読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

黒蝶は檻にとらわれる

ううむ~ 面白いです!

紅州が経済封鎖に踏み切りました。

ファンタジーと言いながら、やたらリアリティーがあります♪

緊張感があります。この雪乃沙衣さんって、官僚なんでしょうか(^^;。

ところで…もう一点メチャメチャ引っかかった言葉があります。


邵可 「彼女は長い監禁生活の中で、人間を信じなくなっていた。憎むよりも悪く、

ただ冷ややかに人という存在を見放していた。だから邵可は、彼女に対して決めた

あらゆることは、この世が終わるその時まで守ると勝手に決めていた。

言葉にしたものも、していないものもすべて。

― 一生二人で構わない。

他には何もいらない。冨も、地位も、権力も、紅家当主も。

…(略)…

君一人でいいといった私の言葉を、この命が尽きるまで勝手に守るから見てろ。」


しみじみと心に突き刺さりました。

人を信じるということが出来ない人に、自分を信じろと言いたくなる時。

人は信じるに値するもの、と心の底から思わせるには、どれほどの「時間」

がかかるのか、と思います。

10年、20年、30年、裏切らなかったから良し、ではない。

例えば、そう言った人が必死に嘘を塗り固めていたとして、

その人自身が今後も「永遠」に嘘で「夢」を守ろうとしたとして、

その願いは真実だったとして、何かの瞬間に、その嘘のカラクリが見えてしまったら

……

例えばこの邵可なら、この邵可自身が人を信じない、冷ややかに見放している人

だとしたら…それが真実だとしたら、

薔薇姫にはきっといつかそれが見えてしまう。

そう思います。

それでも、その「夢」を守ることが、邵可自身の生きる意味のようなものに

繫がっている時、その「嘘」を真にするには、

ちょうどあの、映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のように

最後まで嘘をつききるというやり方でしか守れない、というところへ

行き着いてしまうのでしょう。

そこにある想いの真剣さや深い人間愛は「人間は信じるにあたいするもの」

と思わせてくれます。

先日も思ったように、キリスト教も仏教も、

愛だとか慈悲だとかというものを信じあえるようにする為には、

どうすれば良いのだろう、と知恵を絞った挙句のものではないかと

思うのです。

先人は必死で命がけで、「信じるにあたいするものだよ!!」と

示して見せたかったのではないかと思います。

ちょうどこの邵可が、薔薇姫に、この命が終わるまで…見ていろ。と勝手に

思ったように。

その先人の願いや思いに共感した人々がまた、その意思を継いで、

続いてきているのではないかと思うのです。

それほどまでに、人を信じるのは難しく、必要なことだから。

そして、最近思うのは…

目に見えない「信頼」とか「愛」とかが実際にこの世にはある、と信じられるために

は、ちょうど空気が目に見えなくてもあるように、

社会全体を覆い、人々みんなが信じ、受け入れていることが

必要になるんだなぁ、ということです。

例えば、貨幣。

これは、ただの紙切れ。ただの金属。

社会がそれを信じなくなったら、例え一億円が積まれていたとしてもただの紙切れ。

みんなが「信じている」ということが必要です。

貨幣ならば、日銀が発行したもの以外はどんなに立派なデザイン・材質のものも、

意味を為さない。

それと同じことが、「愛」や「慈悲」、いわゆる「共同体感覚」にも

必要になると考えた先人が「生み出した」のが、「神」や「仏」だったのでは?

と思うのです。

だとしたら、今話題の「教育勅語」、これは、「朕オモウニ」で始まるから、

意味があるのです。

朕=天皇がわが国においては、「神」だったから意味があるのです。

神が大事だというから、みんなが信じて、みんなが受け入れて、

みんなの価値観になって、道徳になりルールになった。

「朕」がルールを作っていたのが、教育勅語の本質だと思います。

親を大切に、国を愛し、兄弟仲よく、良いことだから復活させよう…

どうしていい大人がこんなにも幼稚な考え方をするのか、

情けなくて哀しくなります。