読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

山ん中の獅見朋成雄

モヒ寛の言葉

「原則を疑っても答えなんてないわ。俺が嫌がってる。原則に沿って
嫌がってるんじゃねえんやぞ。俺が嫌がってるってことが、それが
原則に沿っているって証拠や」

「皆加減を知らんだけや」

「違う。節度を守ることこそが美や」

「原則をはみだしそうになったところで節度を守らんとあかんやろうが」

「人間の畏れの中にカニバリズムがあって、盆っていうのはその畏れを
楽しむために、ホントに恐るべき人間の脳が作り出した、単なる装置や。
盆をやってるときに人が楽しんでるのは食やないぞ。
あれはカニバリズムをひっくり返すスリルを楽しんでいるんやぞ。(略)
皆、人間の肉をむしって食べてるんやぞ」

「違う。あくまでもそこで節度を発揮させて、 盆なんてもんに行かんように
することに人間の美があるんや」

「美の追求の前では、そんなもん誘惑にならんわ」




私たちは多かれ少なかれ「洗脳」されて生きてます。

親の価値観だったり「世間体」だったり、子供のころに植えつけられた

「常識」のようなものに縛られて生きてます。

それが不自由だと、全てを疑って(つまり全ての「原則」を疑って)

それから自由になろうと何でもありの考え方をするのが、新しいやり方だと

いう風潮があって、私などは、その風潮についてゆけなくなりますが、

そんな中ではモノを言うことにも勇気が必要になってきます。

一人一人が大切に尊重されて生きる権利があるという、人権思想や

民主主義さえも疑われる時代になってるのも気になります。

どれほど多くの血が流れて今の社会が出来上がったのかを忘れてしまうと、

結局はまた同じように多くの血を流さなければならない世の中に逆戻りして

しまうのではないかととても心配になります。

私たちの国は、自分たちで社会を変えようとして今の言論の自由

表現の自由がある民主主義社会を勝ち取ったわけではありません。

アメリカに負けて今の社会になりました。

私の身近な年配者たちは、皆、戦争に負けて本当に良かったと

喜んでいました。

でももし、今この自由を失ったら今度こそ自分たちでもう一度

市民の自由を勝ち取らなければならないのだと思いますが、

それだけの力を私たちは培っているんだろうか、と

とても心配になります。

価値観について語るのが恥ずかしい気持ちにさせられる風潮、

何を大切にして護っていくのか、語れない社会。

「なんでもあり」もしくは「なにもないのが粋」みたいな市民集団では、

みんなで力を合わせて結集するなんてことは、ほとんど不可能で、

そうなると、権力者にいいようにまとめられてしまうのではないかと思うのです。

もしくは、得体の知れないムードに煽られ、一気に暴走する烏合の衆になる

危険性もあります。

私は、この舞城王太郎のきっぱりとした言葉がすごく好きです。

なんでもありますよね~と曖昧に言いながらその中に

微妙に主張を紛れ込ませていく言い方ではなく(私などはそのタイプ

なのですが)、すっきりと伝わる言葉で語り、主張する姿勢は、

読み終わって爽やかな気持ちになります。

モヒ寛は、「ナルちゃんが人殺ししてまうでやぁ」と泣き、

「人殺しといて、ほんならいいってことはないんやぞ!ナルちゃん!」と

言います。

好きだなぁ、モヒ寛。