「日本の天皇制をこのような存在として見ると、その在り方を、日本人の心性と結びつけてよく理解することが出来るように思う。
歴史をふりかえってみると、天皇は第一人者ではあるが、権力者ではない、という不思議な在り様が、日本全体の平和の維持にうまく作用してきていることが認められるのである。」
なお、これらの中心への侵入を企てる人々が、自分達の行為を正当化する論理として、外敵の侵入を防ぐために、われわれは強力になるべきだという「侵入」のイメージを用いることが多いのは極めて興味深いことである。
この人たちは外敵の侵入の可能性を、本当にどの程度にまで信じているのか、あるいは、それをどの程度にまで立証して見せられるのかについて、われわれはよく知らねばならない。
天皇制について、それを西洋にかつてあった絶対君主制と同質のものとして捉え、単純に廃止を主張するのもどうかと筆者は思っている。今まで述べてきたような日本人の特性との関連において、この問題を論じることが必要であろう。」
〇この題名の文章は、1981年に中央公論に載ったものです。
その頃から、既に、「外敵の侵入」を叫び、「われわれは強力になるべきだ」といい、天皇の中心性を利用しようとしているものの存在が指摘されていた、ということです。
私たちの国では、常に常に、今と同じような危機の中にあった、ということなのだ、
とあらためて思いました。
北朝鮮の脅威を煽り、交戦権を承認させようとしています。
今、この安倍政権に屈して、この脅威を乗り越えられない、ということは、この河合隼雄さんはじめ、多くの人々が、この国の危うさを叫び続けて来た努力を踏みにじることです。愚かな戦前の愚を繰り返すことです。
「つまり、筆者が専門とする分野でいえば、既に示したように、暴力をふるう少年たちや、無気力に陥る学生たちによって表現されるように_彼らはそれに対して無意識ではあるが_強力な父性の出現が望まれているのである。
同じようなことが、外交や政治などのレベルにおいては、日本の軍備、防衛をどのように扱うかという点で、諸外国、特にアメリカから、日本の父性的態度の確立を迫られている、と言うべきであろう。
そしてこのような父性は、既に明らかにしてきたように、日本的中空構造に包含されているような父性とは次元を異にするものであり、中空構造それ自体をも破壊するほどのものなのである。
そのような認識をもたず、中空構造の中心に、日本的な低い父性を据えようとすることは、まったくナンセンスであり、このような安易な父権復興論に対しては、われわれは強力な反対を示さねばならない。
それではどうすれがよいのかとなると、そこには名案も近道もないことを、先ず認識すべきではなかろうか。おそらくこれに対するある程度の答えを出すのに、百年くらいはかかるであろうと筆者は考えている。
現在に生きるわれわれとしては、その発見に至るプロセスに出来る限り参画することによって満足すべきであろうが、その手段として、われわれは「意識化への努力」と言うことをあげるべきであろう。
中空構造が対立物の微妙なバランスの上に成立しているためもあって、われわれ日本人はすべてのことを言語的に明確にすることを嫌う傾向をもつ。
日本語そのものがそのような特性をもつことは、多くの先賢が指摘しているところであるが、すべてをどこかで曖昧にし、非言語的了解によって全体がまとまってゆく。(略)
言語によって事象を明確に把握し意識化すること、このことこそ既に述べてきた西洋的な父性の中核に在ることと言ってよいのではなかろうか。
従って、意識化の努力をすることこそ、父性を取り入れてゆく重要な課題と取り組むことになるのだが、それを急ぎ過ぎることは、日本の良さを破壊することになるというジレンマをわれわれはよく知っておく必要がある。」
〇山本氏が私たち日本人は、敗戦と同時に瞬時に民主主義を受け入れるようになり、空気によって、あっという間にその考え方まで変わってしまう国民性だと言いました。そして、その空気によって、変わってしまう「体質」は今も同じように続いている、と言いました。
実際、これまで、私たちの国は、民主主義国家だと思っていましたが、
今や、安倍政権により、マスコミは、本来のジャーナリズムを失い、
言論統制いが行われているかのようになっています。
籠池氏の不法拘留を追求するマスコミがなぜないのか。伊藤詩織さんをレイプした犯人と安倍首相の関りについて、マスコミはなぜ沈黙しているのか。
こんなにも、脆く、崩れてしまった民主主義。それにも関わらず、私たちの社会は、平然と何もなかったかのように回っている。すごく、おかしいと思います。
結局、民主主義など、少しも根付いていなかったのだと思います。
ここで、河合氏が、私たち日本国民に、父性が確立されるには百年かかる、と言ってる意味が、とても良くわかります。
しかも、努力して、意識化して、頑張らなければ、おそらくいつまでたっても、
父性的態度は確立されない、ということなのだと思います。