読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

精神の生活 下

「あるいハイデガーの用語を使えば、実存論的に言えば人間という現存在は「自分自身に引き渡されている」という事実によって生じたのである。」

〇ここでも、あの水谷修さんの「夜回り先生」の中の言葉を思い出しました。
もう一度、書いてみます。

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「この世に生まれたくて、生まれる人間はいない。
私たちは、暴力的に投げ出されるようにこの世に誕生する。

両親も
生まれ育つ環境も
容姿も
能力も
みずから選ぶことはできない

何割かの運のいい子どもは、生まれながらにして、幸せのほとんどを
約束されている。
彼らは豊かで愛に満ちた家庭で育ち、多くの笑顔に包まれながら
成長していくだろう。
しかし何割かの運の悪い子どもは、生まれながらにして、不幸を背負わされる。

そして自分の力では抗うことができない不幸に苦しみながら成長していく。
大人たちの勝手な都合で、不幸を強いられるのだ。

そういう子どもたちに不良のレッテルを貼り、夜の街に追い出そうとする
大人を、私は許すわけにはいかない。」

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「しかし、この種のことがあったからと言って、我々の知性、精神の 認識能力と真理への信頼に妨げとなるわけではない。
認識能力は我々の感覚同様、自分自身にはね返ってこない。それは、まったく思考的であり、つまり施行された対象によってまるごと吸収されている。

とすると、ちょっと見たところでは、今世紀の偉大な科学者にも自由に反対する同じような傾向が見いだされることには驚く。

宇宙物理学と原子物理学における彼らの証明可能な発見によって、アインシュタインンの言葉によれば、我々は、「さいころ遊びをしている」神に支配されている宇宙の中に生きているのではないかという疑念が生じ、あるいはハイゼンベルクが示唆したように、我々が「外なる世界」と見なしているものは「我々の内なる世界がたんに中から外に出たにすぎない[かもしれない]」(ルイス・マンフォード)という疑念が生じた。

そして知ってのとおり、この時に彼らは非常に不安になったのだった。もちろんこうした考えや後からの思いは、科学的な言明ではない。これらは、証明可能な命題、あるいは、いつかは検証が可能な命題に翻訳されることが望まれるような仮説だというのではない。

これらは、意味を探求する中で出てくる考察であり、それゆえ思考する自我による他の所産におとらず思弁的である。アインシュタイン自身、たびたび引き合いに出された次のような意見で、[検証が可能な]認識的言明と[検証の不可能な]思弁的命題との間にきわめて明瞭に一線を画している。

すなわち「自然のもっとも不可解な事実は、自然が理解可能であるという事実である」。


ここで我々は、いかにして思考する自我が認識活動に立ち入り反省によってそれを妨害したり、保持したりするかを、大まかに見ることができる。

思考する自我は、科学者の日常の活動を「取り戻す」のだが、そのやり方は、この自我が自分自身に立ち戻り、自分の活動の基本的な不可解さをじっと考えることによってそうするのである。

この不可解さというのは、たとえそれを解けなくとも、それについて思考する価値がある謎なのである。

こうした反省はいろいろな「仮説」を生み出すであろう。そしてその中のいくつかは、実験されれば、知識を生み出すことになるかもしれない。いずれにせよ、それらの質と重要性は、その説を作った人の認識の出来栄えに依存しているのである。

しかし次のことを打ち消すことはまったくできない。すなわち近代科学の偉大な発見者_アインシュタインプランク、ボーア、ハイゼンベルクシュレディンガー_の考察が、「近代科学の基礎にかかわる危機」をもたらし、「そして彼らの中心的問(人間が世界を認識することができるためには世界はどのようでなければならないか?)は科学そのものと同様に古く、今も未回答のままである」ということを。」

(234p~235p)☆ほとんどを書き写しました。