読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

新編 東洋的な見方

〇 鈴木大拙著 上田閑照編 「東洋的な見方」を読んでいます。
鈴木大拙という名前は聞いたことがありました。でも、なんとなく、池田大作とイメージが重なり…(>_<) 読んだことがありませんでした。
 
「日本的霊性」が良いという話を聞き、一度読んでみようと思ったのですが、図書館で借りるとまた返す日を気にしなければならないので、古本屋にあった「東洋的な見方」を読むことにしました。
 
まだ最初の方しか読んでいないのですが、読んでよかったと思います。
 
「<東洋文化の根底にあるもの  1958年>  ラテン語でdivide et impera というのがある。英語に訳すると、divide and rule の義だという。すなわち「分けて制する」とでも邦訳すべきか。なんでも政治か軍事上の言葉らしい。(略)
 
分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われとヒト、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの_この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。
 
哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。」
 
〇自分を知るには、他の人と関わらなければならない、とか自国を知るには
一旦国外へ出てみた方が良い、とかいう話を聞いたことがありますが、違うものを知って初めて今まで特別意識せずに見ていたものの性質が見えてくる、ということはあると思います。
 
こんなことは考えてみてもしょうがないとは思うのですが、西洋で、そのように二元性でものを考えるようになったのは、なぜなのか…。日本ではなぜそうならなかったのか…。
 
多分、ゴリラやチンパンジーニホンザルの習性が違うほどの古い古い昔から、おそらく進化の過程ですでに、その気質が違っていたんだろうな、と思います。
多分、どっちがいいとか悪いとかいうことではなく、違っている、そのことをしっかり説明した本を書いているのが、この鈴木大拙という人だと思いました。
 
 
「二元性を基底にもつ西洋思想には、もとより長所もあれば短所もある。ここ特殊の具体的事物を一般化し、概念化し、抽象化する、これが長所である。
 
 
これを日常生活の上に利用すると、すなわち工業化すると、大量生産となる。大量生産はすべてを普遍化し、平均にする。生産費が安くなり、そのうえ量力が省ける。しかし、この長所によって、その短所が補足せられるかは疑問である。
 
すべて普遍化し、標準化するということは、個個の特性を滅却し、創造欲を統制する意味になる。(略)つまりは機械の奴隷となるにすぎない。(略)知性一般化の結果は、凡人のデモクラシーにほかならぬ。」
 
〇 「個々の特性を滅却し」というのが西洋思想の短所と言われているけれど、本当にそうなんだろうか。もし、西洋思想が特性を滅却する性質を持っているなら、なぜ、西洋人の方が個性的に生きてるように見えるのだろう。
 
東洋思想で「特性を滅却されない」はずの日本人がなぜみんな「普通の人」として同じような行動を取るようになるんだろう。
 
すごく不思議だと思いました。
 
「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。」
 
〇これは、衝撃でした。
「東洋では知性が重んぜられなかった。」
 
たしかに、そんな雰囲気があります。「知性」などとはっきり形にならない、「人としての賢さ」のようなものを評価したい感覚が私の中にもあります。
 
荘子の言葉、老子の言葉なども引用され、東洋思想もまた難しくよくわかりませんが、今回も、心に引っかかった言葉をただメモしていきたいと思います。
 
 
「東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である、父ではない、これを忘れてはならぬ。
 
欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立て上げたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。
 
彼らの神は父であって母でない。父は力と律法と義で統御する。母は無条件の愛で何もかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併呑して、「改めず、あやうからず」である。
 
西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。」
 
 
〇私はもともと弱い人間なので、あまり厳しいことは言われたくありません。
「無条件の愛でなにもかも包容し、善いとか悪いとかいわない」東洋の母のような神はありがたいのですが、今は、なぜそんな雰囲気がまるでないのでしょうか?
 
昔はあったから、皆、その神に守られて元気に過ごせたのでしょうか?
 
そういう母のような神を求めたくなる気持ちは私にもあり、すごくわかるのですが、東洋にはそのような神がいて、西洋には父のような神がいる、と言われても、まるで、実感がありません。
 
なぜなんでしょうか?
 
ここで、鈴木大拙氏が母を持ちだしているのを見ると、むしろ、「女性=母」として、母に頼り、押し付け、問題解決を図ろうとする典型的な日本人の男性のイメージが重なってしまいます。