読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

「禅にかぎらず、仏教全体についていうと、内を見るとか、照らすとかなど話せられる場合には、いずれも思議的・思索的・論理的方法から離れることを意味する。いわゆる超証である。飛び越えることが肝要だ。

同じ平面でなく、次元のちがった面に立つのである。そういっても考え違いをする人が多いゆえ、とにかく、未知の境域へ驀進または侵入する覚悟で、全存在を投げ出すのである。

そうしなけれがならぬ時節が到来するのである。」


「近代人にはこの意識が鬱然として高められてきた。世界は今にことごとく共産主義の社会になる、と豪語する政治家もいる。しかし、いかに組織狂信者になっても、この人間社会を蟻や蜂の生活組織に変えてしまえとはいうまい、と自分らは信ずる。」

〇「世界は…共産主義の社会に…」という文章を読み、1960年頃、実際にそのような風潮があったのだと、実感しました。


「いわゆる鉄のカーテンの向こうは、大半秘密の幕で蔽われている。これがくせものだ。何もかも、白日青天の下にさらけ出して、天下のf人をしてことごとく見せしめるということがない。何と説明しても、どこかに暗いところがあるに、きまっている。

その暗いところを見たいものだ。わるいものはきっとそういう箇所を絶好の住家としている。」

〇今読むと、この鈴木大拙氏、よくわかっている、すごい!と思います。

「第一、われら自身の身体というもの、これは、果たして自分のものか、如何?だれもそうは思っているが、果たしてそうか。

自分のものなら自分の自由になりそうだが、なかなかそうはいかぬ。自分が生まれようとして生まれたものでない。父母所生である。そしてその父母なるものも自分で勝手にこの子を生もうとしたのでない。

いくら過去へ遡っても、自分の自由意志なるものは見当たらない。何一つ自分の計らいで出来ていない。」


「ところが、ひるがえって内向的に見ると、「自分」は依然として在る。小さな地球だけでない、三千大千世界をも、一呑みに呑みほしてしまうものが、そこに潜在しているのが、不思議である。」


「がらんどうの世界でない、無限の力をたくわえた不増不滅、不得不失、万徳円満の世界だ。この世界の消息に一たび接しえて、そうしてから、哲学を建立してほしい。政治をやったり、商売をしたりしてほしい。外交の問題、労資の問題、その他一切の組織関係の問題は、刃を迎えて解決できる。」