読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

スコトゥスの議論の出発点となっている問いは、「意志において意志的行為の原因となっているのは、それを動かしている対象の方なのか、それとも意志自体なのか」という問いである。」


スコトゥスは言う。「偶然的」という語によって私がいいたいのは、必然的でないものとか必ずしもつねに存在したわけでないものとかではない。

実際に起きた時点でそれと正反対のことも起こりえたようなもののことである。だからこそ、私は「これこれのことが偶然的である」とは言わずに「これこれのことが偶然に引き起こされる」と表現しているのである」。

言い換えると、人間界の事象には因果的に決まる要素があるからこそ、まさにそれが偶然的で預言不可能だと言われることになるのである。」



「しかし、それと同時に、意志する自我は、同じくらいの妥当性を持っている精神の経験や常識の経験に対しては解決しがたい対立関係にあるようにも見える。」


〇この後の文章、日本の言葉が並んでいるのに、何度読んでも、どうしても何を言ってるのか、わからない…


もともと、よくわからないまま読み進んでいるので、今に始まったことではないのだけれど、頭が考えるのを拒否し始めたような気がします。


「「自由と必然性を和解させる方法に関する問いには本当の答えがない」ということをスコトゥスはあっけらかんと認めたといわれている。」


「因果性の用語法を使えば、意志がまず意志行為を引き起こし、意志行為が原因となって、意志では元に戻すことができないような結果が生じる。意志がこの無力さに腹を立てるのを静めようとして説明力のある原因を知性は見つけようとするが、そのために所与のものをしかるべき位置に落ちつかせる物語を作り上げようとする。必然性を前提としなければ、話には一貫性がなくなってしまう。」


〇多分、なんらかの「たとえ話」が挙げられていれば、もう少しわかりやすいのだと思うのですが、そのたとえ話をこちらで考えることができないので、何を言ってるのか、わからない…となってしまいます。


「決定的な対立があるのは自由と必然ではなく、自由と自然である、つまり自然としての意志と自由としての意志である。」


〇ここは、少し引っかかります…
私たち、日本人は、「敢えて…」とか「意図的に…」とかを「これ見よがしに」と受け取って、嫌がるような気がします。「自然に…」そうふるまってる、というのを見るのが好きです。

自由な意志と自然としての意志が「決定的な対立」にある、というのはそれに近いのかな、と。


「意志の能力から生じる限りで、自由に関する古くからの問題に対してスコトゥスが与えた驚くほど簡潔な解答がある。(略)

「一者のなかの二者」という分割が、<私は意志する>と<私は否と意志する>との間の死闘となっており、そしてこの両者は自由を保証するために必要なのである。「意志行為を経験するものには意志しないこともできるという経験も又あるのである」。」


〇う~~~~ん… つまり、自由によって「意志しない」という道を選びとっている私がいる…。


「聖パウロアウグスティヌスの意志の哲学に従って、スコラ哲学者は意志の悲惨さを癒すために恩寵が必要であるということに同意する。おそらくはスコラ哲学者の中でもっとも敬虔なスコトゥスがこのことに同意しない。意志する自我を救済するために神の介入は不要である。」

〇ユダが自殺したことを罪だとした理由が、自分の罪をも神に委ねなかったから、という話と似てるものを感じる。


「人間が自由から逃れる通常の方法は意志の提案に基づいて行為することだけである。」


「すでにアウグスティヌスにおいて意志することの愛することへの変容を見いだせるが、二人の思想家の思考を導いたのがパウロの言葉である可能性は高い。(略)
(コリント信徒への手紙1 13:8~13)」


「自分自身の中に憩う活動がありうるという考え方は驚くべきほど独創的であって、西洋思想の歴史の中に類を見ない。

スコトゥスが必然よりも偶然を好み、普遍よりも個別的存在を好んだことと同程度に独創的である。」



「私の知る限り、哲学の歴史において、自由に対してはてしなく係わりを持ったという点でスコトゥスに匹敵しうるのはカントだけである。(略)

少なくとも同じ問題を扱っている不思議な箇所を「純粋理性批判」から引用してしめくくることにしよう。」


「何かが存在すると想定すると、なにかあるものが必然的に存在するのだという推論を避けられなくなるのは、非常に奇妙なことだ。(略)

絶対的必然とはただ思想のうちにのみ見いだされる必然性なのである。」


「さらに、スコトゥスの教えを受けて、思考には絶対的な無はないと付け加えることもできよう。」