読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

国体論 ー菊と星条旗—

「▼ 徳富蘆花の議論の先見性

(略)

すなわち、「よくない天皇の周囲」=「君側の奸」を討てば、「本来の天皇の政治」が実現するはずだという論理である。

この二点において、蘆花の議論は予見的であった。しかし、とにもかくにも、幸徳秋水天皇から抱擁されず、それによって大逆事件以前においてはおそらくさほど固まっていなかった「天皇制との対決」の必然性という思想を固めることとなる(幸徳の遺書「基督抹殺論」、一九一一年)。(略)

 

 

3「国民の天皇」という観念

米騒動朝日平吾安田善次郎刺殺事件

戊辰詔書大逆事件による締め付けが図られても、明治国家体制の支配構造の動揺は鎮められるどころか、激しくなった。(略)

 

 

 

この状況をさらに加速させたのは、第一次大戦である。ロシアでは戦時中に革命が発生し帝政が打倒され社会主義政権が成立しただけでなく、大戦の帰結として、明治日本が範を取ったドイツをはじめいくつもの国で君主制が倒れた。(略)

 

 

 

ロシア革命に対する干渉戦争、シベリア出兵によって、折から上昇していた米価が暴騰し、米騒動が発生する。(略)米騒動は、無名の怒れる大衆が国家権力と暴利をむさぼる資本に対して何をなしうるのかを突き付けたのであった。(略)

 

 

朝日平吾のモダンかつアルカイックな権利主張

朝日の遺書、「死の叫び声」は、次のような一節によって始まる。

 

 

日本臣民は朕が赤子なり、臣民中一名たりともその堵に安んぜざる者あればこれ朕の罪なり……とは先帝陛下のお仰せなり。歴代の天皇もこの大御心をもって国を統べさせたまい、今上陛下も等しくこれを体したもうものにして、一視同仁は実にわが神国の大精神たり。

 

 

 

ところが、「されど君側の奸陛下の御徳を覆い奉り、自派権力の伸張を計るため各々閥を構え党を作しこれが軍資を得んため奸富は利権を占めんためこれに応じ、その果は理由なき差別となり、上に厚く下に薄く貧しき者正しき者弱き者を脅し窘虐するに至る」という現実が目の前にある。

 

 

朝日は、続いて具体名を挙げて、元老政治家、政党、財閥等の支配層を軒並み罵倒している。とりわけ印象深いのは、貧困と不平等を告発する次のような一節である。

 

 

 

過労と不潔と栄養不良のため肺病となる赤子あり。夫に死なれ愛児を育つるため淫売となる赤子あり。戦時のみ国家の干城とおだてあげられ、負傷して不具者となれば乞食に等しき薬売りをする赤子あり。いかなる炎天にも雨風にも右に左にと叫びて四辻に立ちすくむ赤子あり。食えぬつらさに微罪を犯し獄裡に苦悩する赤子あり。これに反し大罪を犯すも法律を左右して免れ得る顕官あり。

 

 

 

高等官や貴族や顕官の病死は三段抜きの記事をもって表彰され、国家交通工事のため惨死せし鉄道工夫の名誉の死は呼び捨てにて報道さる。社会の木鐸なりと自称する新聞雑誌はおおむね富者の援助のよるが故に真個の木鐸たるなく、吾人の祖先を戦史せしめ兵火にかけし大名は華族に列せられて遊惰淫逸し、吾人の兄弟らの戦史によりて将軍となりし官吏は自己一名の功なるがごとく傲然として忠君愛国を切り売りとなす。

 

 

 

まことに思え彼ら新華族は吾人の血をすすりし仇敵にして大名華族はわれらの祖先の生命を奪いし仇敵なるを。

吾人は人間であると共に真正の日本人たるを望む。真正の日本人は陛下の赤子たり、分身たるの栄誉と幸福とを保有し得る権利あり。しかもこれなくして名のみ赤子なりとおだてられ、干城なりと欺かれる。すなわち生きながらの亡者なり、むしろ死するを望まざるを得ず。

 

 

 

朝日の論理は、明治国家の論理の一部を一方向に徹底したものであった。すなわち、すべての日本人が日本人である限り、等しく「天皇陛下の赤子」であるはずであり、現実にそうならなければならない。

この論理は、君主と人民の関係を親子関係のアナロジーでとらえているという意味でアルカイックでありつつ、「天皇陛下の赤子」という資格において人民の「栄誉と幸福とを保有し得る権利」を主張している点でモダンである。

 

 

 

そして、このモダンな論理を天皇制国家は表向き否定することはできない。なぜなら、この国家自身が、維新以来様々な国家儀礼の整備と実行(歴史家のタカシ・フジタニが言うところの「天皇のページェント」)を通して、全国民が等しく参与する「国民の統合」という観念・感覚を作り出してきたのだからである。(略)

 

 

ゆえに、朝日は「大正維新」を呼び掛け、自らその先駆けたらんとした。その実現手段としては、「最急の方法は奸富征伐にして、それは決死をもって暗殺する他に道なし」とされる。

「黙々の裡にただ刺せ、ただ衝け、ただ切れ、ただ放て」という遺書末尾付近の言葉には鬼気迫るものがあり、現に朝日に触発されるように、安田善次郎暗殺から約一か月後に首相の原敬が当時一八歳の青年であった中岡艮一によって刺殺される事件が起こる。」

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「「2 明治レジームの動揺と挫折

▼「臣民としての国民」から「個人と大衆」へ

第三章に述べた通り、日露戦争終結から大逆事件に至る時代は、「戦前の国体」の「形成期」から「相対的安定期」への転換期にほかならなかった。(略)

 

 

しかし、この転換期の時代に流れた雰囲気は、「安定した民主政治の幕開け」とは程遠い、不安感と焦燥感に満ちたものであった。ポーツマス講和条約への不満が爆発した日比谷焼き打ち事件(一九〇五年)後の時代の空気について、政治思想家の橋川文三は次のように述べている。

 

 

日本国民がほとんど三十年にわたって信奉してきた国家目標、もしくは人間目標に対して、はじめて漠とした疑惑をいだき始めたということであった。

 

 

(略)

権力側から見れば、この状況は「思想問題」としてとらえられ、これへの対処として、天皇を中心とした国家発展への一致協力を国民に求める戊辰詔書(一九〇八年)が発せられる。しかし、その効果は薄かった。(略)

 

 

 

▼「国民の天皇」の起源

(略)

この事件に対する世論の反応には、天皇制の両義性が色濃く表れていた。歴史家の伊藤晃は、北一輝の唱えた「国民の天皇」の概念を念頭に置きつつ、明治憲法そのものにおいても、「天皇が国民を<天皇の国民化>する」ベクトルだけでなく「国民が天皇を<国民の天皇化>する」というベクトルが存在していたと論じている。(略)

 

 

つまり君民一体、万民翼賛あっての万世一系だということだ。ここに国民は上も下も国家の認められた一員だという観念が生まれるとすれば、その媒介者天皇はまさに、国民国家形成の精神的「機軸」(伊藤博文)の位置にあったのである。「国体」はここで国民思想化されたのだ。

 

 

 

幕藩体制においては、身分制度によって「分際をわきまえる」よう命ぜられつつ分断され、せいぜい封建諸侯の領民という、空間的に狭隘な共同体の構成員としてのアイデンティティしか持ち得なかった人々が、近代国民国家の形成によって、都鄙貴賤にかかわらず「国家の認められた一員」(=天皇陛下の赤子たる臣民)としての拡大されたアイデンティティを獲得してゆくということが、明治期以来生じた出来事であった。(略)

 

 

 

 

このように、天皇によって承認された公民(=臣民)の翼賛、輔翼によってこそ国体が成り立つのだとすれば、たとえそれが幾重にも抑圧されたものであったとしても、明治憲法そのもののなかに、「国民が天皇を<国民の天皇化>する」原理が含まれていた。後に見るように、この原理の論理的帰結を誰よりも非妥協的に追及したのが北一輝であった。

 

 

 

▼明治国家自身による挫折

右の視角から見た時、大逆事件はある意味で「明治国家自身による明治レジームの挫折」として浮かび上がってくる。

何故なら、公式イデオロギーによれば、日本国民たるもの「天皇の赤子」として積極的に国体を翼賛すべき臣民であるのにもかかわらず、そうしないどころか、大逆の欲望を持ってしまう国民が存在することを大逆事件は明らかにした―しかもそうした存在をわざわざ捏造することさえもあえてして―からである。(略)

 

 

徳富蘆花幸徳秋水を擁護した講演「謀叛論」に言及して、伊藤晃は次のように述べている。

 

 

(略)

こういう明治維新からして、蘆花は、明治天皇には幸徳のような社会主義者たちを抱擁するところがあってほしい、また天皇は必ずやそうするであろうと考える。ところが現実には、幸徳たちは天皇の名による裁判で死刑になった。(略)

結局これは、天皇を取り巻く連中が天皇の徳を傷つけたものではないか。これが蘆花の強く主張したいところであった。

 

 

徳富蘆花の議論は、「戦前の国体」の「形成期」における福沢諭吉の「丁丑公論」(一八七七年、公表は一九〇一年)を継承するものとも見なせよう。

(略)

革命政権が革命の要素を絶滅させたならば、それは自己更新の機縁を失って必ず腐敗堕落する。こうした論理によって福沢は、明治国家は謀叛人となった西郷を抱擁すべきだと論じたのである。」

 

 

 

歴史の中のイエス像

〇 国体論の途中ですが、松永希久夫著「歴史の中のイエス像」から少しメモしておきたいと思います。

私の疑問は、何故、キリスト教圏では、真実が重んじられる社会システムが作られたのに、仏教圏では、そうはならなかったのか…なのです。

仏教でも、嘘はいけないと教えられていると思います。儒教でもそうだと思います。でも、社会のシステムをそのように作り上げるとか、変えていくという動きや熱意は、キリスト教圏ほど、強くないような気がします…。

 

日本は、西欧の真似をしようとしたので、法律も政治も西欧の形を受け入れています。でも、その精神は全く受け入れず、型は民主主義のように見えても、その内実は、為政者の好きなように報道を牛耳り、司法を牛耳り、国民を誘導しています。

 

この「歴史の中のイエス像」はNHK市民大学4月ー6月期(1987年発行)のテキストです。放送は記憶がないのですが、私がキリスト教について読んだものの中では、一番わかりやすかったので、何度も読み返して、持っていました。

 

目次は

1 たったひとつの生涯から 2 イエスのはたらきかけ  3 イエスの教え

 4 イエス神の国運動  5 神の国とは?  6 神の国と国家  7 イスラエル回復の鍵  8 神への懐疑と希望  9 イエスの使命  10 イエスと弟子たち  11 十字架への道  12 復活とは?

 

となっているのですが、その中の 5 神の国とは? をメモしたいと思います。

 

「5 神の国とは?

エスの「神の国」理解

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とのイエスの活動の与えた印象は強烈でした。イエスの活動は日に夜をついで行われ、彼も弟子たちも休息の暇さえなかったようです。

 

それだけに、敵対者も現れ、誤解は大きくなったのであります。しかし、イエス自身は、ガリラヤでの活動を終えると、そうした物情騒然たる中を、敵対者の本拠地であるエルサレムへと旅立ちました。ひと握りの弟子たちが行動をともにしていますが、「イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた」と記されています(「マルコ」10・32)。

 

 

しかし、イエスは、自身の「神の国」の理解によって、選ぶべくしてこの道を選んだのだと申しました。

そこで、とうぜん問題になりますのは、イエスは「神の国」の到来ということでなにを考えていたのか、また、なぜそのように考えるようになったのかということであります。今回から四回ほどは、その点に関して、もう少し掘り下げて考えてみたいのであります。

 

 

おもしろいことに、イエス神の国について多くの教えを語っているのですが、直接、神の国を定義しているものはないのです。多くはたとえ話というかたちで語っているわけですが、まず、そうしたものから手掛かりになるようなものを探してみましょう。

 

「「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育っていくが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈り入れ時がきたからである」。また言われた。「神の国を何に比べようか。またはどんな譬えで言い表そうか。それは一粒のからし種のようなものである。

 

 

地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝をはり、その陰に空の鳥が宿るほどになる」」(「マルコ」4・26-32)といったたとえ話があり、また

 

 

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」」(「ルカ」17・20-21)

といった言葉があります。

 

 

これらを読むと、イエスが考えている神の国とは、国家や政治形態を持った外面的なものではなく、内面的な、いわば目に見えない精神的なものという気がします。心あるいは魂といった人間の内側に関わる事柄だということです。たしかにそうなのです。しかし、留意すべき点は、それにもかかわらず、目に見える面もともなうということです。

 

 

いつの間にか内側から神の国が、本人も知らないうちに種がまかれるが、必ず成長して鳥の宿るような大樹となるというのです。神の愛、神の言葉がまかれるのですが、必ず、神との交わり、隣人との交わりの中で具体的な影響が形を取るということでありましょう。

 

 

内面性と外面性

キリスト教は、宗教のひとつであり、信仰とは心の問題、魂の問題だとよくいわれます。しかし、それは真理の一面であって、神の国はけっして政治形態をもつ国家と同一視はできませんが、内面的・精神的なものだけかというと、そうではありません。

 

 

注意深く言葉を使わねばなりませんが、社会・歴史・世界といったものの中に神の支配が実現するということは、単に目に見えない抽象的・精神的な領域だけではなく、社会を動かし、歴史を変え、世界を新たにする具体的な形にまで力を及ぼすものなのであります。

 

 

聖書が語っているのは、けっして魂の救いではありません。霊魂も肉体もひっくるめたからだの復活ということをいうのは、そのためであります。個人的な霊魂の救済宗教ではなく、霊魂不滅をいうのでもなく、体の甦り、新天新地の出現を語るわけで、それはとりもなおさず、この世界についても、この肉体についても、その全存在の救いを考えているということなのであります。

 

 

したがって、神の国は見えない領域に深くかかわっており、そこに源がありますが、見える形、現実の世界、歴史、人間でいうならば魂だけではなくて、その体をも考えているのです。内面の世界と外面の世界との双方に関係し、その決定的な要素が、”内面性に生命線(レーゾン・デートル)をもつ外面性”にあるという点に留意しておきたいと思います。

 

 

神の国の背景

さて、イエスの考えていた神の国、あるいは民衆の期待していた神の国、はたまた律法学者たちが考えていた神の国といったことを吟味するためには、どうしてもここで、その背景になっている旧約聖書神の国理解を考えて見ざるをえないのです。そこでその面にメスを入れてみることにしましょう。

 

 

新約聖書の二七冊の文書はイエスが死んで約100年以内に成立しました。しかし、旧約聖書の方は、イエス以前の一〇〇〇年以上のイスラエルの歴史を舞台にして事柄を描き、折々に成立してきた三九冊の文書は、長い歴史の経過の中から生まれて来たという特徴をもっています。

 

 

 

つまり、旧約聖書神の国理解と言っても、長い歴史の流れの中で、神の国の理解について、様々な意味合いの変化が見られます。また、それをとらえる視点の変化があります。このように多様な理解の変遷があるからこそ、イエスの同時代においても、神の国をどうとらえるかについて相違が生じ得たのです。問題は、多様な変遷にもかかわらず、その中を貫いているものをイエスがどうとらえたかであります。

 

 

 

イスラエルとは神の支配

旧約聖書の中に「神の国」という語を探しても見当たりません。それでは旧約聖書においては神の国という概念はなかったのかと申しますと、そうではありません。じつは、イスラエルという語は、言語では「神支配し給う」あるいは「神の支配」という意味なのです。

 

 

 

イスラエルというと、今日では一九四八年に独立したイスラエル共和国のことをすぐ思い浮かべますが、その古い古い先祖が古代のイスラエルの民なのであり「神の国」の実態をなしていたのです。

旧約聖書の中ではイスラエルーこれをまた種々な言い方で呼んでいますが― が中心課題であり、それがどのようにして成立し、発展し、崩壊していったか、またそれを回復・再現するためにどのような努力が積み重ねられたかが、その総主題であるといってもよいのです。

 

 

 

つまり、旧約聖書は、その全巻をもって神の国について語っているといってもいいのです。したがって、それを説明し把握するだけで優に二年や三年はかかります。このようなイエスについて語るという一二回の講座の中で、旧約聖書まで扱うのはある意味で乱暴なのですが、イエス神の国理解を知るのに不可欠であるがために、それとの関係で最小限度、知っておかねばならぬことを、簡潔に述べることにします。

 

 

 

出エジプト

イスラエルの起源は、出エジプトに求められます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフといった先史時代の族長にまつわる物語は「創世記」に残されていますが、有史時代の始めは、モーセという指導者のもとにエジプトからの大脱走が行われたところに出発します。

 

 

 

紀元前一四世紀ですが、エジプトのパロ(古代エジプト歴代の王の尊称)の圧政下で奴隷状態にあり、スフィンクスやピラミッドの大土木事業に酷使されていた人々が、その人びとを救うようにとの神の呼びかけによって指導者となったモーセのもとに集団で脱走し、アラビヤの砂漠を越えて今日のパレスチナに移住します。この事件については旧約聖書の二冊目におかれている「出エジプト記」に記されています。

 

 

 

先刻、少しふれた族長たちの話は、一冊目の「創世記」の第一二章から最後までに記されています。一言で言うと、アブラハムが神の呼びかけを聞いてこれに応え、父母を離れてメソポタミア地方を旅立ちます。そして神はアブラハムとその子孫にカナンの地を与えると約束します。その後、アブラハム、イサク、ヤコブの三代にわたって、手に汗握るような事件が次々と展開していきますが、ヤコブの晩年に大飢饉があってエジプトに難を逃れ、移住してきます。

 

 

 

これを歴史的に跡付けてみますと、エジプトの古代朝・中王朝・新王朝は例外なしにハム系の民族の王朝ですが、ある一時期だけセム王朝が支配したことがあります。それはヒクソス王朝(紀元前一七二〇~一五五〇年)で、ヤコブがエジプトで大臣になっていた子供のヨセフを頼って移住し栄えたのは、この時期と考えられます。何故ならばセム系のヤコブやヨセフはヒクソス王朝であるからこそ優遇され、保護を得たと考えられるからです。

 

ヒクソス王朝が倒れ、またしてもハム系の王朝が次々と立ち、セム系の人々は使役層として酷使されるようになり、第一九王朝のラメセス二世というパロのとき、その頂点に達しました。その紀元前一三~一四世紀ころに出エジプトという事件が起こったのであります。

 

紅海の奇蹟と十戒にもとづく契約

さて、出エジプトを内容とするイスラエルの起源は二つの大きな中心をもっています。その一つは、紅海の奇蹟と呼ばれるもので、モーセの率いる人々が脱走していくのを、これを喜ばぬパロが軍隊を送って追跡させ連れ帰ろうとします。ところが、モーセの祈りにより、目の前にあった海が二つに分かれて人々の逃れの道が備えられ、追跡してきたエジプト軍がそこに至ると、分かれていた海が一つとなって追跡の手を断ったという出来事であります。

 

 

重大なことは、彼らがこの自然の大驚異の背後に神の手を見たことであります。

人間的な可能性を超えた神の救いのわざとして彼らはこの事件を心に刻んだのであります。死と滅び、あるいは奴隷の縄目以外のなにものをも予想しえなかったときに、ただ神の力によって、生を与えられ、新しい未来が拓かれた。そこに彼らは、神の恵み、神の救い、神の支配を経験したのです。

 

 

 

もう一つの中心は、紅海の奇蹟ののち、荒野の四〇年の彷徨を経て、彼らは約束の地カナンに入ってゆくのですが、その砂漠の旅の出発点に際して、彼らはモーセを媒介に与えられた十戒を内容とした神との契約を結んだという出来事であります。十戒とは、神と人間との関係についての第一戒から第四戒までと、人間とその隣人との関係についての第五戒から第十戒までとの一〇の約束から成り立っています。

 

 

つまり、出エジプト・紅海の奇蹟ということを経験した人々が、自分たちを救ってくれた神との関係において自分たちは今後歩んでいこうと考え、神とのあいだに締結した契約の内容が、神から命ぜられている一〇の要素に従い、これを守るというかたちで示されているのであります。

 

 

 

この契約の中心は、神と人間との関係、いわば信仰の領域と、人間同士の関係、倫理の領域とから成立していますが、これが神と民との生ける愛と信頼の組み合わさったものとして表現されていることに特色があります。先にイエスが律法を一言で要約すれば「神を愛することと、己の如く隣人を愛することだ」とした点にふれましたが、この十戒にふれていることがわかります。

 

 

 

エスはけっしてユダヤ教を否定したり、律法を否定しようとしたのではありません。むしろ、十戒の中心をとらえて、そこに立ち返らせようとしているのだということができます(「マタイ」一五・17-20参照)。

 

 

 

その関連で注意を喚起したいのは、十戒の布告に先立って、「私はあなたの主、神であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という宣言がなされていることであります。これは、神の人々への呼びかけであります。その応答として一〇の約束が求められているのです。

 

 

憲法で言えば第一条……第二条……という条文の前に「前文」があります。それが憲法の精神、あるいは憲法の基盤になることを述べているのであります。十戒も同じであって、第一戒から第一〇戒までの条文に先立って、律法の精神・基盤が前提として掲げられているのです。イエスは、律法を要約するに際して、「イスラエルよ、聞け。主なる私たちの神は、ただ一人の神である」といっていますが、これも十戒に対応しているのです。

 

 

つまり、十戒に先立って神は、出エジプト・紅海の奇蹟を想起させ、そこで生き生きと成立した神の愛と民の信頼の関係に立って語っているのです。

十戒の原文はヘブル語ですが、この十戒の「~してはならない」という禁止命令は、元来の文法では断言命令 epexegetical imperative というかたちで記されています。その意を生かして訳してみますと、こんなふうになります。

 

 

「私は、あなたの神、主であって、あなたのエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。もしあなたがそのことを本当に知っているなら、あなたは私の他になにものをも神とするはずがない」。第二戒も同じです。「私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。もしあなたがその私の愛を知っているのであれば、あなたは自分のために偶像を造るはずがない」。以下、みな同じです。

 

 

 

人間関係の約束も同じことです。「私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。もしあなたがそのことを本当に知り、神の愛と信頼とを知っているというのなら、隣人を殺すはずがない。姦淫するはずがない。盗むはずがない。………」。

 

 

 

神との誓約共同体

この十戒を中心に契約を結んで成立した誓約共同体、それがイスラエル(神の支配)と名付けられたのであります。それがイスラエルの起源なのです。神の国とは何よりもまず、神の愛を信じ、それに対する応答として神との交わり、隣人との交わりを愛と信頼によって保つ、そういう共同体として出発したのであります。

 

 

ここまで注意深く言葉を用いてきたつもりですが、エジプトから脱走してきた人々はまだイスラエル民族にはなっていません。イスラエルの先祖たちと呼んで来ました。しかし出エジプトを経験して、十戒による神との誓約をした人たちが、これからイスラエルとして歴史を担って歩み出したのです。そこからイスラエルが成立したのであり、彼らは同じ信仰の者同士としか結婚しませんから、イスラエル民族が起こってきたのであります。

 

 

もちろんエジプトから脱走してきた人は、多くセム系であり、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫たちです。その意味では血族的な関係がなかったとは言えません。たしかに家族、部族という単位で行動していたでしょう。しかし、モーセの指導下において契約を結んだ神誓同盟が民族になっていったのであります。

 

 

大切な点は、そこにできたイスラエルは神との生きた呼応関係を前提にした誓約共同体として出発した、それが本来の姿であったということであります。これがイエス神の国をどう理解していたかという問いと深くかかわることは、よくおわかりになるでしょう。」

 

〇 「6 神の国と国家」からも、少しだけメモしておきます。

 

「6 神の国と国家

(略)

士師とは聞きなれない言葉ですが、武士の士と教師の師を結合させたもので、軍事的指導者であり、かつ教育的指導者でもあるという面から出てきた訳語です。(略)

 

 

モーセヨシュアも、そしてギデオンとかサムソンとかいった名は聞き及んだ方もあるでしょうが、代々の士師たちは、神から召されてこれに応え、イスラエルの緊急事態のたびに指導権をとった人々で、そうしたかたちでイスラエルが治められていたといえます。つまり、指導者たちは直接に神の言葉に従うというかたちで民を指導したわけで、神の直接支配ともいうべき、生き生きとした神と民との関係が保たれておりました。

 

 

王国形成とその問題

(略)

士師の時代には敵が攻めて来てから、畑を耕したり羊を飼っていた日常の家業を捨てて武器をとり、戦場に赴く。そして、戦いが終われば、元の生活に復したのです。(略)

つまり、常備軍を必要とし、職業軍人を雇っておくためには税金が必要になり、税金を集めるためには官僚組織が必要となり、この全体を総轄する専従の指導者、すあんわち王が必要になったというわけです。

 

 

王制の問題・国家の問題

(略)

サムエルは、王制をとると、徴兵制・税制・課役といったことで苦しみ、娘たちを王のハーレムに奪られても何もいえなくなるぞと指摘します。国家のためにという大義名分によって、個人の自由や権利が圧迫・喪失されるという点を洞察しているのです。それは専制君主制でなくとも同じです。

 

 

民主主義国家であれ、社会主義国家であれ、国家(共同体)の利益が優先されるときに、必ず個(社会の形成要素・個人)は抑圧されます。個の利益が優先されれば、国家(共同体)は崩壊します。この共同体と個の相克の問題が古代から人間の深刻な課題で今日におよんでいます。

 

 

 

個が栄えると、同時に共同体が栄えるという事実は、古代ギリシアアテネと、士師時代までのイスラエルのみに見られるというのは、大切な指摘です。(略)

 

 

いまや王が恒常的な指導者になり、その位置が保証され、さらに世襲制になってゆくと、個々の王が信仰的に、いつも神の呼びかけに正しく応えてゆく指導者であればよいのですが、神の声を聞かず、また従わない指導者であれば、イスラエルという名の国家は存在しても、神の支配という実態は失われてしまう危険性があるわけです。

 

 

 

そして、それは指導者が王であろうと大統領であろうと中央委員会であろうと本質は変わりませんから、国家という形態をとったときに内包された危機ということが出来るのであります。国家秩序の指導者たちの姿勢が共同体の生死を決定するのです。(略)

 

 

 

イスラエルと国家

(略)

このあたりに、イエスと同時代のユダヤの民衆が神の国の到来という期待をもち、メシヤを待望した時になによりもダビデの王国の再建と、ダビデの子、王としてのメシヤを考えたのは無理からぬものがあったともいえますし、他方、イエス自身が考えていた神の国の到来は、国家とは切れたところ、本来のイスラエルの、神の愛の呼びかけに応え隣人を愛するような生き生きとした交わりを本質としていたとも推測されるのであります。

 

 

 

王国時代のイスラエルの顕著な現象は、イスラエルという国家と神の国という内実が一致しているかどうかという点に鋭い目を注ぐ人々が起こったということです。神から召され、これに応えて民を治めているはずの王とは別に、王を見張り、イスラエルという国家の―内実と形との―自己矛盾・自己分裂を指摘しるために、神に召され、神の言葉を託されて語るという人々が出てきました。それが預言者です。(略)

 

 

 

見えざる偶像礼拝

王国時代の後半になりますと、預言者たちの批判は、さらに透徹したものになり、見える偶像礼拝だけではなく、見えざる偶像礼拝にまでおよびます。いや、その方が当面の中心問題になります。(略)

 

 

 

見えざる偶像礼拝とはなにか。他宗教の神々を拝むというのではなく、イスラエルの神ヤハウェを拝み、宗教的な生活を送っているのであります。エルサレムに、モーセ十戒を刻んだ石の板を納めた至聖所があり、そこに神がおられるということで神殿が建てられ、礼拝は盛んに行われていたのです。ところが、そういう形でじつは偶像礼拝が行われているのだと、預言者たちは王や民を弾劾したのであります。(略)

 

 

 

現代的にいえばアモスは社会正義を問題にしたわけですが、彼は、これを律法の指すイスラエル(神の支配)の内実を失った姿として問題にしたのです。

つまり、エルサレム神殿で礼拝が賑わって神と民との関係はつながっているようだが、隣人との関係が破れている以上、神の愛・神の呼びかけには真実には応えていないのだと指摘したのです。

 

 

別の言い方をすると、指導者や富者は金や地位といったものを神とし、真実の神を忘れている。いや、自分たちが自己の利益を追求しているのを、見せかけだけの神殿礼拝で包み隠し、正当化している。それは、神を礼拝しているようではあるが、結局は、御利益宗教の次元に引きずりおろし、神を自己の利益に仕える偶像にしてしまっているのだと言ったのです。

 

 

 

国家としてのイスラエルが神の支配としての内実を失った。それは指導者の罪・民の罪のゆえで、その罪は裁かれざるをえず、国家の滅亡は避け難く、民の離散も免れ難いというのが預言者たちの語りかけの基調であり、その裁きのかなたに神の赦しと救いを語ってゆくようになるのであります。

 

 

罪とは?

さて、ここで聖書でいう罪とはなにかを明らかにしておきましょう。(略)

すなわち、人間が最初は「全地は同じ発音、同じ言葉であった」という点から出発します。(略)

 

 

 

 

神がそれを見て、これを阻止したと物語は語ります。人間が陥った自己神化・自己絶対化を裁いたのであります。その結果が言葉の乱れであったというのです。

それは別段、神がなにかするまでもないことです。実は人間が自己を絶対化し自己を神とするということが始まった時、人間相互のあいだに話が通じ合わなくなったということなのです。

 

 

家庭でも職場でも、互いに自己絶対化する人があれば対話は不可能になり、コミュニケーションの欠如が起こる。したがって、言葉の通ずる者同士が全地に散っていったと、この物語はしめくくっているのであります。

罪とは、このことなのです。神と人間との正しい関係が崩れた、それは人間が神を軽視し、無視・抹殺し、自分を神として絶対化することですし、自分が世界の中心であり、主であり、他の人々はみな自分のいうことに従い、自分に奉仕すべきだと考えることです。(略)

 

 

 

ここに人間の根本的な問題があります。人間の内に巣くうエゴ(利己心)の問題、それを神との関係でとらえなおすと聖書でいう罪の問題なのですが、これはイスラエルだけの問題ではなく、人間の普遍的な問題であります。エゴのない人間はいない。原罪とはこの事実を意味しているのであります。

 

 

 

人間相互の愛と信頼の交わりを根本的に成り立たせなくするもの、それが「死にいたる病」、罪なのです。

逆にいえば、罪がイスラエル(神の支配)を成り立たせなくしている。これがイエスの課題だったのではないでしょうか。」

 

〇 共同体の神が「人間相互の愛と信頼の交わり」が大切だと「命じる」。互いに相手を大切にし合うのは、問答無用で当然のことだという価値観(哲学)がある社会と、あるのはただ「象徴天皇」だけの社会。

それぞれが、それぞれの価値観で好きなように生きることが大切で、むしろ大切なことは、何も言葉にしないようにという空気が満ちている社会。

 

 

マインドコントロールで、価値観を刷り込まれるのは、拒否したくなります。

でも、本当に本当に個々人が「好きなように生きる」ためには、互いに相手を大切にしあうというという価値観が隅々まで行き渡っている社会がなければ、ならないと思うのです。

 

嘘やインチキでマインドコントロールされないためには、真実が大切だという価値観が必要です。隠蔽や改ざんや不公正な世論誘導が行われない社会が必要です。

 

大事なことや真実を主張する時、偉そうに…とか上から目線で…とか言って

大切な問題まで相対化する態度は、良い社会を破壊する良くない態度だと思いますし、

そのようなことが行われている時、沈黙しているのは、その破壊に加担していることになると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「第七章 国体の不可視化から崩壊へ

     (戦前レジーム:相対的安定期~崩壊期)

 

1戦前・戦後「相対的安定期」の共通性

▼「戦前レジーム」と「戦後レジーム」の並行性

(略)

両時期には、次のような四つの共通点を見いだすことができる。

 

① 国体の不可視化と存在理由の希薄化

  (略)

戦前レジームの相対的安定期にあっては、このことは天皇制の希薄化として現れ、病弱で存在感の薄い天皇大正天皇)のキャラクターがそれを象徴する。(略)

 

 

②国際的地位の上昇

(略)

戦前レジームの場合では、日露戦争の勝利を受けて日本は世界有数の植民地帝国となり、第一次世界大戦を機としてさらにその勢力を拡大する。そして、一九二〇年に発足する国際連盟では、常任理事国の地位を獲得することになる。(略)

 

 

③ 国体の自然化・自明化

(略)

しかし、三つ目の共通点として即座に指摘しなければならないのは、「国体の不可視化」とは、「国体の清算ないし無効化」を意味するものではさらさらなく、むしろ不可視化することによって、それは一層強化され深く社会に浸透した、ということである。(略)

 

 

大正デモクラシーの「主権の所在を問わない民本主義」の理論は、このことを典型的に示すものである。(略)

だから「理想の時代」の末期における政治運動の自滅的な過激化は、逆に言えば、この外部喪失に対する絶望を表現する反応であった。

 

 

 

④ 主体的な選択の放棄と国際的地位の凋落の遠因

そして、第四の点として挙げなければならないのは、第二の共通の裏面として、この時代において、後の蹉跌をもたらす遠因が見出されるということだ。言い換えれば、国際的地位が向上し影響力が増大した時期に、進むべき方向性を主体的に、また創造的に選びとることに失敗したからこそ、この後の「国体の崩落期」が非常に困難な時代となる。

 

無論、こうした見方は後知恵に基づくものだ。しかし、このことは、「国体の不可視化」が「国体の失効」ではなく、「国体の自明化」であったことの直接的帰結であることは、指摘しておかなければならない。

 

 

 

「国体」は「坂の上の雲」 ― 明治レジームにあっては独立の維持と「一等国」化、戦後レジームにあっては敗戦からの再建と先進国化 ― に到達するために必要とされた。それらの目的が達成された以上、国体はある意味で清算されなければならなかったはずである。

 

 

だが国体の不可視化は疑似的な失効をもたらしはしたが、結局のところ、国体は、「自然化」されたにすぎなかった。

このことは、対内対外両面で政策の方向選択の誤りを導き、次なる「国体の崩壊期」において深刻な帰結をもたらすこととなる。われわれは、最も大きな力を持った時に、その力をどう用いるべきかに関して構想力を欠き、したがって無力だったのである。われらは最も富める時にあまりに貧しく、この貧しさにこそ、国体による国民統合の限界が表れている。」

 

 

〇 以前読んだ「サピエンス全史」に資本は持っているだけでは力にならない。どう使うか、何のために使うかという価値観がなければ…というような文章があったような気がして、探しました。

 

以前の記事をリンクします。

 

サピエンス全史 第十五章

軍事・産業・科学複合体が、インドではなくヨーロッパで発展したのはなぜか?イギリスが飛躍した時、なぜフランスやドイツやアメリカはすぐにそれに続いたのに、中国は後れを取ったのか?」(略)

 

彼らに足りなかったのは、西洋で何世紀もかけて形成され成熟した価値観や神話、司法の組織、社会政治的な構造で、それらはすぐには模倣したり取り組んだりできなかった。」

 

〇 西洋の価値観が一番だと思いたくはないのですが、少なくとも、彼らは「合意形成」が上手だと思います。合意形成が出来なければ、危機の際にも、互いに足を引っ張り合い、内部分裂を起こし、国民が力を合わせるということが出来ません。

 

合意形成のためには、「何世紀もかけて形成され成熟した価値観や神話、司法の組織、社会政治的な構造」が必要なのでは…と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼第二、第三の<狼>

先にも述べたように、東アジア反日武装戦線を世論は激しく指弾した。(略)

このように、彼らは世間から理解を拒否されることをもとより覚悟していたわけだが、その予想通りに、鈴木邦男の言葉によれば、マスコミは「「彼らは気違いだ」「人間ではない」といった、ヒステリックな糾弾キャンペーン一色」となった。

 

 

 

だが鈴木いわく、全く別の反応もあったのだという。犯人逮捕後、救援連絡センターには異例なほどに多額の救援カンパや物資の差し入れが集まっていたという。しかし、そのような状況は報道されない。その理由を鈴木は次のように指摘している。

 

 

すなわち<気違い>にすることによって、彼らの思い詰めた背景も、理論も無視することが出来るからである。(中略)

 

 

あの三島事件の時も、[日本赤軍の]テルアビブ事件の時も、そうであった。(略)

 

 

鈴木の言うようには、「第二、第三の<狼>」は出なかった。しかし、東アジア反日武装戦線が過激な方法によって提起した問題は、「何ら解決はしていない」がゆえに、形を変えて今日まで埋火のようにくすぶり続けている。(略)

 

 

 

そして、「第二、第三の<狼>」は「形を変えた」というのは、東アジア反日武装戦線のような日本人による思いつめた自己批判ではなく、あの戦争の未処理の問題を、被害者自身が追及するようになったということだ。一九九五年には、花岡事件に関して鹿島建設(旧鹿嶋組)が損害賠償請求訴訟を起こされ、二〇〇〇年に和解金五億円を支払うことになったことはその一端であり、日韓の間の懸案であり続けている従軍慰安婦問題はその典型である。(略)

 

 

▼なぜ「自立した日本帝国」を指定したのか

東アジア反日武装戦線の理路には、さらに読み取られるべき特徴がある。

(略)

これは、戦後日本がすでに自立した帝国主義国家と化していると見る立場である。

戦後日本を「日帝本国」と呼び、労働者階級まで含めた日本人全体を「帝国主義本国人」と呼ぶ東アジア反日武装戦線が、日帝の草刈り場たるアジア諸国民への「血債」の返却を迫るのは、この立場を真っ直ぐに敷衍したものである。

 

 

 

今日奇妙に映るのは、なぜこれほどまでに戦後日本の「自立性」が強調され得たのか、ということだ。(略)

してみると、六〇年安保闘争を根っこのところで衝き動かした動機が占領者としてのアメリカに対する反感であったとすれば、この自立性の過度の強調はナショナリズムの無意識的な発露であったようにも思える。(略)

 

 

 

▼「理想の時代」のエンドロール

とはいえ、六〇年安保から約一五年を経て、日帝自立論は相対的に現実に近付いていた。(略)

ゆえに、三島由紀夫の死と東アジア反日武装戦線テロリズムは、政治ユートピアを求める「理想の時代」の終焉を、言い換えれば、「アメリカの日本」である現実に対する原理的な異議申し立ての終焉を意味したのと同時に、来るべき「アメリカなき日本」の時代への移行を刻印する。(略)

 

 

 

出口のない、完成された擬制のど真ん中で、三島は自らに刃を突き立てた。それはあたかも、虚構的存在となった祖国の有り様を自分自身に集約させ ― 言うまでもなく、楯の会結成から自決に至る途上の三島の姿は極度に芝居がかっていた —、それを切り裂くことによって、虚構から腸をえぐり出そうとするかのごとくであった。(略)」

国体論 ー菊と星条旗—

「▼私的幸福への沈潜と公なるものに対するニヒリズム

(略)

吉本の考えでは、戦後民主主義なるものに成果があるとすれば、それは、戦争体験と敗戦直後の経験を通じて、「天下国家・公なるもの」の欺瞞性を日本人が徹底的に認識し、国家によってであれ、「公共の利益」の名のもとに動員されることを断固として拒むようになったことにほかならない。言うなれば、「公なるものに対するニヒリズム」が、戦後民主主義の成果なのである。(略)

 

 

 

 

そして、私的幸福への沈潜は、結局のところ欺瞞に満ちた抑圧でしかない「公なるもの」へと動員さえることよりもよほどマトモであり、そのような感覚を当時の日本人が戦後民主主義の成果として身に着けつつあるのだという吉本の時代判定は、「政治の季節から経済の季節へ」という安保闘争後の時代の転換に徴して、「安保闘争戦後民主主義の成果」という見方よりも正鵠を射ていた。(略)

 

 

そして、吉本にとって、生活保守主義的であることと、最も過激に振舞うことが矛盾でなかったのは、次のような論理によってであった。

 

安保闘争というものに参加しないで、家庭の幸福を追求していて、しかし全学連の主流派のラジカルな行動を直接的に支持するという声なき声があったと思うんですよ。

 

 

吉本のこうした想定がどこまで正確であったかは不明である。(略)

 

 

 

つまり、吉本が加わった全学連主流派の行動の動機もまた、「公なるものに対するニヒリズム」であったと彼は事実上総括しているのである。(略)

いかなる過激な行動も公共性に到達しない、言い換えれば十全な政治的意味を持ち得ないことが半ば自覚的に前提されているからである。(略)

 

 

2 政治的ユートピアの終焉

三島由紀夫が嫌悪した「戦後の国体」

「理想の時代」は、「戦後の国体」がさらなる虚構性とねじれを帯びてゆく中で、その終焉の刻印を押されることになる。(略)

 

 

 

非核三原則は、いかなるかたちでも日本国は核兵器と関わらないことを宣言するものであるが、アメリカはそれ以前もそれ以後も日本に核兵器を持ち込む事実上のフリーハンドを持っていると見られ、その内実は全くの骨抜きのものにすぎなかった。(略)

 

 

この状況に深く苛立った人物のひとりが三島由紀夫であった。三島は、死の三か月前に次のように書いている。

 

 

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまふのではではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思ってゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

 

 

 

ここで三島が心底嫌悪している空虚な「経済的大国」こそ、「アメリカの日本」としての「戦後の国体」という選択によって可能となった果実であった。

三島の脳裏を常に去らなかったのは、膨大な数の彼と同世代の戦死者たちであったことは確実と思われる。「こんなもののために彼らは死んだのか?」— この憤りが、最終的には作家を決起へと至らしめ憤死をもたらした。

 

 

言うまでもなく、今日、三島が悲観した状況よりも、情勢はさらに悪化した。なぜならもはや、経済的繁栄も失われつつあるからである。

 

 

 

▼右からの大逆— 三島の決起と自決

一九七〇年一一月二五日、三島はあの衝撃的な事件を引き起こす。三島の決起は、巨大な謎として残り続け、今日でもその解釈論議は延々と続いている。(略)

 

 

そして、今日の視点から見て、三島の檄文において最も不可解であるのは、決起の前年にあたる昭和四四(一九六九)年一〇月二一日という日付への非常に強いこだわりである。(略)

 

 

 

一〇月二一日は国際反戦デーであるが、全共闘運動が盛んであり、ベトナム反戦運動も高揚していたなかで、三島はこの日に左翼勢力と政府の間で、六〇年安保に匹敵する大規模な争乱が起こることを期待していたと見受けられる。(略)

 

 

 

これらの不可解な点をめぐって、英文学者・鈴木宏三は、大胆な、しかし綿密に構成された仮説を提示している。それによれば、一九六九年一〇月二一日に自衛隊が治安出動する事態となれば、三島由紀夫は縦の会のメンバーを率いて皇居に突入し、昭和天皇を殺したい、という願望を持っていたのではないかという。(略)

 

 

しかし、三島の「英霊の聲」に示された激しい天皇批判が、「天皇が神たるべき時に神足らなかった」という命題に約言されるならば、「戦後の国体」の作り手としての天皇にも、同じ批判は向けられうるであろう。仮に三島の本望が大逆であったのだとすれば、それは、「擬制の終焉」(吉本隆明)どころか、擬制が現実を覆いつくさんとするなかで、擬制の核心と我が身をもって文字通り斬り結ぶ行為であった。

 

 

 

▼左からの大逆 ― 連続企業爆破事件と天皇暗殺未遂事件

三島由紀夫の行動に「右からの大逆」の意図が密かに込められていたのだとすれば、同時期に起こり、この時代の終焉を告げた「左からの大逆」と呼びうる出来事が東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件と天皇暗殺未遂事件(「虹作戦」)であった。

 

 

 

これらの事件は、大きな被害を出したにもかかわらず、同時期の左翼過激派による事件 ―連合赤軍事件や、日本赤軍による海外でのテロ活動 ― に較べて、今日では格段に言及されることが少ない。(略)

 

 

彼らの論理はおおよそ次のようなものだった。大日本帝国帝国主義は、敗戦によって打撃を受けたものの、その罪の総括と償いの義務をあやふやにやり過ごした。それは、日米安保体制の庇護下で復活を遂げ、かつての植民地帝国の版図内で再びその人民や資源を搾取している。戦後日本の経済発展とは、まさにこのことの成果にほかならない。

 

三菱重工三井物産が標的とされたのは、これら財閥資本が明治維新以来の日本版軍産複合体の中核に位置する企業であり、あの戦争をもたらし受益した責任を問われるべきであるにもかかわらず、ほとんど無傷で生き残り、戦後もまた日本資本主義の中核的企業グループを成しているためであった。(略)

 

 

 

かくて、戦後日本は「正解帝国主義に位置する」帝国主義国家であり、その住民は、たとえ小市民であっても、「日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者」であり、彼らの爆弾によって殺傷されても、無辜の犠牲者などではない、とされる。(略)

 

 

敗戦以来の革命的民主主義改革の流れがついには「擬制」をあらわにすることに終わったことを目撃した吉本が、左翼過激派のニヒリズムと生活保守主義者のニヒリズムとの暗黙の同盟に彼の政治的賭金を置いたのに対して、東アジア反日武装戦線のメンバーにとっては、後者は単に殺害されるべき存在、端的な敵となった。(略)

 

 

もっとも、無差別テロを是認する論理については彼ら自身が後に撤回し、三菱重工爆破事件以降の事件では一般人犠牲者が出ないように爆破を行なうようになる。(略)

 

 

 

彼らにとって、昭和天皇は、かつての大日本帝国帝国主義のシンボルであると同時に、戦後も君臨していることによって、再建された日本帝国主義のシンボルであり、それを殺害することは「日帝の歴史、日帝の構造総体に対して”おとしまえをつける”こと」として認識されていた。(略)」

 

 

 

 

 

国体論 ー菊と星条旗—

「▼六〇年安保

(略)近代前半の第一期とのアナロジーで言えば、一九六〇年は、一八八九年の大日本帝国憲法発布前後の状況に擬えることができる。すなわち、レジームが根本的な不安定性を克服し、潜在していた「別の理想」の実現可能性を無効化するに至った、ということである。いずれの場合でも、確立されたのは「国体」であった。(略)

 

 

 

日米安保を日米中ソ四カ国の安全保障体制へと発展させることで冷戦を終結させようというのが、湛山が後に打ち出すヴィジョンであり、仮にあの当時、彼が病に倒れていなければ、日米安保体制は、少なくとも即座には盤石なものとはならなかった。(略)

 

 

つまり、あの時群衆が爆発させた憤りは、条約の改定のあれこれの具体的内容に対してというよりも、岸信介という戦前戦中の軍国主義を想起させるキャラクター、さらにその人物がアメリカとの媒介者となって対米従属体制を強化し、永久化していることのいかがわしさに対する、ほとんど生理的な嫌悪感に基いていた。

 

 

 

この直感は正しかった。今日明らかになった事情、すなわち核兵器持ち込みの事前協議の問題に代表される密約の存在に鑑みれば、表向きの対等化など理解するに値せず、群衆の積極的無理解はむしろ改定の本質を衝いていた。

岸に対する嫌悪、安保改定に対する嫌悪はそれぞれ、「戦前の国体」と「戦後の国体」に対する嫌悪だったのである。

 

 

▼「戦後の国体」の奇妙な安定

(略)

この相反する「二面性の上に「戦後の国体」は奇妙な安定を得たと言える。

石橋湛山に象徴されるような、根本的に異なった国際的立ち位置を日本が主体的に模索する可能性が取り除かれたという意味で、「戦後の国体」は安定を得た。(略)

 

 

同時に、この状態の出現は、いわゆる「吉田ドクトリン」(親米+軽武装)が真の意味で確立されたことを意味した。それは、敗戦以来の政治的理想の追求とは異なった意味でのある種の「理想」の実現であった。(略)

 

 

 

周知のように、その果実は経済発展であり、一九六八年には資本主義諸国のなかでBGP(国民総生産)第二位の座を日本経済は獲得する。ここに、「平和と繁栄の時代としての戦後」はその成立を見る。「貧困と戦争の時代としての戦前」の日本との対照において、それは一種の理想であった。

 

 

 

戦後民主主義は「賭ける」に値する「虚妄」か

(略)

大正デモクラシーの時代を少なくとも雰囲気として知るこの世代にとっては、ポツダム宣言第一〇項、「日本国政府ハ日本国国民ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化に対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」における「民主主義的傾向ノ復活強化」が、感覚的に理解可能であった。それに対し、後者の世代にとって、青少年傾向の復活強化」が、感覚的に理解可能であった。それに対し後者の世代にとって、青少年代の日本は軍国主義一緒にに染め上がられていたために、およそ実感し難いものであった。(略)」