「欧米の降参観について最新の実例を挙げてみよう。ウェーンライト将軍というは、フィリピン陥落の時、日本軍に降参した米軍の司令官であった。(略)
「フィリピンでやった戦争では、敵の勢力は圧倒的であった。しかし自分らの兵卒は、これに対抗すべき十分の戦力のなかったのにもかかわらず実に能く戦った。(略)」
それからウ将軍はまたワシントンの記念碑の前でも群衆のために演説を行った。その中の一節にいう、
「(略)それで自分らは、日本軍を尊敬すべき軍隊と見て降参した。ところが、その後はどんな事になったか、それは諸君もすでにご承知と信ずる。
文化的教養ある国民が戦争の捕虜はいかに待遇すべきかについて定めておいた規定_即ち捕虜の当然要求すべき権利や特恵_は、日本兵によりて無視せられた。勇敢な吾が兵士の多数は無闇な呵責と飢餓に苦しめられて死んでいった。(略)
いやしくも人間的感情の持ち主なら、吾らが比島で受けた苦しみをまた日本兵の上に加えてやろうとは考えないであろう。」(略)」
「試みに問う、日本の軍人をウェーンライト将軍の位置において見たらどんなものであろうか。(略)降参将軍なるものは日本にあり得るか、今までの日本人の降参観によると。
それから、この降参将軍が凱旋将軍となって日本の各地で上から下から歓迎せられるであろうか。」
「日本では何といっても感情が先立ち、また考え方の後面に潜伏している。これに反して、欧米人の考え方は合理性を持っている、人格尊重という倫理観または人道主義を盾としている。
それからまた2600年などという小説的に童話的に組み上げた歴史観をも清算して、そうして日本民族の真実の姿を見定めて、その上に始めて、日本的な政治・経済・倫理・宗教・文化が最も尖端的に世界性を持って、築き上げらるべきだということを述べたのである。」
〇 終戦の時、多くの人々が、今度こそ変わろうとした。反省をもとに、新しい日本になろうと願った。なのに、今、ここに至って、戦前とまったく同じことを繰り返しているのが、やりきれません。