読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

「空気」の研究  「水=通常性」の研究

「これは「天皇の戦争責任」論争をみても、今の「共産党リンチ事件」にまつわる論争を見ても明らかである。ところが非難をしているものも、その非難に対して自己を弁護している者も、またその弁護を非難している者も実は「同一基準」に基づく考え方の表と裏の堂々めぐりをしているにすぎない。


というのは、特高のリンチを非難するこことは「リンチ」という行為を悪と規定するがゆえに間接的には共産党のリンチへの非難になるという発想はこの状況倫理には皆無で、逆に、特高のリンチへの大声の非難は共産党のリンチへの間接的弁護になると考えている点ではみな同じだからである。

これはこの倫理的な基準が、「状況への対応の仕方」にあっても、その対応によって生じた同一の「行為」そのものではないことを示しているであろう。」


「そしてこの論理を推し進めて行けば、一方は「大東亜戦争肯定論」もう一方は「闘争・リンチ肯定論」となり、最終的にはともに清く正しく美しい「党・国体の精華の発露の歴史」すなわち「天皇制的無謬史」に帰着するであろうと思う。」

「また同じ状況におかれれば、すべての民族が同じようにリンチをはじめるわけではない。戦争中の連合軍側の捕虜の死亡率は、ドイツ・イタリアの収容所では4%、日本の収容所では27%、それだけでその苛烈さが明らかだが、

その中でも特にひどかったといわれるのが、タイ・ビルマ国境のクワイ川の死の収容所だが、ここの記録を調べても、またマニラのサン・トマス収容所を調べても、英米人捕虜の中に暴力機構が発生し同胞をリンチにかけたという記録はない。

またソヴィエトの収容所のドイツ人捕虜には、ロシア人の権威をかさに着て同胞をリンチにかけた例はないという。

シベリア天皇は、所詮、日本人にしか発生しなかったものらしい。


このことを別の面から見ると、彼らは、例外を除けば、「状況を免責の理由」とは考えない伝統に生きてきたことである。」


〇日本では、「苛烈な弾圧」のせいで「リンチ」が発生したという説明を、その当事者がして、それを聞いた者たちも、その説明に納得する風潮がある、ということを山本氏は例を挙げて言っています。


「そしてこの考え方の背後にあるものは実は一種の「自己無謬性」ないしは「無責任性」の主張であり、状況の創出には自己も又参加したのだという最小限の意識さえ完全に欠如している状態なのである。

そしてこれは自己の意志の否定であり、従って自己の行為への責任の否定である。」


〇なぜ、「自己無謬性」を主張しなければならないのかについて、思ったこと。

神(基準)が在って、人間は矛盾に満ちた間違うもの、という大前提があるとき、
例え間違っても、それは全く普通のあたりまえのこと。

でも、基準がない時、間違うことは「悪」で、もし、間違ったなら、自分は「悪人」「ダメな人」になってしまう。もともと間違うことは想定されていないので、「敗者復活」の道は険しく、強い人のみが、可能になる。

だから、自分自身の心を守るためにも、自分が間違ったのは、「悪人」だったからではなく、「ダメな奴」だったからでえもなく、ただ、状況が悪かったから、そうするしかなかった、と信じることでしか、救われないのだと思う。

また、周りの人間も同じ状況の中にいるから、その人の気持ちもよくわかるから、
その説明(状況がひどかったから、心ならずもそうしてしまった)に納得する。


これは、あの「夜回り先生」のところでも書いたけれど、「人間は間違うもの」という大前提で生きる時、「許し」が用意されているのに、「間違ってはいけない」というプレッシャーの中で生きるものには、「許し」はない。

「間違った時は、死ぬ時」位に、追い詰められてしまう。