読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

告白

なかなか切ない状況が続きます。

以前読んだ時は、もっと軽い気持ちで読んでいたような気がするのですが、

今のこちらの精神状態も関係してるのかなぁ。

熊太郎は、相撲で相手の腕を折ってしまった。

これは全く熊太郎のせいではない。でも、折ったのは事実なので、

自分が悪いという負い目を持ちながら育ちます。

次に水車を壊したという濡れ衣を着せられてしまう。

これも、当然、熊太郎のせいではない。

でも、負い目がある上に大人に責任を負わせられて、

自分の困難な状況をうまく説明する力が無い

子どもの熊太郎は、自分に貼り付けられている

「しょうもない奴」というレッテルを自分でも受け入れるような

心情になっていきます。

そしてついに、あの葛木ドールを殺してしまう。

確かに殺そうとしたのは事実。

でも、もし殺さなければ自分が殺されたではないか~~!!

と叫びたくなる状況です。

ここを読んで色々思い出しました。

あの、「窓際のトットちゃん」も子供のころ、新しく転校した学校の

校長先生に、「君は本当はとても良い子なんだよ」(言葉は正確ではありません)

と言われて育ちました。

それがどれほどトットちゃんを支えたか。

そして、これは最近知ったことなのですが、

カトリックでは、父(神)と子(イエス・キリスト)と聖霊

三位一体の神という事になっているようですが、

その「聖霊」の働きの中に「弁護して味方になってくれる」という役割が

あるそうです。

この熊太郎に限らず、誰もがみな、自分で自分の状況を言葉で適切に

説明するというのは、難しいのではないでしょうか。

自分の「悪」は悪としてちゃんと指摘されなければならないけれど、

でも、この熊太郎のように、「どうしようもなくそうなってしまった」という

状況もしっかりわかってもらってこそ、あぁ、自分は悪かった、と

反省できるわけで、そこがわかってもらえていないと、

ただただ運が悪かった、と思うしかなくなるのではないかと

思うのですが。

この、ちゃんと誰かに分かってもらえているという感覚は、

人を人らしくする為に、必須のことではないかと思います。

熊太郎にはその「ちゃんと分かってもらえている」という

感覚が全く無かったんだなぁと思いました。


「つまりこいつらは鹿造のことは仲間だと思っているが俺のことは仲間だと

思っていないということだ。(略)なぜだ。なぜ俺だけがそのように

ハミゴにされるのだ。悲しい。悲しすぎる。と熊太郎は思ったが、

自分が異質で仲間だと思われていないという考えは熊太郎にとってあまりに辛い

ことだった。」


ほとんどの人が、そんなにわかってもらえているなんて感覚はなく、

生きていると思います。でも、なんとなく「みんなと一緒」という

雰囲気の中で、その孤独が薄められ紛らわされています。

でも、その「みんなと一緒」もないとなると、本当に孤独だろうな、と

思います。

そういう意味では、このカトリック聖霊の「弁護し、味方になってくれる」

という存在は、そういう人でも支えてくれる心のより所になるだろうな、

と思います。

今日は、あの牛のようじょこで、駒太郎の牛を殺してしまい、

合羽の清やんに野天賭博に誘われる所まで読みました。

熊太郎の気持ちを思うと、はぁ~~ 切ないです。