「(略)哲学と形而上学における危機が明らかになるのは、哲学者自身が哲学と
形而上学の終焉を宣言しはじめたときだからである。」
1930年以来くりかえし宣言しているように、「形而上学の克服」を目指して
いたのである)」
「カントが老年になって「畏怖すべき学問に最後の一撃を加えた後、人間は、
「喧嘩で別れた後で愛人のところに戻っていくように」きっと形而上学に
戻ってくるだろうと予言したのは正しいのではと思いたくもなろう。」
「けれども、我々が現在の状況の利点はなんだろうかと考え始めるまえに、
神学や哲学、形而上学が終わりに達したと考えることが実際何を意味しているか
を反省してみるのが賢明だろう。」
「そうではなくて、数千年来、神について考えられてきた考え方がもはや
説得的ではないということなのである。もし何かが死んだのなら、それが
可能なのは神についての伝統的な考えだけである。
同じようなことが哲学と形而上学の終焉ということについても当てはまる。
人間のこの世への登場と時を同じくする古来からの問題が、「無意味」に
なったのではなく、その枠組みや答えの仕方が妥当性を失ったのである。」
アドラーは、哲学ではなく心理学ということのようですが、
説得的で「答えの仕方に妥当性」があるものを提示しようとしたのだろうな、
と思いました。
「このことを一番よく知っていたのはニーチェであって、彼は神の暗殺を
詩的で比喩的な描写によって行って、このことに大波乱をまき起こした。
『偶像の黄昏』の重要な箇所で、彼は以前の歴史で「神」という
言葉が何を意味していたかを明らかにする。
それは、形而上学で考えられてきた超感覚的な領域の象徴にすぎなかった。
そこで彼は「神」に変わって「真の世界」という表現を使い、こういう。
「我々は真の世界を廃絶した。何が残っているのか。ことによったら
現象世界か?あー、違う!真の世界と一緒に現象世界もまた廃絶してしまったのだ」。」
「このようなニーチェの洞察、すなわち、「超感覚的なものの除去はまた
たんに感覚的なものも除去し、したがって両者の違いも除去してしまう」
(ハイデガー)というのは、実際、きわめて明白なので、それを歴史の
問題としてしまおうという試みはどれも不可能である。」
「大思想家のものだと伝えられている体系や教説のどれもが近代人が読むと
説得力を持たないし、もっともらしくさえ見えない。」
「反対に、形而上学的誤謬の中にだけ、思考している人にとって思考が
どういう意味なのかということへの手がかりが含まれているのである。」