読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史 下

「第十五章 科学と帝国の融合   <なぜヨーロッパなのか>

クックの遠征の少し前まで、イギリス諸島とヨーロッパ西部は概して、地中海世界から遠く離れ、取り残された場所にすぎなかった。(略)

ヨーロッパがようやく軍事的、政治的、経済的、文化的発展の重要地域になったのは、15世紀末のことだった。(略)


1775年にアジアは世界経済の八割を担っていた。インドと中国の経済を合わせただけでも全世界の生産量の三分の二を占めていた。それに比べると、ヨーロッパ経済は赤子のようなものだった。


ようやく世界の権力の中心がヨーロッパに移ったのは、1750年から1850年にかけてで、ヨーロッパ人が相次ぐ戦争でアジアの列強を倒し、その領土の多くを征服したときだった。」



ユーラシア大陸の寒冷な末端に暮らすヨーロッパの人々は、どのようにして世界の中心からほど遠いこの片隅から透けだし、全世界を征服しえたのだろう?」



「1770年には、ジェイムズ・クックは、たしかにオーストラリアのアボリジニよりもはるかに進んだテクノロジーを持っていたとはいえ、それは中国やオスマン帝国の人々にしても同じだった。

それではなぜオーストラリアを探検して植民地化したのは、萬正色船長やフセイン・パシャ船長ではなく、ジェイムズ・クック船長だったのか?

さらに重要なのだが、もし1770年にヨーロッパ人が、イスラム教徒やインド人や中国人よりもテクノロジーの面で大きく優位に立っていたわけではなかったのだとしたら、ヨーロッパの国々はその後の100年間で、どうやってその他の国々にそれほどの差をつけたのだろう?


軍事・産業・科学複合体が、インドではなくヨーロッパで発展したのはなぜか?イギリスが飛躍した時、なぜフランスやドイツやアメリカはすぐにそれに続いたのに、中国は後れを取ったのか?」



「中国人やペルシア人は、蒸気機関のようなテクノロジー上の発明(自由に模倣したり買ったりできるもの)を欠いていたわけではない。


彼らに足りなかったのは、西洋で何世紀もかけて形成され成熟した価値観や神話、司法の組織、社会政治的な構造で、それらはすぐには模倣したり取り組んだりできなかった。」


〇ここに至って、あのハンナ・アーレントの「精神の生活 思考・意志」の「意味」が結実しているように見えます。


「日本が例外的に19世紀末にはすでに西洋に首尾良く追いついていたのは、日本の軍事力や、特有のテクノロジーの才のおかげではない。むしろそれは、明治時代に日本人が並外れた努力を重ね、西洋の機械や装置を採用するだけにとどまらず、社会と政治の多くの面を西洋を手本として作り直した事実を反映しているのだ。」


「二人の建築者を想像してほしい。(略)一人は木と泥レンガを使い、もう一人は鋼鉄とコンクリートを使っている。最初は両方の工法にあまり違いはないように見える。(略)ところが、ある高さを超えると、木と泥の塔は自らの重さに耐えられず崩壊する一方で、鋼鉄とコンクリートの塔ははるかに仰ぎ見る高さまで階を重ねていく。

ヨーロッパは、近代前期の貯金があったからこそ近代後期に世界を支配することが出来たのだが、その近代前期にいったいどのような潜在能力を伸ばしたのだろうか?

この問いには、互いに補完し合う二つの答えがある。近代科学と近代資本主義だ。
ヨーロッパ人は、テクノロジー上の著しい優位性を享受する以前でさえ、科学的な方法や資本主義的な方法で考えたり行動したりしていた。

そのため、テクノロジーが大きく飛躍し始めた時、ヨーロッパ人は誰よりもうまくそれを活用することが出来た。」


〇科学的な方法で考えたり行動したりしていた…。黒を白と言ったりしない。
つまり、考え方が「鉄筋とコンクリート」だった。
大事なのは、考え方だと言っている。



「近代科学とヨーロッパの帝国主義との歴史的絆を作り上げたのは何だろう?(略)
科学者も征服者も無知を認めるところから出発した。(略)両者とも、外に出て行って新たな発見をせずにはいられなかった。

そして、そうすることで獲得した新しい知識によって世界を制するという願望を持っていたのだ。」