「人間の魂のなかでは、理性が「支配的」で命令的な原理であるのは、ただ欲望が盲目で理性を欠いているために盲目的に服従するものとされているからなのである。(略)
というのも、これは矛盾率_きみ自身に矛盾せず、きみ自身の友人であり続けろ_ということによって保障されるからである。」
悪い人間は、自分と一緒にいることには耐えられなくて、「人生から逃亡し自らを滅ぼすか」、あるいは、「一緒に過ごす他の仲間を見つけようとするが、自分自身とは一緒にいることができない。
そうした人間は、一人でいると、自分を不安にする多くの出来事を思い出す…。」
〇「小人閑居して不全をなす」という言葉を思い出しました。
「というのは、[政治的]活動は、理性の命令をたんに実行するだけではないからである。つまり、[政治的]活動は、それ自身が理性的活動ではあるが、「理論理性」の活動ではなく、「霊魂論」では「ヌース・プラクティコス」と呼ばれていること、つまり実践理性の活動なのである。(略)
この実践理性はプロネーシスと呼ばれていて、人間にとっての善悪についてのある種の認識・洞察であり、また、人間が生活するうえで必要な一種の賢明さ―これは、知恵でもなければ、抜け目のなさでもないーなのである。
それは、世間の言い方に合わせて、ソフォクレスが、老人たちのものだとし、
それをアリストテレスが概念化したものである。
プロネーシスは、人間の力によって必ずしも達成できるとはいえない活動にとって必要なものである。」
「人間は、闘うことを強いられても、勇敢に闘うのか、臆病に闘うのかという自由をもっている」。」
「彼は、自制心のなさの例を挙げている。すなわち、自制心のなさは悪であり、のぞましいものではないということに、人はみな同意する。」
「選択の能力がなければ、人間の精神は、二つの相反する強制力にゆだねられてしまう。」
「このことに基づいて、カントはくりかえし、外部からやってくるのではなくて精神地震から生じるどの「汝為すべし」も「汝なしあたう」ということを含意していると主張するのである。」
「「自由が問題となり、独立した自律的能力としての意志が発見されるのは、人間が<汝なすべし>と<私はできる>とが合致するということを疑い始め、「私だけにかかわることは、私の権能に属することでもあろうか」という問いが生じてきたときにのみ出てくるのである。」
〇「自由」という言葉は西洋から入ってきたという話を聞いたことがあります。
ということは、「意志」という言葉も西洋からなのでしょうか。
今、「日本会議」なるものが力を持ち、日本古来の価値観を大事にしようという
運動を起こしているようです。(詳しいことはよく知りません)
どこまでが西洋のもので、どこまでが日本古来のものだとするのか、とても心配です。
「自由も意志も我らには必要なし」となった時、とてもおかしなことになります。
その「必要なし」とする「意志」はどこから来たのですか?と。
そして、「それをなしとする自由」はあなた方にあるのですか?と。
日本古来のものと言っても、西洋の文化を受け入れここまで積み上げてきた私たちの文化には、物質的にも精神的にも多くの西洋的なものが入り組んでいます。
その積み重ねの上に今の日本がある、そのことをなぜしっかり受け入れ、世界的な=普遍的な価値観を目指そうとしないのか、そこがとても疑問です。
旧来の日本の価値観は、国民には「知らしむべからず、拠らしむべし」の押し付けで、問答無用のものでした。
為政者にはとてもやりやすかったのでしょう。
そこに戻そうとしているようにしか思えません。