ギリシャ語の善には道徳的な意味合いはない。
「ためになる」という意味で、純粋に「ためにならない」ことは欲しないのが
人間だという理解がある。
う~ん…ここの理解が多分、我々日本人とは全然違うのではないか、
と思った。
そんな風には考えないのではないか…という気がする。
というのも…
私はかなり小さな頃(10歳ごろ)から
何の為に生きてるんだろう…と思う癖があった。
生きてるのがどうにも楽しくなかったからだと思う。
かなりたくさんの海外の少年少女小説を初めとする
物語にはそれに対する答えを
一緒に考えてくれるようなものがあったような気がする。
でも、日本の小説にはなかった。
少なくとも私にはそう思えた。
私は悲しい…私は苦しい…私はこんなにも人間だ~!
と自分の「人間っぽさ」を表現することでいっぱいいっぱいで
何の為に…などという発想自体がないような気がしていた。
「~のために」という目的がハッキリしていれば、
その為には感情もコントロールしましょう。
となるのかもしれないけれど、「私は人間だ~」と欲望に忠実であることを
「いとをかし」と考えてる人々にはむしろ感情を抑えることなど
良くないことに見えるのだろうなと感じた。