〇 正直、記憶とか印象とかって、こんなにも実際と違っているのか…と
びっくりしています。
私の中で、この「好き好き大好き超愛してる。」のストーリーは、病気で苦しむ恋人に寄り添う主人公の物語、として記憶されていました。
そして、その病気というのが、不思議な病気で、身体が光り輝く症状になる。
読み始めると、確かにその記憶に間違いはなく、その通りだったのですが、
違っていたのは、こんな短編だったっけ?ということです。
印象の中では、もっと読みごたえがある、長編だったような気がしていました。
短編でも、印象深かったから、そうなったのでしょうけれど。
そして、その後に続く物語の記憶が全くありませんでした。
本って、こういうものなんだ、とあらためて思いました。
全く、別のものを受け取る時間になっています。
「知衣子の身体を生暖かくいたわっている場合じゃない。易しく扱っているうちに智衣子は死んでしまうだろう。」
「それ結局巧也の気持ちの話でしょ?巧也が私にどうしてほしいかって話でしょ?だからそれが他人事で、嫌なんだって、私、あのね、私の腕とか、例えばなくなったとして、ひょっとしたら、それで私、私じゃなくなっちゃうかもよ?腕がなくなる前となくなった後で、全然違った人になっちゃうかもよ?」
「医者は光るASMAよりも、まずは光らない比較的新しいASMAから優先的に取り除いてくれる。眩しく光って身体の内側から体内を照らしてくれるASMAの明かりに智衣子が少しだけ慰められているのを知っているからだ。美しさは、それが自分を殺すものであっても、魅了する。」
〇最近は、ずっと「東洋的な見方」とか「日本人とは?」とか考えているせいか、
ここを読みながらも、そんなことを考えてしまいました。
病気の智衣子がいる。その病気は複雑な病気で、簡単に治療できるようなものではない。その時に、何をどう考えるのか。
以前、同じ舞城王太郎の「山ん中獅見朋成雄」のお話で、その中の「優先順位」が好きだ、と書いたことがありました。
何をどう考えるか、一瞬で一番大事にしなければならないものを考え、決断し、行動していく、その行動力を伴う、優先順位の付け方がすごく好きだと思いました。
でも、ここでは、それが揺らいでいるように見えます。
ただ、命を救うことが大事なのか。智衣子の美しさが失われるとしても?
命=存在が何よりも大事で、その解決のために一直線に手段を考える、ということではない(=合理的ではない)、もっと情緒的なものに焦点があたっているような気がしました。
その印象は、次の「柿緒」にも感じました。
「僕は本当は柿緒に死なないでくれと泣いてすがりたかったんだ。病気のまんまでもいい、辛い思いが続いてもいい、痛くて苦しんで泣いたり喚いたりひどい有り様でも何でもいいから、そんなの我慢して生き続けてほしいと、自分勝手なことを頼みたかったんだ。」
その意味では、とても、日本的なものに感じました。
何をもって日本的だというのか、というと、
あの山本七平「空気の研究」の中にあった、この言葉を思い出しました。
「感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言でいえば、それをしないと、「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。
聖書学者の塚本虎二先生は、「日本人の親切」という、非常に面白い随想を書いておられる。氏が若い頃下宿しておられた家の老人は、大変に親切な人で、寒中にあまりに寒かろうと思って、ヒヨコにお湯をのませた、そしてヒヨコを全部殺してしまった。そして塚本先生は「君、笑ってはいけない、日本人の親切とはこういうものだ」と記されている。」
つまり、一歩間違えば、危うく見える情緒的なものが見え隠れしているような気がしました。
以前は、そんなこと、全く考えず読みました。今回は多分、あまりにも「東洋的な見方」「日本的な気質」に頭が占領され過ぎているのだと思います。
でも、そう思いました。
そして、正直に言うと、あの智衣子の身体が光り輝くイメージそのままに、
「病」でありながらも、その危うさに、趣がある、と感じるのは、やっぱり私の中にも、その危なっかしい「日本人的な世界」があるのだろうな、と思いました。