読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

サピエンス全史 下

「<人生の意義> すると、自分の日常生活について、多くの人々の見方の中に一見矛盾しているように思われる点が見つかった。子供の養育にまつわる労働を例に取ろう。


カーネマンの研究から、喜びを感じるときと単調な苦役だと感じるときを数え上げてみると、子育ては相当に不快な仕事であることが判明した。労働の大半は、おむつを替えたり、食器を洗ったり、癇癪を宥めたりすることが占めており、そのようなことを好んでやる人などいない。

だが大多数の親は、子供こそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。これはつまり、人間には自分にとって何が良いのかが良くわかっていないことを意味するのだろうか?

そういう見方もできるだろう。だがこの発見は、幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではないのを立証しているとも考えられる。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているというのだ。


幸福には、重要な認知的・倫理的側面がある。各人の価値観次第で天地の差がつき、自分を「赤ん坊という独裁者に仕える惨めな奴隷」と見なすことにもなれば、「新たな命を愛情深く育んでいる」と見なすことにもなる。


ニーチェの言葉にもあるように、あなたに生きる理由があるのならば、どのような生き方にもたいてい耐えられる。有意義な人生は、困難のただ中にあってさえも極めて満足のいくものであるのに対して、無意味な人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練にほかならない。」


〇少し前に、「子育ての例をあげて、人間は自分に何が良いのかわかってない…」というようなことを書きました。それがこの場所です。2度目に読むとまた少し違って感じられます。

この、メモをしながら読むというのは、時間がかかって大変に感じることもあるのですが、私のように頭の働きに問題のある人間には、案外良い方法かもしれない、と最近は思います。


「では、中世の祖先たちは、死後の世界についての集団的妄想の中に人生の意味を見出していたおかげで、幸せだったのだろうか?まさにそのとおりだ。そうした空想を打ち破る者が出ないかぎりは、幸せだったに違いない。


これまでにわかっているところでは、純粋に科学的な視点から言えば、人生にはまったく何の意味もない。人類は、目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。(略)

したがって、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。

人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があると言う科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄想に取り憑かれているのだ。

それならば、幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。私個人のナラティブが周囲の人々のナラティブに沿うものである限り、私は自分の人生に人生には意義があると確信し、その確信に幸せを見出すことができるというわけだ。

これはなんとも気の滅入る結論ではないか。幸福は本当に、自己欺瞞あってのものなのだろうか?」