読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「空気」の研究

〇 この後、山本七平氏は、「文芸春秋」(昭和五十年八月号)の記事「戦艦大和」を取り上げ、軍令部次長・小沢治三郎氏が「全般の空気よりして、当時も今も(大和)の特効出撃は当然と思う」と発言していることに驚いています。

「この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人々にはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。」


「というのは、おそらくわれわれのすべてを、あらゆる議論や主張を超えて拘束している「何か」があるという証拠であって、その「何か」は、大問題から日常の問題、あるいは不意に当面した突発事故への対処に至るまで、われわれを支配している何らかの基準のはずだからである。」


〇私は、以前、私たちの社会には「基準がない」と書いたけれど、山本氏は、この「何か(空気?)」が基準だと言っています。


でも、私は正直言って、本当に本当に不思議なのです。「客観情勢」から「大和出撃は論理的にはありえない。」

なのに、なぜ、「特効出撃は当然」となってしまうのか。

昔の人は知的レベルが低かったのだ、とずっと思っていました。でも、今や日本は教育も行き届き、頭の良い人が大勢います。

でも、それにもかかわらず、例えば、あの原発廃棄物処理の議論を見ていると、今も似たような詭弁が繰り返されているのです。

日本学術会議が、「合意形成はほぼ不可能。国が目指す地下に埋める地層処分でも安全は確保されない。」と提言しているにも関わらず、現在、国は候補地を探しています。それほど知的レベルの高くない、この私でさえ、この地震大国の日本の地層が、10万年間、不変である可能性はそれほど高くない、と想定できます。

何故、日本の官僚にその想定ができないのか。不思議でたまらないのです。

本当に「空気」のせいなのでしょうか?むしろ、それを隠れ蓑に、為政者はやりたい放題やって、責任を取らなくてもよい「空気」を作り出しているのではないのか?
と勘繰りたくなります。