読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

「<「自由」の意味 1962年>  大人から見ると、子供は、とんだり、はねたり、種種様々の遊びをやったにきまっている。「何もしない」は、客観的に見ると、大いなる虚誕である。ところが、子供の主観から見ると、百般の活動態はいずれも遊戯でしかないのだ。

何らの努力もなければ、何らの目的も意識せられぬ。ただ興の動くにまかせ、そのままに、飛躍跳動したに過ぎないのである。当面の子供から見れば、何もしていないのだ。


春の野に鳥が啼いたり、若駒が駆けまわるのと、何も変わらぬ。何らの目的をも意識していない。こうなるものとも、考えていない。やむにやまれぬ大和心さえも、ないのである。

これを仏教者は、ことに他力宋徒は「修羅の琴のひきてなしに、自ら鳴る」ようだという。まことにその通りである。老子の「無為」である、東洋人の「無我無心」である。ここに「自由」の真面目が活動する。またこれを活発発地ともいう。」


「人間が自分の生活を何かで締めくくっておくと、便利なことがあるので、この生命の形式化を重宝がる。(略)軌則は後から付けたもの。大用はそんなものにとらわれていない。とらわれているのは、死物だ、「自由」ではない、本物ではない。

この「自由」を再認識しなくては、本当の「日本人」にはなれぬ。「大用現前不存軌則」を記憶しておいてほしい。」

〇こんな話を聞くと、あの頃、突然学校に行けなくなり、家にいてずっと居て、朝から晩までテレビゲームをやっていた、次男の姿を思い出します。

当然のことながら、禅の教えに従ってそのような行動を始めたわけでは全くないのですが、行動だけを見ると、まるで、この教えをそのままに体現しているように感じます。

とらわれているのは、死物、本物ではない。
自分の内から出てくる力で生きる。

今も、次男の生き方は、世間的には「うまくできていない」のかもしれませんが、
この価値観で見ると、まっとうにしっかりやっているように見えます。