「結局、意志は何かをすることを意志しているのだから、暗々裏には、純粋な思考というものを軽蔑しているのである。というのも、思考の活動全体は「何もしないこと」に依拠しているからだ。」
「こうした観点― 私はこれを精神活動の「調整」と呼びたいのだが― からすると、<まだない>を現前させる意志の能力は、記憶の正反対なのである。」
「これに対して、前を見て後ろを振り返らない意志する自我は、結果がどうなるのかについてまったくはっきりしていなくとも我々の力が及ぶ物事を扱うのである。」
「アウグスティヌスの定式化で言えば、意志することと実行できることとが合致しないことが発見されると、耐えがたいものとなる。この緊張は、為すことによってのみ、すなわち、精神活動を総じてやめることによってのみ克服されうる。」
「こうした見方からすると、意志に残されている唯一の仕事は、実際は、「意志しないと意志する」ことになる。」
〇上っ面だけの理解かもしれないけれど、感想です。
l耐えがたい緊張」が克服されるのは、「精神活動をやめること」によって、とか、魂の平穏=精神の平穏を破壊するのは意志することで生じる緊張、とかいう話を聞くと、いわゆる東洋の知恵を拠り所にする私たちの祖先が、「お腹に何もない」ことや「裏表のない=意図的ではない」「理屈っぽくない」ことを好ましいこととした気持ちもわかるような気がする。