読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

日本はなぜ敗れるのか _敗因21か条

「軍の計画はその意気を示すだけである」と言った人があったが、歩いてみて、つくづくそう思わざるを得ない事ばかりだ。前提条件を示しても、彼らが上官に報告する時はその前提は捨てている。


アルコールの生産、コメの増産、誠に結構な話ばかりだ。然し現在の困難な問題は捨てて下僚の責任とし、現実を忘れた机上計画を並べ立て、企業に権威ある人の出した事業の案を無視して、作戦の資料にしているに過ぎない。

今から思えば無根の戦果を宣伝し、われわれの仕事に対する判断を誤らしめている。

これは軍人そのものの性格ではない。日本陸軍を貫いている或る何かの力が軍人にこうした組織や行動をとらしめているのだ。」



「何故日本は戦争をしなければならなかったのだろうか。今ここにいる非戦闘員達は何が故にこうして逃げ延びなければならないのだろうか。閣下の名案のため非戦闘員の女までが犠牲にされてるのではないか。

厳しかった訓練は前の渡河の時どういう役に立ったのだ。平原で女子供に教え込んだ竹槍は目的なく逃げるために必要であったのか。一体何のために山の中へ遁入するのだ。

敵と斬り違えて死ぬ程闘う部隊は一つもいないで弱い者に威張って逃げ回るだけではないか。これでも未だ戦っている意味があるのだろうか。(略)

どうしてよいか自分にもわからないのが事実だ。子供の頃からの誤られた教育による意識が、本能的なものにまで食い入って、思考と行動との矛盾を解決できなくなってきているのではなかろうか。」

以上は「慮人日記」からの引用ではない。小松氏と非常によく似た境遇にあった国鉄の技師、小谷秀三氏の記述である。(略)

その著作が相互に読まれたことも全くないのに、その記述の中には不思議なぐらい、よく似た感想が記されている。(略)

そしてこのことには、二つの問題が提示されているであろう。

一つは、これらの潜在的意見_それがおそらく国民大多数の常識的意見だったわけだが_それがなぜ世論になりえなかったか、なぜそれが国の基本方針となり得なかったか、一言でいえば、なぜ常識が判断の基準になり得なかったか、ということ。


もう一つは、その事実がなぜ戦後に正確に知らされず、人々が戦前に対して普遍的な一つの虚像をもち、この虚像との対比において戦後を正当化するという、奇妙な状態に陥らざるを得なかったか、なぜ、戦前からの常識の延長線上にいると考え得なかったのかという問題である。」


〇今、安倍政権は「非常識な」やり方ばかりをしています。
にもかかわらず、なぜ今も安倍政権が続いているのか。

「なぜ常識が判断の基準になり得ないのか」

今も全く同じです。


「これは「敗因二十一カ条」の前文で小松氏が記している通り、「日本の敗因、それは初めから無理な戦いをしたからだと言えばそれにつきる」のであって、結局、問題の根本は、「なぜ、はじめから無理な戦いをする」結果になったか、という問題に戻って来る。」


「これは結局、すべてが歪曲されている、ということにほかならない。そしてこれを歪曲させているものが、小谷氏のいう「力」なのである。(略)


簡単にいえば、自分の実体を意識的に再把握していないから、「初めから無理な戦い」ができるわけである。」



「以上は簡単にいえば、終戦決定の報に接したときの軍司令官・参謀といった人々の「条件反射」的な態度である。いわば本心から(ということは通常性において)軍国主義でかたまり、軍人精神の権化で、神州不滅・尽忠報国で、敗戦ときいたらとたんに自殺しそうな言動をしていた人たちなのだが、この人たちが一瞬にしてがらりと変わった記録である。


第一、だれも驚かない、ということは心底では既定の事実だったわけである。

第二が、いまの秩序をそのまま維持し、責任を負うことなく特権だけは引き続き受けようという態度で、敗戦と言わず「我々は大命に拠り戦い、大命に依り戦いを終わるのだから軽はずみなことをするな」と訓示し、戦争および戦場における一切の責任を「大命」すなわち天皇に帰して、自己を免責にする。

第三がすぐ、私物の整理すなわち、自分のもっている物の確保で、そのためには、当然の義務である降伏に関する公務さえ放棄する。

第四が、その念頭にあるのは日本に帰った時の日常生活の事、「戦いの事はもうすっかり忘れたという態度で、東京にある家作の心配をしきりにしていた」というわけである。」



「私自身は、その人がどんな”思想”をもとうとその人の自由だと思うが、ただもし許されないことがあるなら、自己も信じない虚構を口にして、虚構の世界をつくりあげ、人々にそれを強制することであると思う。

簡単にいえば、日本の滅亡より自分の私物が心配なら軍人になるのをやめ、日本の運命より家作が心配なら、はっきりとそう言ってその言明にふさわしい行動をとればそれで十分だということである。


ただ明治以来、「ある力」に拘束され、これを「名言」しないことが当然視されてきた。いわば自分のもつ本当の基準は口にしてはならず、みな、心にもない虚構しか口にしない。

これは実に、戦前・戦後を通じている原則である。」


「戦後は「自由がありすぎる」などという。御冗談を!どこに自由と、それに基づく自由思考(フリーシンキング)と、それを多人数に行う自由な議論(フリー・トーキング)があるのか、それがないことは、一言でいえば、「日本にはまだ自由はない」ということであり、日本軍を貫いていたあの力が、未だにわれわれを拘束していると言う事である。」


〇 戦争中の話の苦しさと、今も戦前・戦後と全く同じ体質の私たち日本人の問題点を繰り返し指摘され、とても辛い内容でした。

でも、大勢の人々が読むべき本だと思いました。

これで、この本は終わりにします。