭的にも時間的にも気持ち的にも、きつい日々でした。

でも、まず合唱が楽しかったのと、やはりなんと言っても、一週間に1~2度(いえ、もっと多かったような気もします)だったと思うのですが、指揮者による全員練習が、とても魅力的でした。

もう、記憶もほとんど薄れているのですが、その指揮者のお名前は、憶えていました。

 

山口貴さん。

 

中学校の先生をしていると聞いたことがありました。

 

ここで、この佐渡裕さんが色々話しておられる話を聞くと、その内容や雰囲気に、とても似ているものを感じます。

 

この山口先生のお話の中で、フルトヴェングラーやフィッシャー・ディースカウという名前を初めて知りました。ベートーヴェンの話をたくさん聞きました。

ほとんど忘れてしまいましたが、この先生が、ベートーヴェンが大好きで、この第九を

本当に「演奏するために」は、人間の万人の声が必要なのだ…というような意味のことを話していたのが記憶にあります。

 

また、「ベートーヴェンに、神などいない、と言ったら、ベートーヴェンは死んでしまうよ…」というような言葉は、忘れられずに残っています。

 

5月の連休には、山中湖で合宿があり、一泊二日だったと思うのですが、文字通り、

一日中練習でした。そして、コンサートは、7月だったと思います。

オーケストラは東京交響楽団。第九の外に、詩編〇〇(番号を忘れてしまいました)というフランスの交響曲が演奏されました。

フィルハーモニー合唱団」という合唱団でした。通称フィル唱。

 

何年も続けて活動している団員もたくさんいたのですが、私は結局、その7月のコンサートを区切りにやめてしまいました。

 

そんなことを振り返りながら読むと、本に感動してなのか、思い出が懐かしくてなのか、わからない涙が出ていました。

 

山口貴さん、魅力的な人でした。よい体験をさせてもらいました。

 

カラヤンは言った。

「子どもたちの前で演奏会をすることは非常に意味がある。それは良い音を届ける以前に、大人が子供たちの前で一生懸命にやっていることを見せることだ」

音楽を通した教育を考えた時、僕の中にあるイメージは、音楽に夢中になっている大人がいて、それを見つめる子どもがいる。そして一緒に挑戦したり一緒に緊張したりしながら一つの音楽をつくっていく、そんな光景だ。

 

 

大人の心が動いていなければ、子供の心は動かない。」

 

〇この佐渡さんのお話の中には、頻繁に「佐渡少年」の目が出てきます。

少年の頃の自分の目を意識する大人がいて、その大人を見ている少年がいる…そんなふうに年齢を超えて繋がるものが音楽にはあるんだろうなぁ、と思いました。

 

「遊び心は僕の想像力とつながっている。その源泉は子供の頃の体験にある。中でも京都の路地で遊んだ経験。狭い路地で野球や鬼ごっこをするために、どうしたらもっと楽しめるか、どうしたら人に迷惑をかけないか、どうしたら全員が納得するか、その場でルールをどんどん変えていき、遊び方を工夫した。工夫することで知識と技術が見につき、遊びの面白みが深まった。

 

 

僕は学校の授業では習わない多くのことを路地で学んだ。あのときのワクワクする感覚は、新しいアイデアや発想、企画を生み出す源になっている。

 

僕は神様が人間に与えた最も大きな喜びは遊びだと思っている。

僕が子供の頃、頭のほとんどを占めていたのは遊ぶことだった。(略)

自分が生きていく中で、子供の頃のあの夢中官と集中力を忘れずにいたかったし、ゾーンに入っていた特別な感覚を呼び覚ましたかった。それは必ず自分の音楽の創造につながっていくはずだから。」

 

〇 十分に遊んだ経験を積ませてあげたいな、と心から思います。

私たちの社会のこどもたちに。

これで、佐渡裕著「棒を振る人生」のメモを終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハリー・ポッター

〇 秋ごろから、腰なのか股関節なのか、という感じで、痛みが出て、困っていました。今は、かなり良くなったのですが、一番よくない姿勢が、「座る」姿勢です。

立っていたり、時には走っても、大丈夫。でも、座るとその後、立ち上がれなくなりました。

 

そんなわけで、一時は、ただひたすら、仰向けになっていた時期がありました。

そんな時に読んだのが、児童向けの本です。孫に薦めるのに、読もうと思ったのですが、思っていた以上に面白く、今となっては、「腰痛よありがとう…」と言いたいくらいです。

 

「ジムボタンの機関車大旅行」「ピノッキオのぼうけん」を読み、「ハリー・ポッター」も読みました。そして、この「ハリー」にめちゃめちゃ嵌り込んでしまいました。

 

 

そういえば、1997~8年ごろ、年に一度出るハリー・ポッターシリーズを待ちかねて、大勢が書店の前に並ぶ、などというニュースを見たことがありました。

作家のローリングさんのことを話題にしたニュースも聞いた記憶があります。

 

でも、あの頃は、全く自分には関係ないこと、と思っていました。

ところが今、かなり遅ればせながら、ハリー・ポッターファンになってしまいました。

 

すごくすごく面白いです。

「賢者の石」「秘密の部屋」「アズカバンの囚人」「炎のゴブレット」「不死鳥の騎士団」「謎のプリンス」「死の秘宝」

一度、全部読み終わり、今は、2回目を読んでいる所です。

「謎のプリンス」の2回目を読んでいますが、多分、最後まで行ったら、また3回目を

読むような気がします(^-^;。

 

読み終わったら、全部孫にあげようと思っていたのですが、あげるのはやめました。

賢者の石はあげたのですが、続きが読みたかったら、親に買ってもらいなさい、と言うつもりです。

 

それぞれの巻から、ひとことずつ、メモしておきます。

 

「賢者の石」

ダンブルドアが静かにいった。

「鏡が見せてくれるのは、心の一番奥底にある一番強い「のぞみ」じゃ。それ以上でもそれ以下でもない。君は家族を知らないから、家族に囲まれた自分を見る。

 

 

ロナルド・ウィーズリーはいつも兄弟の陰で霞んでいるから、兄弟の誰よりもすばらしい自分が一人で堂々と立っているのが見える。しかしこの鏡は知識や真実を示してくれるものではない。鏡が映すものが現実のものか、はたして可能なものなのかさえ判断できず、みんな鏡の前でヘトヘトになったり、鏡に映る姿に魅入られてしまったり、発狂したりしたんじゃよ。

 

 

ハリー、この鏡は明日よそに移す。もうこの鏡を探してはいけないよ。たとえ再びこの鏡に出会うことがあっても、もう大丈夫じゃろう。夢に耽ったり、生きることを忘れてしまうのはよくない。それをよく覚えておきなさい。(略)」

 

 

「秘密の部屋」

ダンブルドアはまた口髭をいたずらっぽく震わせた。

「それでも「組分け帽子」は君をグリフィンドールに入れた。君はその理由を知っておる。考えてごらん」

「帽子が僕をグリフィンドールにいれたのは」ハリーは打ちのめされたような声で言った。

「僕がスリザリンに入れないでって頼んだからに過ぎないんだ……」

「その通り」ダンブルドアがまたニッコリした。

「それだからこそ、君がトム・リドルと違う者だという証拠になるんじゃ。ハリー、自分がほんとうに何者かを示すのは、持っている能力ではなく、自分がどのような選択をするかということなんじゃよ」」

 

 

「アズカバンの囚人」

 

「「でも―― シリウスとルーピン先生がペティグリューを殺そうとしたのに、僕が止めたんです!もし、ヴォルデモートが戻ってくるとしたら、僕の責任です!」

 

「いや、そうではない」ダンブルドアが静かに言った。

「「逆転時計(タイムターナー)」の経験で、ハリー、君は何かを学ばなかったかね?我々の行動の因果というもんぼは、常に複雑で、多様なものじゃ。だから、未来を予測するというのは、まさに非常に難しいことなのじゃよ。(略)」

 

 

「でも、それがヴォルデモートの復活につながるとしたら!——」

「ペティグリューは君に命を救われ、恩を受けた。君は、ヴォルデモートのもとに、君に借りのある者を腹心として送り込んだのじゃ。魔法使いが魔法使いの命を救う時、二人の間にある種の絆が生まれる……。

 

 

ヴォルデモートが果たして、ハリー・ポッターに借りのある者を、自分の召使として臨むかどうか疑わしい。わしの考えはそうはずれてはおらんじゃろ」」

 

 

「炎のゴブレット」

「「どうしてまともに走れないんだろう?」

「きっと、隠れてもいいっていう許可を取ってないんだよ」ハリーが言った。

ドビーのことを思い出していたのだ。マルフォイ一家の気に入らないかもしれないことをするとき、ドビーはいつも自分をいやというほど殴った。

 

 

ハーマイオニーが憤慨した。

「奴隷だわ。そうなのよ!(略)どうしてだれも抗議しないの?」

「でも、妖精たち、満足してるんだろ?」ロンが言った。

「ウィンキーちゃんが競技場で言ったこと、聞いたじゃないか……「しもべ妖精は楽しんではいけないのでございます」って…… そういうのが好きなんだよ。振り回されるのが…」

 

 

「ロン、あなたのような人がいるから」

ハーマイオニーが熱くなり始めた。

「腐敗した、不当な制度を支える人がいるから。単に面倒だから、という理由で、なんにも……」」

 

 

「全部が全部じゃねえです」ハグリットの声はかすれていた。

「みんながみんな、俺が残ることを望んではいねえです」

「それはの、ハグリッド、世界中の人に好かれようと思うのなら、残念ながらこの小屋にずっと長いこと閉じこもっているほかわるまい」

ダンブルドアは半月メガネの上から、今度は厳しい目を向けていた。

 

 

 

「わしが校長になってから、学校運営のことで、少なくとも週に一度はふくろう便が苦情を運んでくる。かといって、わしはどうすればよいのじゃ?校長室に立てこもって、だれとも話さんことにするかの?」

 

 

 

「自分の役職に恋々としているからじゃ、コーネリウス!あなたはいつでも、いわゆる純血をあまりにも大切に考えてきた。大事なのはどう生まれついたかではなく、どう育ったかなのだということを認めることが出来なかった!あなたの連れて来た吸魂鬼(ディメンター)が、たったいま、純血の家柄の中でも旧家とされる家系の、最後の生存者を破壊した― しかも、その男は、その人生でいったい何をしようとしたか!

 

 

 

いま、ここで、はっきり言おう― わしの言う措置を取るのじゃ。そうすれば、大臣職に留まろうが、去ろうが、あなたは歴代の魔法大臣の中で、最も勇敢で偉大な大臣として名を残すであろう。もし、行動しなければ―歴史はあなたを、営々と再建して来た世界を、ヴォルデモートが破壊するのを、ただ傍観しただけの男として記憶するじゃろう!」

 

 

「正気の沙汰ではない」

またしても退きながら、ファッジが小声で言った。」

 

 

「あなたも先生方も、いったい何をふざけているのやら、ダンブルドア、わたしにはさっぱり。しかし、もう聞くだけ聞いた。私も、もう何も言うことはない。(略)」

 

「くよくよ心配してもはじまらん」ハグリッドが言った。

「来るもんは来る。来た時に受けて立ちゃええ。ダンブルドアがおまえさんのやったことを話してくれたぞ、ハリー」

 

(訳者 松岡氏のあとがきから)

 

「第四巻執筆の途中で、ローリングは、計画していたトリックがうまくいかないことに気づき、書き直し、そのためにこれだけの長編になったという。本人の口からそれを聞いた。作品を読む限り、もともとの筋立てがどうだったのか、どこがどう破綻しそうだったのかは全くわからない。

 

綿密に織り上げられた筋立てや、一巻から三巻まで積み上げてきた伏線の見事な生かし方に舌を巻くばかりだ。ローリングの頭の中には、登場人物の一人ひとりが生まれてから、ハリー・ポッターシリーズに登場するまでのすべての物語が出来上がっていると、作者本人が語っている。(略)」

 

「不死鳥の騎士団」

 

「「わかっているわよ」ハーマイオニーは、びくっとした顔で慌てて言った。

「私にはわかってるのよ、ハリー。だけど新聞が何をやってるか、わかるでしょう?あなたのことを、まったく信用できない人間に仕立て上げようとしている。ファッジが糸を引いているわ。(略)」

 

「ぼくのばあちゃんは、それデタラメだって言ってた」ネビルがしゃべりだした。「ばあちゃんは、「日刊予言者新聞」こそおかしくなってるって、ダンブルドアじゃないって。ばあちゃんは購読をやめたよ。僕たちハリーを信じてる」ネビルは単純に言い切った。」

 

 

〇 単純に言ってしまえば、闇の帝ヴォルデモートとハリーの闘いなのですが、それが、「悪の勢力」と「善の勢力」との闘いになっていて、今この国(日本)で起こっている、「民主主義を守ろうとする勢力」と「権力者が好きなように出来る社会を作ろうとする勢力」の戦いにとても、似ているのです。

 

闇の勢力の存在を認めると、それと闘わなければならない。その闘うということから、逃げるために、闇の勢力の存在を認めない。あたかも何も問題がないかのようにふるまう。問題を言い立てる人々の言論を封じ、マスコミを抱き込んで、自分たちに都合の良い、情報だけを流す、という流れが、子供向けのファンタジーのはずなのに、どんなものを読むよりも、リアリティーを感じるように、描かれています。

 

すごい!!と思います。

 

「謎のプリンス」

「僕は利用されたくない」ハリーが言った。

「魔法省に利用されるのは、君の義務だという者もいるだろう!」

「ああ、監獄にぶち込む前に、本当に死喰い人なのかどうかを調べるのが、あなたの義務だという人もいるかもしれない」

ハリーはしだいに怒りが募って来た。

 

「あなたは、バーティークラウチと同じことをやっている。あなたたちは、いつもやり方を間違える。そういう人種なんだ。違いますか?

 

 

目と鼻の先で人が殺されていても、ファッジみたいにすべてがうまくいっているふりをするかと思えば、今度はあなたみたいに、お門違いの人間を牢に放り込んで、「選ばれし者」が自分のために働いているように見せかけようとする!」

 

(略)

 

「いいえ、正直な言い方でした」ハリーが言った。「あなたが僕に言ったことで、それだけが正直な言葉だった。僕が死のうが生きようが、あなたは気にしない。ただ、あな

たは、ヴォルデモートとの戦いに勝っている、という印象をみんなに与えるために、僕が手伝うかどうかだけを気にしている。大臣、僕は忘れちゃいない………」

 

ハリーは右の拳を挙げた。そこに、冷たい手の甲に白々と光る傷跡は、ドローレス・アンブリッジがむりやりハリーに、ハリー自身の肉に刻ませた文字だった。

 

「僕は嘘をついてはいけない」

 

「ヴォルデモートの復活を、僕がみんなに教えようとしていたときに、あなたたちが僕を護りに駆けつけてくれたという記憶はありません。魔法省は去年、こんなに熱心に僕に擦り寄ってこなかった」」

 

 

「ハリーはやっと、ダンブルドアが自分に言わんとしていたことがわかった。死に直面する戦いの場に引きずり込まれるか、頭を高く上げてその場に歩み入るかの違いなのだ、とハリーは思った。その二つの道の間には、選択の余地はほとんどないという人も、多分居るだろう。

 

しかし、ダンブルドアは知っている―― 僕も知っている。そう思うと、誇らしさが一気に込み上げてきた。そして、僕の両親も知っていた―― その二つの間は、天と地ほどの違うのだということを。」

 

〇ここで、ハリーが言ってることは、心に沁みました。

予言で、「ヴォルデモートかハリーか、そのどちらかが死ななければならない」と言われたことを指して、「結局は、すべて同じことではないですか?自分が相手を殺さなければ、自分が殺されてしまうのだから」と言います。

 

でも、ダンブルドアは、同じではない、と言います。

予言で(そういう運命になっているので)、それに従うことと、自分がどうしたいのか、を考え、両親、名付け親、友人を殺したヴォルデモートを破滅させたい、と自分の意思でそうすることとの間には、天と地ほどの違いがあるのだと。

 

 

「死の秘宝」

「「私が君の傲慢さも不服従をも許してきたダンブルドアではないということを、思い出したかね? ポッター。その傷跡を王冠のように被っているのはいい。しかし、十七歳の青二才が、私の仕事に口出しするのはお門違いだ! そろそろ敬意というものを学ぶべきだ!」

 

「そろそろあなたが、それを勝ち取るべきです」ハリーが言った。(略)

 

「どうやら君は、魔法省の望むところが、君とは ―― ダンブルドアとは ―― 違うと思っているらしい。我々は、ともに事に当たるべきなのだ」

 

「大臣、僕はあなたたちのやり方が気に入りません」ハリーが言った。「これを覚えていますか?」

ハリーは右手の拳を挙げて、スクリムジョールに一度見せたことのある傷跡を突き付けた。(略)」

 

 

 

 

「クリーチャーは奴隷なのよ。屋敷しもべ妖精は、不当な扱いにも残酷な扱いにさえも慣れているの。ヴォルデモートがクリーチャーにしたことは、普通の扱いとたいした違いはないわ。魔法使いの争いなんて、クリーチャーのようなしもべ妖精にとって、何の意味があると言うの?(略)」

 

〇 この本の中でハーマイオニーがしもべ妖精について語る言葉が、何故か私たちの社会の「一般庶民」の姿と重なってしまうので、そのことを少し書いてみます。

カズオ・イシグロの「日の名残り」を映画で見た時、自分なりの解釈をして、好きだと思ったのですが、その後、イシグロ氏本人のインタビューをテレビで見る機会がありました。

 

その時、イシグロ氏は、自分の職務には熱心に取り組むけれど、その職務が社会全体の中でどのような役割を果たしているのか、どのような位置づけにあるのか、そのことには無関心な人が多いのが日本社会、というようなことを言っていたと思います。

 

そのような生き方には、問題があるのではないか、と。

 

 

「もちろん、多くの者が、何が起きたのかを推測した。この数日の間に、魔法省の政策が百八十度転換したのだから、ヴォルデモートが糸を引いているに違いないと囁く者は多い。しかし、囁いている、というところが肝心なのだ。誰を信じてよいかわからないのに、互いに本心を語り合う勇気はない。もし自分の疑念が当たっていたら、自分の家族が狙われるかもしれないと恐れて、おおっぴらには発言しない。

 

 

 

そうなんだ。ヴォルデモートは非常にうまい手を使っている。大臣宣言をすれば、あからさまな反乱を誘発していたかもしれない。黒幕にとどまることで、混乱や不安や恐れを引き起こしたのだ」

 

 

「僕には信じられない」ハリーが言葉を続けた。「僕に吸魂鬼との戦い方を教えた人が ―― 腰抜けだったなんて」

ルーピンは杖を抜いた。あまりの速さに、ハリーは自分の杖に触れる間もなかった。(略)

 

「親は」ハリーが言った。「子どもから離れるべきじゃない。でも―― でも、どうしてもというときだけは」

「ハリー ――」(略)

 

「わかってる」ハリーが言った。「でも、それでルーピンがトンクスのところに戻るなら、言ったかいがあった。そうだろう?」

ハリーの声には、そうであってほしいという切実さが滲んでいた。」

 

 

「君は、あいつの言うことを聞いてないから」ネビルが言った。「君だってきっと我慢できなかったよ。それより、あいつらに抵抗して誰かが立ち上がるのは、いいことなんだ。それがみんなに希望を与える。僕はね、ハリー、君がそうするのを見て、それに気づいたんだ」

 

〇 「それがみんなに希望を与える」この言葉が心に沁みました。逆だと、絶望に支配される…

 

 

「リリーがどのようにして、なぜ死んだかわかっておるじゃろう。その死を無駄にせぬことじゃ。リリーの息子を、わしが守るのを手伝うのじゃ」(略)

 

「エクスペクト パトローナム! 守護霊よ、来たれ!」

スネイプの杖先から、銀色の牝鹿が飛び出した。牝鹿は校長室の床に降り立って、一跳びで部屋を横切り、窓から姿を消した。

 

 

ダンブルドアは牝鹿が飛び去るのを見つめていた。そして、その銀色の光が薄れたとき、スネイプに向き直ったダンブルドアの目に、涙が溢れていた。

 

「これほどの年月が、経ってもか?」

「永遠に」スネイプが言った。」

 

〇 二回目の死の秘宝を読み終わりました。

子供向けの物語と言いながら、このお話は読者が大人であることを促す内容ではないかとしばしば感じました。

 

例えば、このスネイプは、いかにも感じの悪い人として描かれています。

実際、ハリーはこのスネイプが大嫌いでした。読んでいる私もスネイプが好きだ…とは

思いませんでした。でも、この、「人から理解されず」、「疎まれる」感じが、何か身近な感覚に感じられて、気になる存在ではありました。

 

そして、この最終巻の「プリンスの物語」でさまざまな事情に、スネイプ側から焦点があてられた時、スネイプの愛が浮かびあがり、人が生きて存在していることの切なさが、心に沁みてきます。

 

人の素晴らしさばかりではなく、弱さやずるさや悲しさも描かれています。あのダンブルドアに対する不信感や大勢の仲間といる時の孤独についても語られています。

でも、そんな現実をきちんと受け止めて、「大人でありなさい」と促しているように感じました。

 

自分の投げ込まれた状況を嘆いて泣き叫び、酒や夢に逃げ込み、「本音」むき出しに、苦しい苦しい…と歪んだ泣き顔を見せるのが、ごまかさない生き方だという考え方もある中で、私はやっぱり、こういうお話が好きだなぁと感じました。

 

大人でありたいと思うのは、私が子どもだからなのかもしれません。

これで、「ハリー・ポッター」のメモを終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天皇の戦争責任(あとがき)

〇 竹田・加藤・橋爪氏による「天皇の戦争責任」のまえがきは、竹田氏によって

書かれていました。あとがきは、加藤氏と橋爪氏によって書かれています。

私にとって、加藤氏の言説は、分かり難いものが多く、少し苛立たしい気持ちになることも、ありました。そこで、ここでは、橋爪氏のあとがきを、メモしておきたいと思います。

 

「あとがき――

 天皇は、戦争の死者を裏切ったか

                         橋爪大三郎

 

(略)

この討論は、いま振り返ってみると、現代版の天皇機関説論争だった、と言えるのではなかろうか。もちろん、加藤氏が天皇親政説の側であり、私が天皇機関説の側である。

討論の中で、加藤氏は繰り返し繰り返し、戦争の死者に対する天皇の道義的責任に言及し、天皇その人はいったい何を考えていたのだろうと疑問を投げかけ、それについて天皇が発言しないまま死去してしまったことが非難に値するとした。

 

 

なぜ加藤氏がこの事情にそれほどこだわるのか、討論のときに私はもうひとつピンとこなかった。けれども、加藤氏と私の違いを、天皇機関説論争になぞらえてみるならば、加藤氏がそう主張しなければならなかった理由も理解できる。

そしてそこに、加藤氏の議論の問題点も集約されているのではないかと思う。

 

 

討論のなかで、加藤氏は自著「戦後的思考」(一九九九年十一月刊)の、三島由紀夫の「英霊の声」に関する議論を紹介している。(略)

その後、単行本となってから全体を通読し、今回あとがきを書くにあたってまた読み返してみて、加藤氏のモチーフが私のなかで像を結んでくるように思った。

 

 

 

加藤典洋氏の三島由紀夫についての論は、これまで私が目にしたどの三島論よりも説得的で、なるほど文学とはこういう作業ができるのかと、感心しながら読んだ。

加藤氏はここで、「仮面の告白」「憂国」「英霊の聲」をとりあげる。加藤氏によれば、三島は戦前と戦後の断絶とつながりをもっとも深いところでたどろうとした唯一の存在である。三島は、文学作品のなかで驚くほど正直に、「二重構造=仮面」性を自分の本質としてさらけだしている。(略)

 

 

 

三島由紀夫は、戦前にも戦後にも忠実でなかった。戦争の死者たちを裏切り、戦後的価値観からも距離を置いた。そして、〈戦争の死者と自分の関係の客観的相関物を、戦争の死者に対する「裏切り」の中心的存在、昭和天皇その人に、見出している〉(「戦後的思考」四三四頁)。三島にとっては、三島由紀夫昭和天皇、という等式が成り立つことが重要である。

 

 

 

そこで、皇道派青年将校の霊、特攻隊の死者たちの霊が、〈「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」という糾弾の言葉を唱える〉(同・四三七頁)。そして、霊たちの言葉を述べていた霊媒の川崎君(三島の分身)が最後に死亡すると、その顔が、別人の顔に代わっている(加藤氏の丁寧な論証によれば、それは昭和天皇の顔である)。

 

 

 

〈これまで昭和天皇を糾弾して来た三島自身が、その「仮面の告白」に耐え切れず、息絶え、仮面をはぎとられてみると、実は昭和天皇だったという、どんでん返しの結末〉(同・四四八頁)になっている。

たしかにこの小説は、そのように読むべきであろう。ここまでの加藤氏の分析の手並みは、みごとと言う他はない。

 

 

 

問題は、その先である。

三島由紀夫昭和天皇、の等式は成立するのか。昭和天皇は、三島と同じように、戦争の死者たちを裏切ったのだろうか。加藤氏の言うように、〈敗戦後の天皇人間宣言が戦争の死者たちへの背信である理由は、……戦争時における政治的精神的道義的な「臣民」とのコミットメントを、一方的に破棄したことに、ある〉(同・四四六頁)のだろうか。

 

 

 

 

私が思うに、この等式は、あくまでも三島の側からのものである。三島からみて、天皇が自分の同類に見えたという話にすぎない。

皇道派青年将校は、二・二六事件のあと、天皇に裏切られたと思ったであろう。特攻隊の若者や戦争の死者たちが、天皇に裏切られたと思ったかどうかはわからない。

 

 

 

天皇の裏切りを問題視する視線は、皇道派青年将校三島由紀夫加藤典洋、と受け継がれている。さらにその元をたどれば、軍人勅諭がある。明治憲法が制定されることになったので、軍隊を、政府や議会と関係なく、天皇が直接統帥するというイデオロギーを、山縣有朋が考案した。天皇個人と、応召する軍人たちとの間にコミットメントがあるという発想は、軍人勅諭の発想であり。

 

 

 

山縣有朋皇道派青年将校→三島→加藤は、束になって、三島=天皇、すなわち、天皇に責任がある、と言う。しかしこれは、成り立たない。なぜならば、昭和天皇は、三島とあべこべに、戦前にも戦後にも、両方に忠実だったからだ。

 

 

天皇は、三島と違って、逃げ隠れのできない君主である。そして戦前の日本帝国憲法、戦後の日本国憲法に忠実に行動した。「戦前と戦後で変わった所はなんですか」という新聞記者の質問に、とくに変わらないと思う、と答えているのは、偽らざる率直な気持ちだろう。また天皇人間宣言は、真崎教育総監に反対して天皇機関説を支持したように、戦前からもともとそう考えていたことを述べたにすぎない。もちろん、その宣言の政治的な効果は十分に理解していたろうけれども。

 

 

 

昭和天皇は、戦争の死者を裏切らなかった。もちろん裏切ったという意識もない。だから、そのことについて発言するはずはなかったのだ。

 

 

 

それではなぜ、加藤氏をはじめ少なからぬ人々は、天皇が戦争の死者を裏切った、と信じるようになるのだろうか。

それはひとつには、日本国民が、戦前から戦後への変化を、受け身のかたちでしか体験しなかったからである。

 

 

 

人々は戦前、総力戦の体制のもと、戦争に積極的に協力した。徴兵に応ずることを含め、それは公民の義務であり、正しいことであった。そして戦後、平和と民主主義の価値観のもと、経済的な繁栄を求め、懸命に生きた。戦前から戦後への移行は、大きな屈曲であり、異なる空間への飛躍だった。それでも、同時代を生きた大部分の人々は、それが、生きていくためにはやむをえない屈曲であり飛躍であることを、身体で感じ取り、理解していた。

 

 

 

そして、そのような屈曲と飛躍を可能とするため、天皇が重要な役割を果たしたことを評価していた。だからこそ終戦直後、九割以上の人々が天皇制を支持すると答えたのだ。三島由紀夫や非転向の共産党員の感覚は、例外的少数者のものである。

 

 

戦前、天皇統帥権者として、戦争を指揮する役割を担った。戦争の死者たちは、天皇の指揮に従って戦争に携わり、命を落とした人々である。だがそれと同時に、天皇は、大日本帝国の主権者として、日本国民の生命と安全に責任をもつ立場でもあった。

 

 

戦争を遂行することで亡くなった三百万の死者(失われた生命)は、たしかに大きい。しかし、戦争を終結することで戦後に生きのびた七千万人の生命はさらに大きい。天皇は、これ以上死者を増やしてはならないというぎりぎりの段階で、戦争を終結させ、自らの手で日本を戦後という時代にむかって推しだしたのだ。このように主体的・能動的にふるまった人物は、天皇ただひとりだと言ってよい。

 

 

 

戦後の死者たちは、戦争からの生還者たちと切り離されて存在するわけではない。戦前(戦争が戦われていた間)、それは誰が死者、誰が生還者となっても不思議でない、入れ替わり可能な一体のものだった。

 

 

 

戦争が終わることで、戦争の死者となる扉が閉ざされ、死者/生者が、戦前/戦後の両側に分けられた。それでも戦後しばらく、生者たちは、自分たちが戦前から生き延びたものであることを濃厚に意識していた。その意識がうすれ、戦争の死者たちが戦後と切り離された、まったく意味づけられない存在となったのは、加藤氏も指摘するように、戦争が遠いものになった、ごく最近のことである。

 

 

 

戦前/戦後の二重性を、誰の目にも見えるかたちで生き、年老いた昭和天皇は、だから、戦後にふさわしい象徴天皇であったと、私は思う。

 

 

 

加藤氏が「戦争の死者たち」という場合、そのなかに加藤氏を含めていない。戦争の死者たちは、戦後日本を外からみる他者たちであり、彼らの行為や思いは、戦前の文脈の中で意味づけられる(戦後からは意味づかない)。

 

 

彼らは戦前の意味や価値のもとで、端的に言えば天皇のために、死んだ。いっぽうその天皇は、退位しないまま、戦後日本にあり続けた。天皇が戦争の死者たちを裏切り、その責任を認めて反省するのでないと気が済まないのは、さもなければ(天皇を経由するのでなければ)、加藤氏自身の中に、戦争の死者たちとつながる道筋を見つけられないと考えているからだ。

 

 

 

しかし私は、戦争の死者たちを、自分のことだと考えることができるし、考えるべきだと思う。加藤氏は、戦前の日本軍が、シヴィリアン・コントロールの不十分な、非近代的な軍隊であるという。そのとおりであろう。そこで加藤氏は、そんな軍隊にあって戦争を積極的に担ったからには、それはよくよくのこと、すなわち、天皇のよびかけに対する応答(コミットメント)としてしか可能ではなかった、と考えることになる。

 

 

 

そうだろうか。市民社会が不完全であるとして、そこには市民の義務は存在しないのか。私が「公民の義務」と述べたのは、戦前の日本軍に人々が応召したのは、天皇がよびかけようとよびかけまいと、それが近代社会を生きる市民の義務だったから、という水準を抽出できると思うからだ。

 

 

総力戦を戦うため、たしかに、戦前の日本は皇国史観をはじめ、あらゆるイデオロギーを総動員した。日本軍はその表象におおわれており、それを信じて戦地へ赴いた者もいるだろう。けれども、そもそも総力戦とは、市民社会が国家の戦争目的に合わせて再編成される過程であり、「公民の義務」が根底になければそもそも成り立ちえないものなのではないか。

 

 

天皇は、満州事変も日華事変も、大東亜戦争も、大日本帝国の法令にもとづいて、合法的に遂行されている戦争であると理解していた。合法的な命令に従って、戦地に赴いた人々は、正しく行動した。その結果、生命を失った人々のことを、天皇は残念に思っている。また、戦争目的は達せられなかったし、戦争目的そのものが間違ってさえいた。

 

 

 

そして天皇は、戦後、この戦争目的を否定する新しい憲法に忠実に、行動するようになった。言えるのはここまでであり、これらの事実の総和から、天皇が戦争の死者たちを裏切ったという結論は出てこない。むしろ、天皇は戦争の死者たちを守っているのだと言えよう。

 

 

 

昭和天皇は、戦前/戦後の連続性と非連続性について、もっともよく体現していた人物であると思う。天皇は誰よりも、その当事者であったのだから。天皇の責任を追及する人々のほうに、むしろそれが欠けていると私は感じる。

 

 

天皇に戦争責任などないほうが、よほど話がすっきりする。それならこの前の戦争は、「公民の義務」を果たそうとした一人ひとりの日本人の責任になる。「公民の義務」を果たしたはずが、なぜ忌まわしい戦争になってしまったのか。そのメカニズムを解明することも、彼ら日本人の責任になるし、それはストレートに、戦後のわれわれの責任でもある。

 

 

 

最後に、感謝のことばなどを。(略)

 

   二〇〇〇年七月三日              」

 

 

〇 以上で、加藤典洋橋爪大三郎竹田青嗣 著 「天皇の戦争責任」のメモを終わります。

 

私が一番強く持った感想は、加藤氏のような人(聡明な人)でも、天皇に関しては、

皇道派青年将校のような、天皇親政説論者になってしまう現実がある、ということの

やりきれなさです。

宗教は理屈や合理的判断ではなく、血や肉に沁み込むように心に入り込んでしまったもの、という言葉を聞くことがありますが、私たち日本人にとって、天皇は、日本神道と微妙に絡み合っているため、何かの拍子に、あっという間に、宗教的な力で、国民が乗っ取られてしまう可能性もゼロではないと感じます。

 

実際、安倍政権では、意図的にその路線を狙っていたようなフシもあり、おそろしいと思います。本来、日の丸や君が代は、私たちの大切な国旗や国歌であるのに、その汚い企みがいつもその陰に見え隠れするので、心から素直に、それを尊べない状況になっています。意識的にその企みと闘いながら、天皇制を大切にしていくのは、難しい道だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

天皇の戦争責任(第三部  敗戦の思想)

 

「脱・天皇

 

竹田 最後に、なぜ革新、保守という枠組みでの戦争論天皇論はもはや無効なのか、その先どういう所へ出ていけるのかということを、できるだけポイントをしぼって言ってもらえませんか。

 

加藤 昭和天皇の責任が、左翼的に追及しようというのとは違う形でプログラムにあがるところまで、ようやくたどり着いたという印象を僕は持っているわけです。普通の人間が天皇のことを「あのおじさん、なにを考えてたのかなぁ」と思う、そういう問いのところまで、ようやく来た、それはこれまでになかった段階だという認識なんです。

 

 

たとえば今までの革新派というのは、戦後憲法の中心は第九条だと言うけれど、第一条の天皇の規定は無視する。少なくとも軽視します。また、従来型の保守派であれば、憲法という第一条の天皇の規定をあげて戦前から連続していると言うけれども、第九条のことは言わない。少なくとも軽視する。ここにも共犯的な相互依存の関係があって、第九条を強調する人は第一条の天皇規定を日陰者あつかいし、第一条の天皇規定を強調する人は第九条の戦争放棄条項を日陰者扱いするという、一対の補完構造がある。(略)

 

 

 

橋爪 日本の近代の経験というのは、天皇と切り離すことができない形で迎えられていて、それでこれまでずっと続いていたでしょう。そうすると、日本近代のルールなり規範なりに近代人としての日本人が従う場合、最終的な根拠がどこにあるかと考えていくと、このルールが普遍的だからとか、このルールの従わないと信念に背くからとか、処罰されるからとかいう形にはならなくて、かならず内部に天皇というものが密輸入されている。

 

 

そして、ほかの人間も天皇に従っているからとか、昔からこういうふうにやって来たからとか、そういうエクスキューズでもって出来上がっていると思う。

だから、近代ルールに従っているつもりなんだけれど、天皇というローカル・ルールが混じっているがために、たとえば国際ルールに違反してしまったり、思想のゲームを展開していると妙なことになったりする。そういう副作用がたくさんある。

 

 

 

それから、人格とか個人の尊厳とかいうことで言うと、日本でこれという用意もなしに自己形成しようとすると、自己と世界との関係がうまい同心円にならないで、もとのところからかならずちょっとずれてしまって、次の円をあてもなく描いていったりとか、そういうぶざまなかたちになるような気がするわけです。(略)

 

 

たしかに世の中は豊かになり、民主的になってよくなっているんだけれど、しかしあるところでは、かえってその構造はひどくなっている。その源はどこにあるんだろうと考えていくと、日本国の奇妙な成り立ちのなかにもそれがあって、江藤淳が言っている検閲とか、八月革命説だとか、妙なことがいっぱいある。(略)

 

 

 

橋爪 民主主義を名乗っているがゆえに、堕落するという構造がずっとぬぐえないと思う。それで気にしていたわけなんです。(略)

 

 

 

橋爪 明治維新のときに、外国人にいわれもなく差別され、小さな島国の劣等な国民であるというあつかいを日本人は受けた。(略)

だけど、日清、日露で勝ったあとに教育を受けた人たちは、加藤さんが独善と言ったけれど、その独善が無意識にいきわたるような形で日本人として自己形成した。アジアの人々が日本に対して反感をもち、日本を絶対に許さないという理由は、個々の具体的な被害もさることながら、その日本の独善にあると思うわけです。(略)

 

 

 

アジアがなにか言うと、やたらペコペコしたりするけれども、アジアの人々がどういうまなざしで日本を見て、何に怒ってそのようなことを言っているかということにあえてに耳を閉ざし、目をふさいでいる。相手の実態に対して無知であり、自分に対して過剰に防衛的にふるまうということが、ポジティヴにでれば独善で、消極的にでれば……

 

 

加藤 迎合。

 

 

橋爪 うん、そうです。ということで、その構造は全然変わってないんじゃないかと思う。

 

加藤  僕もね、そんなに楽観はしてないんです。ただ、少なくとも戦争に負けたことで、いまみたいな会話が可能になった。(略)

 

 

 

橋爪 日本の言論に関して言えば、そんなに楽観できないと思うんですよ。日本人の偏見のあり方をごく概括的に言うと、日本は日本であって、その外側に異文化の世界が広がっているというふうには認識しているんだけれども、それが有力な世界文化でないかぎり受け入れないという原則を持っている。

 

 

昔はそれが中国だったわけですが、百五十年前からは、欧米であるなら受け入れるということになった。(略)

 

 

 

竹田 今回、ほんとうに天皇議論は語りつくしたという感がありますが、いちおう最後に司会者として僕の立場から感想を言わせてください。(略)

もちろん過去の日本がしたことをしっかり理解することは不可欠のことです。でも、僕はお二人がそうだとは実は思っていないけれど、それがお国批判に終わるようなものであれば大した意味がないと思う。そうではなくて、近代の国家関係の普遍的な理解にとどくためのものでなければならないと思います。(略)

 

 

 

だから、日本という国はとにかく駄目だとか、日本思想の弱体などは、別に擁護する必要もないが、強調する必要もないというのが、僕の感想です。むしろひっとしたら、そうとうひどい「ねじれ」があって、さんざんこの「ねじれ」に苦労するという経験をもった日本から、ヨーロッパ=近代の「原罪」のリアクションとしての思想を乗り越える可能性がでてくるかもしれない。(略)

 

 

 

われわれはひどい「悪」を行なった、そのことで世界中の人々に非難されている。二度と「悪」を行わないように考えよう。思想は、そういうリアクションだけでは弱すぎる。戦争全体、ヨーロッパ全体、近代全体をもう一度とことん考えなおさないといけない。お二人の問題提起は、そういう流れの端緒に立つものだと思います。」

 

 

〇 この竹田氏の言葉で、この「天皇の戦争責任」は終わっています。

とても難しくよく理解できない所が多かったのですが、一応最後まで読みました。

多分、私は途中で投げ出すだろう、と思いながらも、最後まで読んだのは、難しい内容ながら、この「天皇問題」が、一般庶民を一絡げにして、動かすほどの力があるという、何か直観のようなものが私の中にもあったからだと思います。

 

 

この後に、加藤氏と橋爪氏の「あとがき」があります。

次回は、橋爪氏のあとがきをメモしたいと思います。