「<時間と永遠 1959年> 永遠の生命などというが、そんなものはあり得ない。生命は移り変わるのが生命、移り変わるそのことが生命だから、その他に移り変わらぬものがあるとはいわれない。(略)
永遠の生命は永遠の死にほかならぬ。このような生命を願うなどということは、いかにも妄想だというよりほかはない。」
「人間の考えというものは、二つのものが相対していないと出てこないのである。」
「<東洋思想の不二性 1962年> これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信ずる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。
二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を超越して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、剣かが絶えない。(略)
人間はそれを制約と知って、それにとらわれない仕組みを知っている。ここに人間的なるものの妙処がある。また生き甲斐がある。これを心得ておかなくてはならぬ。」
「論理で論理を非論理させたり、言葉で言葉を打ち消したりするうちは、入不二法門にならぬ。不二は、この中に飛び込むことによって、はじめて体得せられ、体取せられ、道取せられるのである。」
〇まさに、「議論はするな、言葉による説明や説得はするな」と言っています。
これでは、議論のいろはも身につかないのが、当然だと思います。
なるほど、そうだったのか、と思いました。
「入不二法門の体験には、「尽くす」、「待つ」などの意識があってはならぬが、待つことなしに、尽さなくてはならぬ。尽くすという努力の極みに到達するとき、自然にその意識もなくなり、はからいもとれ、待つこともなしに、徹底するのである。」
私たちの祖先は、このように考えて力を尽くしてものづくりに励んだのだなぁ、と思いながら読みました。