読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

「しかも、この仮説がもっともだと思われるのは、一つの世界精神の実存を想定する場合だけなのである。なぜなら、この一つの世界精神は、多くの人間の意志を支配し、この意志を理性の欲求から生じる「意味」に向かわせるからである。

この場合、理性の欲求とは、心理学的に言えば、あるべきようにある世界の内に生きたいというまさに人間の意欲である。」


〇この後にテーゼからアンチテーゼへ、さらにはジンテーゼへと至る図が示され、いろいろ書かれているけれど、正直、ここも全くわかりません。



ニーチェが記したように、人間の意志は、それ自身に任されると、「意志しないくらいならまだしも、無を意志するのである」。

「しかし、非存在からはいかなる生成も生じえないということに気づくには、非存在から出発する弁証法的運動という思想を検証しさえすればよい。始まりの非存在は、生み出されたいっさいのものを無化するであろう。

へーゲルはこのことによく気が付いている。

つまり、ヘーゲルは、「天上でも地上でも、存在と無の両者を自らの内に含んでいないものは何処にも存在しない」という確信を持った自らの言明が、存在の優位という確固たる前提に基づいていることを知っている。」


「つまり、「存在は、すでに始まりのうちに含まれているのである」。」


〇無が先か存在が先か。仏教では無とか空とかが説かれています。
深い意味は全然分かりませんが。

でも、無だ、空だ、と言われると所詮この世は「夢の中のこと」となります。
夢の中ではなんでもあり、で何が悪い?となります。

それでも、死んだら地獄に落ちるよ、と言われても地獄に落ちないためだけに、
善行を積むというのは、動機付けとしては、弱すぎます。

死んで「よい位」につきたいから(創価学会の人が私にそう教えてくれました)善行を積むと言っても、結局は自分の利益のことしか考えていない、ということになります。

生きる意味としては、全然魅力的じゃないと感じるのは、私だけなんでしょうか?

それに比べ、いわゆる共同体感覚=みんなと一緒に幸せになる、人類の幸せを願うという考え方には、とても強い魅力を感じます。

具体的には、自分の息子も娘も、その子供たちもみんな幸せになれる社会になってほしい、と思います。

理想なんて実現は難しいと思うけれど、どうせ生きるなら、少しでも近づけるように、と思います。所詮、人生は夢でしかないと思って生きるのはむなしすぎます。

むなしすぎることを頑張って続ける気にはなりません。
すぐにやめたくなってしまうのです。