舞城王太郎著 「好き好き大好き超愛してる。」を読み始めました。
ちょっと頭の中を軽く明るくしたい気分です。
大好きだったのに、大人になって、読める本が無くなってしまった私にとって(つまり、難しい本は読めなくなって)、
舞城王太郎の本は、とっつきやすく、嬉しい本でした。
この、好き好き大好き超愛してる。も、題名がふざけているような印象のわりに、
読むと、こんなにも易しい言葉で、こんなにもシンプルに、こんなにもまじめに愛を語っている、と感心してしまいます。
最初の一言で、引き込まれてしまいます。
これって、すごいと思います。
詩と哲学は同じものを扱っている、と言っていたけれど、
この最初の言葉を読みながら、それを思い出しました。
「愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。
僕は世界中の全ての人たちが好きだ。名前を知ってる人、知らない人、これから知ることになる人、これからも知らずに終わる人、そういう人たちを皆愛している。なぜならうまくすれば僕とそういう人たちはとても仲良くなれるし、そういう可能性があるということで、僕にとっては皆を愛するに十分なのだ。
世界の全ての人々、皆の持つ僕との違いなんてもちろん僕はかまわない。人は皆違って当然だ。皆の欠点や失策や間違いについてすら僕は別にどうでもいい。何かの偶然で知り合いになれる、ひょっとしたら友達になれる、もしかすると、お互いにとても大事な存在になれる、そういう可能性があるということで、僕は僕以外の人全員のことが好きなのだ。
一人一人、知り合えばさらに、個別に愛することができる。僕たちはたまたまお互いのことを知らないけれど、知り合ったら、うまくすれば、もしかすると、さらに深く強く愛し合えるのだ。僕はだから、皆のために祈る。祈りはそのまま、愛なのだ。
祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願う。希望を持つ。
祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇蹟を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕達が祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇蹟を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。」
〇出版されて、多分すぐに、この本を読んで、すごく好きだと思いました。
でも、それ以来、もう一度読む、ということはしませんでした。
13年たち、この最初の言葉で、やっぱり、胸が熱くなり、涙が滲みます。
読むたびにそうなるって、どういうことなんだろう、って不思議です。