読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

好き好き大好き超愛してる。

〇 やはり、この小説はとても読みごたえがあるし、好きな小説だと、心から思いました。

先日、こんな短編だったっけ?と自分の記憶違いを不思議に思ったのですが、短編のように見えてはいるけれど、私のイメージの中では、一つの物語になっていたのだと思います。

今までのように、印象的な言葉を抜き書きしようとしても、簡単にはいきません。繋がり全部を書かなければ、その言葉がなぜ印象的な言葉になのかを説明できません。

そこで、抜き書きは、2~3か所にして、あとは、本当にただのメモにしたいと思います。


「見る者の目にはその者の欲しいもの、望むもの、期待するものとして映る身体を持たない神との戦いとはそういうものなのだ。人は本当には死なない。違うもの、あるいは良く知らないものになる。そしてそれらは大抵、僕らの目に美しい。夜シミだってゴツゴツした岩になったんじゃなくて、紫色のグラデーションで光る怪しい宝石になったのだ。でもそれが死以外の何だろう?」

〇 これは、何を言おうとしてるのか…
わかるようなわからないような… まだよくわかりません。

「芸術」と「生身の人間」のことを言っているのか、イメージ(概念)と実際の物事について行っているのか。

ここで、作者がどういう意図で言ったのか、私にはわかりませんが、これは、とても大事な、というか、肝心なことを言ってるような気がします。

先日来、ずっと拘っている、「実際的な事」と「頭の中だけのこと」の違いのように、今の私は受け取りました。


「あのなあ。おめえ分かってねーようだからいってやるけど、真面目な顔してりゃ真面目なんじゃねーんだそ」「宇宙人とか魔法とかそんなことばっかり書いてて、それが真面目とは言えないだろ」「何言ってんだ知りもしないこと中途半端な想像だけで判断しやがってバカ。そういう宇宙人とか魔法とかを本気で信じてるのと一緒にするなよ。そういう、宇宙人とか魔法とかってのは、比喩みたいなもんなんんだよ。宇宙人とか魔法とか、そういうもんが表す何かが重要なんだよ」


「宇宙人とか魔法とか、そんな子供騙しくせーもんがいったい何表すんだって」「子供臭い何かを表すんだよ」「……?」「ないもんをないとして諦める前の、ないけどあったらいいよな、とか、あったら困るよな、とかそういうことを思える気持ちとか、そういうふうに思う奴がいる世界を僕は小説ん中に持ち込んでんだよ。って言うのは、まあ例えばだけど」


〇 ああ、いいなぁと思いました。


「とは言え時々僕も、もうこの世にいない女の子に、いくら誓いを立てたからって、縛られるのは良くないぞ、なんて思ったりもする。何しろその誓いはそもそもやぶるつもりでたてたのだ。そうだ。いつ僕は柿緒を裏切ってもいいのだ。

でもそうしない。まだ。


僕は柿緒を愛し過ぎるほど愛してみせる。間違っているほど愛してみせる。自分の人生を台無しにしてもいいとバカみたいに思うようにしている。それでいい。

パスカルは言った。

愛し過ぎていないなら、十分に愛していないのだ。


僕は一人で小説を書いている。女の子をふったりもする。バカだなと思う。でもバカでいい。間違いばかりでいい。

愛し過ぎるというのはそういうことなのだ。そしてそれぐらいで、人を愛するにはちょうどなのだ。」


〇最初の「愛は祈りだ」で涙が出て、この最後の「そしてそれぐらいで、人を愛するにはちょうどなのだ」で涙が出ました。

作り笑いやウソ泣きでは、「本当に生きてる」ような気がしません。
実際にその時、こみ上げてくる笑いや涙で、私は今を生きています。

じゃあ、その笑いや涙はどこから来るか、というと、一般論や善悪や、損得ではない、もっと「人間という動物」の動物的なものから来ると思うのです。

その動物的なものって、じゃあ何か、というと多分、半分は野生の動物で、半分は「頭の中だけのきれいなもの」がミックスした、「人間という動物」としか言い表せないものから来るんだろうな、と思います。

ただ、「動物」ってだけのものも、ただ、「頭だけのきれいなものを追ってる人間」ってだけのものも、あまり興味がありません。


本質は「野生」で、でも、頭(精神)を持ってる動物だから、こうなるんだ、という「人間」のミックス具合を表現しているものに、興味があります。

まさに、この舞城王太郎は、そういう作家で、そこが好きなのです。

好き好き大好き超愛してる。」という題名、いかにもふざけているようで、さすがに、これは、ふざけ過ぎじゃないの?という印象はありました。

でも、これは、前回、読んだ時もちゃんとそう思ったのかな…。
案外、前回読んだ時は、色々忙しくて、読み飛ばして、いいなぁ、と思っただけで、
そこまで、考えなかったのかもしれませんが、

ここには、ちゃんと意図があったんですね。

「超」という、「愛し過ぎて」こそ、やっと人間が愛せるのだ、という気持ちを
表現したかったんだろうな、ということが一点。

そして、もう一点は、「間違ったり」「人がどう思うかは、どうでもよい」という気持ちで、愛するんだ、という気持ちをまさに、このふざけた題名をつけることで、実践してる感じがします。

とっても、そこが素敵だなぁと思います。

あと、15年たったら、また読み返してみたいと思います。♪