読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「不登校児」が教えてくれたもの


(不登校児のために高校建設をしようとして…)

「そんなある日、疲れ果てていた私は、昼間だというのに、いつのまにか
眠り込んでしまった。ふと目がさめて、何気なく見上げると、どこまでも
碧い空があった。魂に染み込むような碧さだった。
そのとき私は、私自身の心もまたその空同様に澄みきっていることに
気付いた。そのとき私は何も恐れていず、自分をこよなく信じていた。

突然、私を襲った碧い空、澄みきった心のこの体験が、
私にとって重要な節目となった。」

ここを読みながら、あの「ねじまき鳥」の第2部の終わりで
トオルがプールで泳ぎながら、確信を抱いたあのくだりを思いました。

「自分にはまだ捜し求めるものがある」という確信。
「例え自分は負けるかもしれなくても、誰も自分には賭けなくても、
「自分は、捜し求める」と決意する体験。

そういうことって、実際にあるなぁと私自身の体験を振り返って
思いました。

「なあ森下君、これは奇蹟なんだよ。二人にとっては狂気の世界だったな」

「いずれにしても、私の接したほとんどの子供たちは心に大きな傷を負い、
自らの心を閉ざしていたのだ。管理と偏差値を中心とした学校生活は、
家の中にまで侵入し、子供たちから豊かな体験といきいきとした遊びの
世界を奪ってしまう。さらに、傷ついた子供たちの心を救うどころか、
本音を出したらひどい目にあうぞ、だから、本当の気持ちはそっとしまいこんで、
求められることに合わせて生きるんだ」という思いをより強くしていくのだ。

この定着した猜疑の態度は、子供たちから有効な社会化のためのモデル、
同一視の対象を奪ってしまう。そして、成績優秀で、一見明るく、
教師や親の要求を先取りする子供たちができあがっていく。

教師や母親にとってはお気に入りの子供。真の自己表現と
自己主張を喪失した若者たちは、より完全を求める学校状況の中で、
強迫的によき子を求めて生活し続ける。

若者らしい冒険心や感動体験は、恥をかくことや失敗することへの
恐れに変わり、友人の間での正直な自己表現は抑圧され、自己中心性は
未分化のまま取り残されてゆく。
登校拒否現象を示す子供たちの否定的な心の態度は、
次第にかたくななものへと向かっていかざるを得ないことになる。

このようにして、現在と将来の安全と幸せのため管理に従い、偏差値を求める。
結局は地位と物とお金を求めての生活が続く。
どこか自分の求めるものと違うという不全感を抱きながら、それが人生に
とって本当はどれほどの意味をもっているのかという自らへの問いも
許されず、友人たちとの楽しい共有体験を奪われたまま、
「教育」に駆り立てられているのが日本の若者たちといえるだろう。」

私は親として息子が不登校になったことで、とても「責められ」ました。

でも、敢えて言えば、私自身も少し前までは、子供だったわけで、

「お前が悪い!」「お前の価値観が息子を追い詰めているんだ!」

「お前の育て方や生き方がなってないから、息子はあんな風になった!!」

とどれほど責められても、責められるだけでは、ただただ落ち込み、

私自身が病的に鬱的になるだけで、息子を支えるなんてことは、

夢のまた夢になるのが、オチでした。

その点、何度も引き合いに出しますが、子供教育相談の崎尾瑛子さんは、

すごい人だなぁと思いました。

親を責めません。責めずに具体的にどう動けば状況が変えられるかを

アドバイスします。

著書は「新しい子供たちー日本を変える登校拒否児」という本でした。
登校拒否児が日本を変える、子供たちがそこまでしなければ、
大人は変われない、というメッセージを感じました。

今、この学校批判を読み、森下一さんからも、同じメッセージが
出されているのを感じます。


「人が生きるということは、将来のためにあるのではない。今、この時を
生きることが、将来を生きることにつながるのだ。
今を生きない人は、その程度しか将来を生きないことになるのは必定なのだ。」