読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下


「ある決まった瞬間に、一つの目標が選択され、「これに向かって、それまでは多くの意志に分裂していた一つの全体的な意志が方向づけられうる」という点は、認めている。しかし、これが決定的なのだが、意志の和解は神聖なる恩寵によっては生じないのである。アウグスティヌスは、(略)最終的に人間の行動を決定する究極の統一的な意志を愛として規定している。」


〇「愛」が意志。ここがよくわからない。


「「私の重さは私の愛であり、私は愛によって自分が運ばれてゆくところへはどこへでも運ばれてゆくのである」。魂の重力、人間の本質といった人間の目には隠されているようなものは、こうした愛において見えるようになるのである。」

〇確かに、自分の意志をはっきり表明しない人は「どんな人なのか」よくわからない。よく言われる「普通の人」というのは、「どこにでもいる特に目立たない人=みんなと同じようにふるまっている人」ということで、

そうなると、私たちはみんな普通の人でありたいと思っているので、目立たないように、意志をはっきりさせない、となってしまう。


人の中では、重さのない私で目立たぬようにふるまうけれど、実際にはいろいろ思ったり、考えたりしているわけで、その自分を出す場所は、こんなふうに、ブログの中だけ、みたいな私です。(*_*;



「次の点は記憶に留めておこう。第一に、意志の内部の分裂は構想であり対話ではない。(略)第二に、身体に命令を下すものとしての意志は、精神の実行機関にほかならず、そうしたものとしては何ら問題を含むものではない。(略)

第三に、命令したり従順さを要求したりすることが意志の本性の内にあるので、意志が抵抗を受け、限定を受けるということも意志の本性の内にある。(略)

アウグスティヌスの主要な分析には、上記の目的の最終決済者は、「告白」の本当の最後を除けば、一切登場しない。アウグスティヌスは突然、一種の愛としての意志、「我々の魂の重力」について語り始めるが、その際にはこの奇妙な等値についての何らの説明もない。」


アーレントは、卒業論文でこの「アウグスティヌスの愛の概念」という問題を
扱ったと読みました。ここに書かれていることは、相当に深く考え続けてきたことなんだろうな、と思いながら読んでいます。


「[というのは]、明らかに「私」がこの争いの両側面だからであり、対立は、私と私自身との間にあるからである…。私を、あるいはそう言いたければ、私の意志を、この争いの一方の側面と同一視しようとするのは、この二つの私の一方が他方よりも、より永続的な私の感情の状態を表すからなのである。」


「ミルはこの「永続性」を必要とした。というのは、彼は、「もっとも強力な欲望や嫌悪の感情に逆らっても行為できるということを、我々が意識している点に関しては、断固として異論を唱えている」からである。」


「「誘惑[つまり、その時のもっとも強力な欲望]の言うなりになった後では、欲望する「私」はおしまいになるだろうが、良心の呵責にさいなまれた「私」は、おそらく一生持続する」ということである。」


「そして、彼が「道徳教育の目的は意志を教育することにある」、という際には、この両側面の一つに勝つことを教えるのが可能だと想定しているのである。」