読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

人生の四季 ―発展と成熟―

「私は精神科の医師という職業柄、人間が人生の途上で遭遇する数かぎりない

解決不能の難問を、他の人よりもたくさん知らされています。しかしその反面私は、

これらの難問は、充実した人生を歩もうとするときの単なる障碍物であるだけではなく

手助けでもあるということを、他の人々よりもよく知ることになりました。

というのは、充実した人生とは、私たちが日々生じて来るさまざまな問題を

解決した後にはじめて開始するのではなくて、勇敢に課題と取り組むという

姿勢の中にすでに存在しているのですから。」


「それはちょうど、目には見えない手が、人間にははじめは分からなかった

目標へとその人を連れていってくれるようなものです。しかも―この点を

強調したいのですがーこのことは人間の過ちを通じてさえもおこるのです。

(略)聖書はこのことを非常に生き生きと私たちの目の前に描き出してくれます。」


私には、キリスト教と道徳はいつも違って感じられます。

道徳では、良いことと悪いことを教えて、良いことにはご褒美(ご利益)があり、

悪いことには罰が下されるのが、当然とされます。

でも、キリスト教では、あなたはあなたのままで良いとされ、

過ちを犯すことも大前提に、間違いながらも、

その人生を神に喜ばれるものにしようとする

意志をもつことを求められる。

叱られるから悪いことはしない、という「調教」された子ども

ではなく、良い生き方をしようという、自由意志を持つ人間が求められる。

叱られるから悪いことをしてはいけない、という論理は

叱られないなら(見つからないなら)悪いことをしてもよいという

理屈になってしまう。

私たちの社会では、それを世間体とかでコントロールし、

人に後ろ指さされないように生きる、とか、人に迷惑をかけないように生きる

のが正しい生き方だとされてきました。

でも、それでは「良心」は育たないだろうなぁと思うのですが。

なぜなら、先日読んだ部分、

近代文学によって明らかになった罪意識、あらゆる悪、あらゆる不正、そして

この世のあらゆる苦悩を自分と分かつことのできないものと感じ、

これらの悪の存在に共同責任を感じるのが、成熟した大人の罪意識だとすれば、

この罪意識がないところに、大人の良心は育たないと思うのですが。


そして、あと少し。

「アルベルト・ライスナーは、近代心理学の三大碩学のうち、人間について

聖書的な見方に最も近い立場をとっているのはアドラーであると指摘しました。」

やはり、アドラー(嫌われる勇気)は聖書的なのだとあらためて納得しました。