読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 上

○魂:①生き物の身体にやどっていて精神作用をつかさどると考えられるもの
   ②心、気力、精神

「魂の生活は、その性格が十分表されている場合、言語よりも一つのまなざしや
音、しぐさによってずっとよく表現されるのである。」

「すべての精神活動はたしかに現象世界から退きこもるが、この退きこもりは
自己ないしは魂の内面に向けてのものではない。」

「人格的な同一性というのは、もっぱら内面の生活過程、その気分と感情によって
可能になるものだからである。」


「魂の言語を思考によって変形し転形する前の純粋に自己表出的な段階で見れば、
それは比喩的な性格を持ってはいない。それは、感覚から離れることはしないで、
身体的な感覚を語るときに類比を使いはしない。」

「しかしながら、精神について当てはまることが魂には当てはまらないし、その
反対も真である。魂というのは精神の意図するよりはずっと暗いものだが、底なしというわけではない。

魂は、実際、身体に「溢れ出て流れる」。魂は「身体に侵入し、身体のなかに
隠れる。と同時に、身体を必要とし、そこで終わり、その中に停泊している。」」


「ところが、魂の受動状態の表現が直接的記号なのだが、この状態の方は
誰にとっても同じなのである。

個人の現象にかんして心理的に内面の基本をなしているものが必ずしも常に
同一ではないとすれば、科学として、魂の「内面は我々みな同一である」と
いうことを前提としている心理学は存在しないことになろう。」


「我々の魂の情念と感情は単に身体に結び付けられているだけでなくて、内部器官と
同じく生命を支え維持する機能を持っており、不調や異常があるときだけが
違いが浮き出てくるという事実において両者は共通するところがある。」

「勇気ある人間というのはこの感情を持たない精神の持ち主だとか、一挙に
この感情を克服できる人間だというのではなく、恐怖の感情を自分で示したくない
と決断した人間なのである。」


「現象というのは、やって見せる側からすれば、見せかけ、ふりをし、わざと
だますという外見を通じて自分を示すのだから、見る側からすれば、誤解や
錯覚が生まれるというのは不可避で当然ありうることだ。」


「賛辞というのは、私が世界、すなわち、私が現象するその相手の人たちに
私の喜びに添った形でふるまいますよという約束をすることを含んでいる。
偽善者というのはこうやって含まれた約束を破るところに特徴がある。」


「私がそのように決めるとき、どんな性質のものであれ、与えられたものに
たんに反応しているのではない。世界が私に提示した様々な行為の可能性の
なかから慎重に選択するという行為をしているのである。

そういった行為のなかから最後には性格とか人格と呼ぶものが出てくるのである。」

○ここを読みながら、話は飛躍しますが、あの映画「日の名残り」の
「執事」(アンソニーホプキンス)を思い出しました。

あのノーベル賞の話題の時、私の読んだ新聞記事には、「彼は思い通りにならない
運命に耐えて生きた…」というような表現がありました。

私は自分の受け取り方と何か違うなぁと感じました。

ここを読み、彼はまさにここにあるように、自分で「慎重に選択した」のだと思います。執事という仕事にも、自分自身にも誇りを持っていた彼は、自分の意志で選んであの生き方になったのだと私は思っていました。

そこがあの物語の一番好きな部分だったので、「運命を受け入れる」と
いうのでは、まるで違ってしまうと思うのです。

結果としては、同じように見えても、まるで違うと思います。

○とにかく、難しい。よくわかりませんが、続けます。(> <)