「<日本再発見 1962年> 西洋の人たちは、何事にも征服感が先立つらしい。(略)なんでもかでも、対峙的に見ようとするから、しかしてそれが自分の敵のように見られるので、それに打ち勝ってやろうと決心する。」
「最後に、この心を持ちうる日本人が、なぜか、生ける「自然」物_ 犬や猫、鳥や虫、草や木に対して、残忍の仕打ちをして平気でいるのが、不思議でならぬ。(略)
なぜか、日常身辺に嬉嬉として、とびあるく猫や犬にたいして、いかにも冷酷であること、子供のいたずらを誡めずにいること、これが不思議でならぬ。」
〇 この頃も、猫や犬に対する動物虐待があったようです。
でも…しつこいようですが…
禅では、善も悪もない、という。子供はその心の自然な発露のままに動くから素晴らしい、という。この「問題」を解決する糸口はここにはありません。
それをこの鈴木氏はどう考えたのか。それが不思議なのです。
人間はそのままで素晴らしい。この現世、娑婆がそのままで極楽、エデンの園だというのなら、この子供の動物虐待もそのままに受け入れて、素晴らしい、と言っていなければならないはずです。
でも、それはあり得ない。でも、そこをしっかり考えることをしない。
禅ではそのような言葉による思考はしない?
そうして、しっかり考えようとしている西洋思想をむしろ非難する。
ここで、やっぱり思うのです。多分、禅は、個人が一人で生きる姿勢としては、とても素晴らしい教えだけれど、「社会」として、みんなで生きるための教えではない、と。
そこをきっちり区別した方がよいと禅をまるで知らない素人は、考えるのですが。