「「Voice」誌は昭和56年1月号において、「交戦権を放棄して平和が守れるか」という表題で、江藤淳氏の「交戦権不承認が日本を拘束している」という基調報告および、それに対する各分野の専門家のコメントを掲載している。」
「江藤氏の憲法問題に取り組む姿勢は前述のような点において共感するのであるが、その結論に対しては急ぎ過ぎの感を持たざるを得ない。
それは、筆者の論法に従えば、西洋的父性を日本的中空構造の中心に据えようとするものであって、下手をすると、西洋の真似をするだけであるし、日本人の現状から考えても不可能なことでもあろう。(略)
西洋的父性の重要性を知る筆者としては、それらの説にただ反対を唱える気はしないが、そのような父性の論理による提言に唱和し、軍備拡張や会見を主張する多数の人々は、西洋的父性の著しく欠如する、日本的父性礼賛者、もしくは、日本的母性社会の闘士たちである点に、危惧の念を感じざるを得ないのである。」
〇ここを読み、私の中にあった矛盾のようなものの正体は、これだったのだ、と目からウロコ、でした。
私も、昔、日本は、きちんと交戦を想定した憲法にすべきだと思いました。
ちょうど、3.11で、「原発事故などありえない」としていたため、想定外のことが起こり、とんでもない状況になったように、人間社会は、戦争を想定しないでいられるほど、のんきな社会ではないのに、なぜ、その想定をしないのか、と思ったのです。
戦争は、絶対にしては、いけない。でも、その想定をし、被害が最小になるように、考えておくのが、普通ではないかと。
でも、あの3.11で、考えが完全に変わりました。
「あの人たち」が日本を動かしているのだ、と。「あの人たち」に戦争をする理由を与えては、絶対にならない!!と。
それを、論理的にどう説明すればよいのか、うまく説明できませんでしたが、
つまり、この河合氏がいうように、
あの人たちは「西洋的父性の著しく欠如する、日本的父性礼賛者、もしくは、日本的母性社会の闘士たちである点に、危惧の念を感じざるを得ないのである。」
という状況なのです。
せめて、その危険性をしっかり認識すべきだと思います。
「つまり、西洋的論理によって張られた論陣について、その後に従う人はむしろ心情的保守派が多く、その相手はその逆となっているからである。
このようなことが生じる理由のひとつは、論争に用いられる論理が、日本人という存在全体から遊離していると言うことではなかろうか。
江藤氏の論は鋭いが、それは知的に高いものであっても、日本人という存在全体に関わるものとして生み出されてきたものと言えるであろうか。
江藤氏が、現在の日本人が使っている言葉の底の浅さを指摘されたことは真に卓見と思うが、それは占領軍による検閲や憲法などの具体的事実と結びつけられるべきではなく、日本人自身が今、どのような言語を用いるべきかに深い迷いをもっているからであると考えるべきではなかろうか。
つまり、筆者の表現でいえば、日本的中空構造によることもできず、さりとて、西洋の父性中心の構造によることもできない。日本的なものを深く掘り下げようとしても、そこに見いだされるものは文字通りの無であり、言葉を失った状態にあるのが、現在の日本の状況ではなかろうか。」
「西洋的な目によって批判するのではなく、日本の現状をともかく的確に把握する。このことからこそ新しい道が拓けるのではなかろうか。」
「われわれのなすべきことは、現在の日本における父性の弱さを認識するとしても、すぐに西洋的な父性にジャンプするのでもなく、また、徴兵制といった制度に頼ることによって自らの父性の弱さをカバーしようとするのでもなく、個々人が自分の状態を明確に意識化する努力をこそ積み上げるべきであろう。
これは遠回りのように見えて、実は最善の道と考えられるものである。そのような意識化の努力の過程において、中空構造のモデルは、ひとつの手がかりを与えてくれるものとなるであろう。」
〇この本を読んで良かったと思います。
山本七平の本を読んで、問題点には気づいても、結局それが日本人の体質なのだ、となると、もうどうしようもないような気持になります。
でも、この河合氏は、その危機的な問題の本質について教えてくれました。
ただ曖昧に笑ってなんとか平穏にまとまっていることだけをよしとしていてはいけない。意識化の努力をしなけれがならない。
もう、二度と、空気によって騙されてはいけない。戦前と同じ過ちを繰り返してはならないと思います。