◎ 津田左右吉博士の卓説
(略)
津田博士は「日本書紀」や「古事記」は「歴史的事件」の記述ではないが、「歴史的事実」を現わしているといわれ、この二つの関連を「源氏物語」を例に説明されている。「源氏物語」は小説で登場人物も事件もすべてフィクションだから「歴史的事件」の記録ではない。
しかしそれは平安朝の貴族の「社会及び思想」がなければ存在し得ない。すなわちこの小説の背後にある「社会及び思想」という「歴史的事実」が示されている。そしてこの関係は「日本書紀」「古事記」も同じだが小説でなく「説話」であると津田博士は主張する。
ではその背後にどのような「歴史的事実」があったのであろうか。膨大な公判記録の中から、津田博士が指摘している点を箇条書きにしてみよう(一部は要約し、前後の関係を見て敷衍した)。
(一) 日本民族のこの島に於いて生活してきた歴史が非常に長いということを考えなければならない。そこで日本民族のこの島に移住して来たのは非常に古い時代であるということ。今日われわれに知られている限りに於いては、日本民族と同じ人種のもの、同じ言語を使っている民族は他にないということ、これだけは事実として明らかなことであります。
(二) 日本の民族性を考え、また上代の歴史を考えるに最も必要なことが一つあると思います。それは、日本人が遊牧生活をしたことがないということ(と同時に、遊牧民文化・砂漠の文化から影響を受けた形跡はない。日本には家畜はあっても、牧畜と言えるものはなかったらしい)。
(三) どうして生活をしたかと申しまするに、その程度は幼稚でありましょうけれども農業生活をして居ったと考えられます(もちろん狩猟・漁撈・採集は併用された)。文化の程度は上代に於いては無論低いのであります。(いわば生産性が低いので)一定のところに安んじて仕事をしなければ衣食することができないのであります。
(四)(以上のほかに)なお日本が島国であるということが一つの大きな事実であります。(言うまでもないが太古に於いては海を越えての大挙移動は不可能)したがって異民族との争闘ということがありませんでした。(略)
「上代の人間に於いて語り草となっていることは、やはり戦争であります。子供が戦争の話を喜ぶと同じように、上代人の一番面白く思うことはやはり戦争の話であります。
ですから、どこの民族の上代の歴史を見ましても、あるいは叙事詩のような文学上の作品を見ましても、その大部分は戦争の話であります。
戦争の話ならば多くの人が面白くそれを語り伝えるのであります。
上代人に於いては何か変わった事件でなくては語り伝えるということは少ないのであります。
ところが、わが国の上代に於いては余り語り伝えることがないのであります。
ないということは、平和であるということであります。昔のことがわからなくなったということは、何であるかというと、平和な生活をして来たということ、戦争が少なかったということであります。
皇室がいかにして国家を統一遊ばされたかということの話が余り伝わらなかったということも、やはり武力をもって、すなわち戦争の手段を以て圧伏をせらるるということもなかった。平和な上代に於いて、しだいしだいに皇室の御威徳が拡がっていった、こういう状態であるとしますれば、語り伝えるべき著しい異変というものがありませぬ。
異変がないということは、すなわち極めて平和の間にそういう国家の統一が行われたということになるのであります。
このことは日本の上代史、日本の国家の起源を考えるに当たって極めて重要なことと考えます。」(略)
では大和朝廷はこういった政治的小勢力を次々に打倒して日本を統一国家にしたのであろうか。そうは考えられず、何らかの文化的優位性をもって、他の政治的小勢力を服属させて行ったのであろうと津田博士はいわれる。それは「骨の代」の体制にそのまま現れている。(略)
以上のことは小戦闘がなかったということではない。しかし韓国の成立史と明らかに違う。(略)
六世紀末に隋が高句麗の征討をはじめ、ついで唐もこれを行なったが共に失敗した。ついで唐は新羅と協力して六六〇年に百済を滅し、つづいて六六八年に高句麗を滅したが、両国が滅びると新羅は唐と戦って百済・高句麗の故地を占領し、ここに半島を統一した国家が形成された。
津田左右吉博士がいわれているのは、このような「国家形成史」がなかったということ、それが「制なき時代」が出現する前提であったろう。
以上のようにして、ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、それがそのまま統治体制となったのが「骨の代」であろう。」