読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

嫌われる勇気

嫌われることを怖れず思ったことを言う、その勇気が私にはありません。

この本はまさに私のためにある、とでも思えるほど、

様々な言葉が私の問題点を指摘していて、しかもその解決の道標を

示してくれています。

そこで先ず、自分の思ったことをそのままに書いてみようと思います。


私はこのアルフレッド・アドラーは何故こんな思想を人々に「広めよう」と

思ったのだろう、と思いました。

最初からずっと感じてたこと。とても「キリスト教の教え」に似てるのです。

今や神は死んだ。でも神が果たしていた役割は人間にとってどうしても

必要なもの。

そこでその役割を「科学的なもの」で代替出来ないか、と考えたのではない

か、と感じました。

代替というよりは、むしろ「神」を生み出してまでも護りたかった大切なものを

護る為に、そこの「理論」を懇切丁寧に解説し、人々に知らしめようとした、

と思えるのです。

その大切なものとは、「共同体感覚」。

全ての人間が幸福感を持つ為にどうしても必要なもの。

キリスト教では、愛と言っていたと思います。

道標は、他者の目から自由になり、自己受容し、他者との距離を適切にすることで、

不必要な縺れのない対人関係を築き、他者との間に横の繋がりを持

つことで、他者信頼を持つ。

そして、他者貢献する時、自分は価値あるものと感じられ、

ここにいてもよい、と感じ幸福感を持つ。



共同体感覚がある時、自分が相手を信頼しているので、(多分相手も自分を信頼

しているだろうという空気が生まれ)互いの間に「敵」ではない「仲間」だという

感じが共有出来る様になるのではないかと思います。

見ず知らずの人間であっても、多分相手は「仲間」だろう、と感じられる社会は

住みやすい社会で、一歩外に出たら、全ての人間は「敵」だと感じられる

社会はとても住みにくい社会だと思います。


その共同体感覚を護る為に、「神」はあったのではないかと思うのですが、

今は神はない。その時、それに変わる「何か」がなければ、

人間は皆、「敵」ばかりの社会で生きなければならなくなり、

自己受容も出来ず、他者信頼も出来ず、共同体感覚は持てず、

競争が強いられ、ただ、勝ち組になって「幸せ」になろうとする偽りのエサに

踊らされる人間ばかりが蠢く社会になってしまいます。


今、ほとんどそうなっています。


でも、だからこそ思うのです。

私たちの社会の「共同体感覚」はどう護られてきたのか、と。

「みんな一緒」という形での共同体感覚では、他者の目からの自由はない。

「♪身を立て名を上げ」とか、「♪志を果たしていつの日にか帰らん」という

いつか有名になって「勝ち組」になるのを目指すのが、

正しい生き方、という社会では、ほとんどの人間が「落ちこぼれ」「下流老人」

となり、無名の「失敗者」として消えるよりは、せめて有名な「悪人」として、

名前を残したいなどという、哀しい志なども生まれてしまう。


……などなど 色々考えてしまいました。

「円」という通貨で回っている社会で、「ドル」は使えないように、

例え、このアドラーの思想が人間を幸せに導くものであっても、

それを価値ある考え方だと思う人間がほとんどいない社会では、

この生き方をするのは、とても難しいと思います。

でも、だからこそ、「勇気」なのでしょうね。


「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、

それはあなたには関係ない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。

他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。」


そして…

あの「彩雲国物語」の秀麗の生き方って、まさにこれでは?と

思いました。