読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

「<東洋の心  1965年>  「東洋的思考」または「東洋的真理」というべきは、西洋的なものと違って一種の特性を持っていて、この特性が、まだ世界一般に解せられていない。
 
これをどうかして知らせておきたいというのが著者の所懐、これが全編に渉っているのである。「東洋の心」などというときは、すこぶる散漫で、畢竟何をいわんとするのか、わからぬとも見られよう。「東洋」も漠然とした地理的明証であり、「心」もまた多種の意味に解されよう。
 
一口に飛躍していえば、「東洋の心とは禅だ」というところに帰するのである。それなら「禅とは何か」というのが問題になる。
 
 
禅はその源をインドに発しシナ、に来てから、道教儒教とを容れて、唐代から宋代にかけて全盛した、シナの独特の人生観・世界観である。
 
それが鎌倉時代に日本に来てから、そこで、文化生活の方面に特地の展開を遂げた。細目に至っては、今ここに尽くすべきでない。ただ、今のところでは、これまで、自分の著述中にあまり触れなかった点から見て、禅の何たるかにつき、不秩序ではあるが、少しく説き及んでみたい。
 
禅とは、人間の心の底にある、無限の創造性に徹して、これに順応して動作することである。われらの多くは、この創造性に対して、あらゆる障害、すなわち制限を加えんとするので、心常に平らかならず、何かにつけ、精神的煩悶を覚えている。創造性が変形せられるからである。
 
無限の創造性は、無限の可能性と同義に見てよい。仏教では、これを空という。しかし、これを単なる「廓燃無聖」的と考えてはいけない。「空即是色、色即是空」と見なくてはならぬ。
 
無限に充実した、絶対的肯定である。空を否定と見るときは、瞬間性のみが入っていて、時間性が欠ける。空と時を一つに見るべきである。
 
これを東洋的に表現すると左の如きものがある。盤珪の「底ぬけて、三界に一円相の輪もない」古桶、これが空である。この中に水が萬萬と湛えられてある。
 
 
荘子」のいわゆる機心のない百姓は、この桶で水を朝から晩まで田圃にかけてやる。なえは、これで日々に肥えてゆく。これがわれらの日常底の生活である。これに徹するを禅という。南泉の「平常心是道」である。これを「疲れては眠り、飢えては食う」という。
 
しかし、これを単なる動物性と間違えられると、とんでもないことになる。人間は「働くもの」で、また「見るもの」である。見て働き、働いて見る_ここに人間の人間たるところがある。妙用自在で遊戯三昧、大用現前すれば軌則を存せずである。
 
 
その跡を見ているのでなく、働きそのものになるのである。「見即ち性、性即ち見」だが、この性は単なる否定性でないことを記憶しなくてはならぬ。」※につづく
 
 
〇 コンパクトに東洋の心についてまとまっているので、前半をそのまま、抜き書きします。後半の漢文は難しくてわかりません。
 
もう少し、続きます。