読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

ねじまき鳥クロニクル

「しかし彼女の欠点は、そのようなタイプの女性が往々にしてそうであるように、

どうしようもないほどの見栄っぱりであることだった。自分の価値観というものを

持たないから、他人の尺度や視点を借りてこないことには自分の立っている位置

がうまくつかめないのだ。その頭脳をしはいしているのは「自分が他人の目に

どのように映るか」という、ただそれだけなのだ。

そのようにして、彼女は夫の省内での地位と、息子の学歴だけしか目に入らない

狭量で神経質な女になった。」

村上春樹の本は、「ノルウェイの森」とあと1~2冊は読んだと思うのですが、

多分、村上春樹がどういうというよりも、

「小説」というものが自分には「ちょっと無理」な感じがして、

それ以上読みたいという気持ちになれませんでした。

若い頃は少女小説を読み、その後は難しいものはダメになり、

少しすると結婚し子育てでアタフタし、色々自分の問題で悩みも深くなり、

小説を読んで楽しむ…などという長閑な雰囲気は私の中から

消えてしまいました。

その頃、なんとか手を伸ばして縋ったのは、聖書だったり、ポール・トゥルニ

エだったり、崎尾瑛子さんの本でした。

この書名は知っていましたが、今、その内容は全くわからないまま、読み始めていま

す。

ノモンハンという意外な言葉が出てきて、興味が強まっています。

この見栄っ張りな女の描写は、主人公オカダ・トオルの妻、クミコの母親の

ものです。

でも、ここを読むと私の心がヒリヒリしました。

とても、私自身の見栄っ張りさに似てるからです。

自分の価値観がないから、世間の目を気にする。

では、世間の目を気にしなくても良いほどのしっかりした価値観って、

どうすれば持てるのか。

先日、例のあの稲田朋美防衛大臣が国際舞台で、「私たちの共通点は、

見た目が良いこと」などというスピーチをお茶目な笑顔でして、

世界の顰蹙をかった、という影像をテレビで見て、いたたまれなると共に、

もし、私も彼女と同じように「見た目がよく」「頭がよく」「キャリアが

立派」だったら、案外私とて同じような感覚だったのかもしれない、

と思いました。

残念ながら見た目が悪く頭も悪く、政治家になるような

キャリアがなかったから、苦しみながら世間の目とは違う価値観に

修正せずにはいられなかった。

そう考えると、クミコの父親も兄も同じです。

「人間はそもそも平等になんか作られてはいない、と彼は言った。

人間が平等であるというのは、学校で建前として教えられるだけのこと

であって、そんなものはただの寝言だ。日本という国は構造的には

民主国家ではあるけれど、同時にそれは熾烈な弱肉強食の

階級社会であり、エリートにならなければ、この国で生きている意味など

ほとんど何もない。ただただひきうすの中でゆっくりと

すりつぶされていくだけだ。」

以前、何かの本で、あの司馬遼太郎が、「日本の官僚は本当に国民に冷たい」

というようなことを言っていました。

そして、「二十一世紀を生きる君たちへ」という本の中で、

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他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
みな似たような言葉である。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自分の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるにちがいない。

ここから、拝借しました。)



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と、「私たちは訓練してそれを身につけねばならないのである。」と言ってるのが、

とても、深く心に残りました。

そんなことを思い出しながら、読んでいます。