読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

東洋的な見方

「<「自由」の意味 1962年> 大人から見ると、子供は、とんだり、はねたり、種種様々の遊びをやったにきまっている。「何もしない」は、客観的に見ると、大いなる虚誕である。ところが、子供の主観から見ると、百般の活動態はいずれも遊戯でしかないの…

東洋的な見方

「<創造の自由 _ 「荘子」の一節 1962年> 東洋には、昔から、二つの主な思潮が流れてきた。今もそれが跡づけられる。(略) 一つは儒教的なもの、今一つは老壮的なものである。儒教的なものは、形式的・律法的・機械的方向に動かんとする。老荘的なも…

東洋的な見方

「禅にかぎらず、仏教全体についていうと、内を見るとか、照らすとかなど話せられる場合には、いずれも思議的・思索的・論理的方法から離れることを意味する。いわゆる超証である。飛び越えることが肝要だ。 同じ平面でなく、次元のちがった面に立つのである…

東洋的な見方

「この経験を一種のムードのように解釈する人もある。これは自分にこの体験がないからの話にすぎぬ。ただのムードの中からは、仏教のような甚深の哲学は出てこないし、また一生を通じての安心の基礎となりえないし、また他の動かすほどの迫力が発生しないの…

東洋的な見方

「改めていうまでもないが、禅の本分は、物自体、あるいは自我の本源、あるいは自心源、あるいは本有の性、あるいは本来の面目、あるいは祖師西来意、あるいは仏性、あるいは聴法低の人、あるいは無位の真人など、さまざまの名目はあるが、つまりは自分自身…

東洋的な見方

「<現代世界と禅の精神 1961年> 昔からよく、座禅すると、胆がすわるとか、気が落ち着くとか、物事におじぬなどと言うたものである。禅そのものは、そんなところに、ぐずぐずしていないのだが、修禅の物理的面とか、医学的、生理的作用とかいう所から…

東洋的な見方

「<このままということ 1963年> さらに語を換えると、悟らぬ前を「母」といい、悟ってからを「子」というと、さらにこの悟解をも離れて、「母」と「子」とともに亡くなるとき、「大法輪を転ずる」時節が来るというのである。 何やら気にかかるので、悟…

東洋的な見方

「<自由・空・只今 1962年> 自由の本質とは何か。これをきわめて卑近な例でいえば、松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由というのである。」 「これを天上天下唯我独尊ともいうが、松は松として、竹は竹と…

東洋的な見方

「<東西雑感 1959年> 剣道に禅が大いに関係するなどというと、西洋人は一体どういうわけか、禅は一種の宗教ではないか、剣は何といっても人を殺すもの、この両者に何の関係があるべきか、禅は人殺しに何の役に立つのかと、大いにいきり立って、つめよ…

東洋的な見方

「子供や赤子には分別はない。「頑是ない」とか「無邪気で」とかいうのは、いずれも、この無分別の点を指すのである。大人が無分別行動をとったら、大変なことになるだろう。それなのに分別を捨てて、無心の生活に還れとは、どんな意味になるのか。 東洋の「…

東洋的な見方

「<東洋「哲学」について 1961年> 東洋には、哲学がないとか、美学がないとかいう人が、かなりに多い。それだけならどうでもよいが、それが何か東洋人の頭の、西洋人のほどに発達しなかったかのように考えて、何か卑下する感じを持ちたがる若い学者がいる…

東洋的な見方

〇 わからないなりに、読み続けているのですが、難しいです。 こうなったら、わかろうとするのをやめます。わからないまま、思いついたことを 書いてみることにします。 「実は人間世界の事物は、何であっても、悉く5官が分別識の要請によって、了解が可能に…

東洋的な見方

「<東洋的見方 1961年> 言葉に出すと、何もかも抽象化し概念化し、一般化する憂いがある。禅はこれを嫌う。それで禅は言葉に訴えることを避ける。(略)しかし言葉は人間の専売特許で、一概に、これを斥けるわけにいかぬ。それゆえ、禅が言葉で伝えら…

新編 東洋的な見方

〇 鈴木大拙著 上田閑照編 「東洋的な見方」を読んでいます。 鈴木大拙という名前は聞いたことがありました。でも、なんとなく、池田大作とイメージが重なり…(>_<) 読んだことがありませんでした。 「日本的霊性」が良いという話を聞き、一度読んでみようと…