読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

哲学的自伝


「私は<哲学>が出た後の1931/32年冬講義では、私の哲学的論理学の基礎概念であります<包括者>を展開し、フローニンゲン大学招聘講義<理性と実存>(1935年)においてはじめて、公にこれについて語ったのであります。」

「問題なのは、古来実際におこなわれてきた、<哲学すること>のもろもろの方法を発見することでありました。(略)<哲学的論理学>をもちまして、私は組織的に連関した全体の叙述を試みました。(略)この仕事はもっとも厳しい悲痛の年月、すなわちナチズムとその戦争の時代に行われました。」

「<哲学的論理学>を生み出した精神的基調は、一生涯を通じて思索されたものを
基礎として、いかなる事情にも耐える真に具体的なものを、根本知として抽き出して
眺めたいという気持ちでありました。」


「この著作から若干の主題を拾ってみたいと思います。

1 哲学が置かれている状況とは次のようなものであります、つまり、全体としてたったひとつの真理がそのまま存在するのではなく、真理は歴史的な形態をとって多面的に見いだされる、というのが哲学の状況であります。

したがって、あらゆる人間のゲマシンシャフト(合致)とは、唯一無二の真理があまねく信奉されることによって可能であるのではなく、交わりという共通のメディウム(媒体)による以外にないのであります。(略)」


「2 交わりは理性の自覚を必要といたします。つまり、思惟がおこなわれる形式や
方法の諸形態についての知識、もろもろの根源を確証するに至るまでの思惟の道具を
使い分ける知識が必要なのであります。(略)」


「3 (略)しかるに<哲学すること>の根本操作の課題はいついかなるときでも、単なる対象的なものを超えて、対象的なものがそこから発する根源であると同時に、対象に向けられた主題の思惟もそこから発するところの根源へと、超越することなのであります。(略)この思想は、考えうる最も広汎な意味の交わりの媒体を獲得する試みなのであります。」


「4 (略)このような反論理的ないし非論理的な形式においては、科学のの諸形式において見られるのと同じようには、何らの普遍的伝達可能性も存在いたしません。(略)哲学的論理学は、いっさいを必然的確実な知として承認させるものではありませんが、いっさいを意識させうるものであります。(略)」


「5 哲学的思惟にともなって、ともすれば絶対の地位に安んじたがる合理性の突破がおこなわれるのでありますが、しかしこの突破は、それ自体合理的手段をもっておこなわれるのであります。(略)そこで獲得される思惟の媒体は、事実また悟性とも違うので理性と呼ばれます。」

アーレントの本を読んでいて、何かがとてもヤスパースに似てると感じていました。解説によると、1929年からヤスパースの講義を受けていたとありますから、
ある意味、ヤスパースの伝えた「哲学すること」がしっかりアーレントに受け継がれている、ということなのかな、と思いました。

〇また、ここでも、「交わり」が強調されています。
ヤスパースは、もともと精神病理学を志し、そこのクリニックで大勢の「仲間」と切磋琢磨し、一体感を持った経験を貴重なものだったと書いています。

そして、その後、ある友人と知り合い、その人の姉である女性と結婚します。
その女性がユダヤ人であったことから、ナチスの凶行が身に降りかかります。

この自伝を読んでいると、その友人、そして妻との腹蔵ない「交わり」が
著作に大きな影響を与えたようです。

アーレントは14歳でヤスパースの「世界観の倫理学」を読んだとありましたから、
この哲学的自伝も当然、読んでいたのだろうな、と思いながら読んでいました。