読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

東洋的な見方

「<人 _ 東洋の主体性 1965年 >  近ごろよく戦後20年ということを聞く、しかし、自分らの年になると、戦後はニッ十年というより、維新は百年といった方が、多少の史的響きがある。(略)

数というものに分けて考えると、大変なこと、つまり絶対矛盾である。が、人間には、この矛盾を何でもなしに、自己同一にして、零即無限、無限即零とする。数を作るのも人間、数を超えるのも人間、自分で作って自分でこわし、その中に生きて行く、思考してあるいは楽しみ、あるいは苦しむ。人間の生涯ほど、奇怪なものはないのである。


ところで、飜って見ると、この奇怪不思議なるものの外に何もないのである。仏教で三界唯心といい、近代の哲学者の一人(キエルケゴール)にいわせると Truth is subjectivity(真理は主体性である)である。」

「<無位の真人  1966年>  真人とは普通にいう人のことでなくて、人を人たらしめるところの存在理由とでもいうべきか、いわゆる見聞覚知の主人公である。」



「真人は概念世界の存在でない。言語文字の範疇でとらえられるものでない。」


「宗教の要求するのは、真の人である。おひなさまを飾ったのでは活きていない、いかに美しくても手の届かぬ客観的幻影の世界にすわりこんでいては何にもならぬ。(略)

LSDの世界は、真物ではない。」


「大用現前ということがある。大用とは、赤裸裸で働くことである。人自らが躍り出たのだから、規律などという機械的なもので外から縛るわけには行かぬ。その人の行動そのものから、規律などというものが流れ出るのである。

宗教はここに立脚している。」

〇 ここを読みながら、あの「山ん中の獅見朋成雄」(舞城王太郎著)を思い出しました。 あのモヒカンはまさにこの鈴木氏が言っている真人のイメージです。