読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

「氏は、昨日まで立派な紳士と見えたものが、「山の生活」という極限状態で、どう変わってしまうかを見た。それは言いかえれば、いま日本軍を批判していた者が、赤軍派の「虐殺の森」のような、日本軍以上の残虐さを現出するのを見るのと同じことである。

人はなぜそうなるのか。」


社会主義とか資本主義とか、体制とか反体制とか、さまざまな理論とか主張とか_しかし、人々は忘れている。人間という生物の社会機構の基本とは、実は食物を各人に配給する機構だという事実を。(略)


しかし、つまるところは、人の口に食物をとどけることが、社会機構の基本であって、これが逆転して機構のため食物が途絶すれば、その機構は一瞬で崩壊する_資本主義体制であれ、社会主義体制であれ、また日本軍の”鉄の軍紀”であれ…。」


「私のいたのは、人跡未踏、絶対に人が住めず、その生活環境では「三か月以上の生存はおそらく不可能」と言われた場所である。(略)

それは、裸でエスキモーの氷の村に放り出されたに等しい状態といえよう。」


「「座して餓死を待つ」という言葉があるが、人はこういう時絶対に「座して」いない。全く理由もなく、理由もない方向へ、ふらふらと歩きだし、ふらふらと歩き続けて、行き倒れになる。おそらく採集経済時代の「生への希求の基本方式」すなわち「食の採集」がそのままに出てきて、「座して」いられなくなるであろう。(略)

従ってそれはもう、本能としか言いようがない。」


『栄養失調     山の生活で、糧秣は欠乏し、過労、長雨、食塩不足、栄養不良、それに加えて脚気、下痢、アミーバ赤痢マラリヤ等により、体力が消耗しつくし、何を食べても一向回復せず、いや養分を吸収する力が無くなり、というより八十才位の老人の如く機能が低下している。

いわゆる栄養失調患者が相当数このストッケードにもいる。所内をカゲロウの如く、フラフラと歩きまわっている様は悲惨なものだった。(略)


常にガツガツしている様は、餓鬼そのものだ。自制心の余程強い人は良いが、そうでない人は同情を強要し、食物は優先的に食べるものと一人決めしているのが多い。


軍医氏の話によれば、「栄養失調者は、身体の総ての細胞が老化するので、いくら食べても回復しない。それに脳細胞も老化しているので、非常識なことを平気でやるのも無理はない」という。なるほどと思われる解説だ。(略)

いずれにせよ、この栄養失調者の群れは、同情されぬ人が多かった。』


「「とんでもない、西アフリカやビアフラの写真を見れば、飢えの恐ろしさはわかります」という人がいるかもしれないが、それが私のいう「わからない」の証拠にすぎない。


人はそれらの写真を見て「恐ろしい」「かわいそう」といった感情をもつであろう。だがそれはその人が飢えていないという証拠にすぎない。同じように飢えれば、そういう感情はいっさいなくなる。そして本当に恐ろしい点は、この「なくなる」ということなのである。

小松さんは末尾にはっきりと記している。「いずれにせよ、この栄養失調者の群れは、同情されぬ人が多かった」と。(略)


飢えが、自分に関係ない遠い異境のことだと思える間は、そして写真等でそれを眺めるにすぎない間は、人は同情する。しかし、この小松氏の絵に対してすら、人々はそれほどの同情を感じまい。たとえそれが同じ日本人であっても_。そのはずであって、それが自然なのである。」


「これはまことに奇妙で、空想的というより妄想的、支離滅裂的発想である。(略)言っていることは結局、現代の資本主義的生産物の恩恵だけは十分に供与されながら、自然的環境の中で生活したい、簡単にいえば、自然的環境の中で冷暖房付きの家に住み、十分な食料と衣料がほしい、ということにすぎない。


だがそれは、最も不自然な生活だから、それを自然と誤解しているいまの日本人が本当に自然状態に帰らざるを得なくなったら、おそらく全人口の七割ぐらいは、生存競争に敗れて死滅してしまうであろう。


自然には、人間を保護する義務はない_ということは、自然状態にかえった人間も、ほかの人間を保護しないということである。」


『人を殺して平気でいられる場合    ストッケードで親しい交際をしていた人の内に最高学府を出た本当に文化人的な人がいた。この人はミンダナオ島で戦い、山では糧秣が全くなかったので友軍同志の殺し合いをやったという。


ある日友人達を殺しに来た友軍の兵の機先を制して至近距離で射殺したことがあると話してくれた。そしてその行為に対しては少しも後悔も良心の呵責もないと言い切っていた。

それはその友軍兵を自分が先にやらねば必ず自分が殺されているから、自己防衛上当然やむを得ない事だと言った。』