「先に水中出産と火中出産を対比したとき、前者においては、高天原にいたイザナキが根の国という低いところとの接触によって子どもを生み、後者においては、コノハナサクヤヒメという中つ国の住人が、高所より降臨してきたニニギとの接触によって子どもを生んだ、という巧妙な類比関係の存在を指摘しておいた。
これは日本神話の全体にわたって見られる顕著な傾向なのである。」
〇この対比ということについて、私自身の感想を言ってみます。
とても自然に受け入れられる、という感じがあります。
というのも、「私を包み生かしているのもは、大自然だ」という感覚がまず何よりも大きくあるので、この大自然の中に在る、良いもの(人間にとって都合の良いもの)も、悪いものも、どちらも自分を育てるためには必要なものに違いない、という「大自然」を礼賛する気持ちがあるのです。
例え雨でも、晴れでも、私自身にはその意味が理解できないものであっても、
多分、私に必要なものとして、ここにあるのだろう、という大前提の中で、生かされている、という感覚があるからだと思います。
そういう意味では、善とか悪とか言えない、というのは、とてもわかります。
「ところが、アマテラスとスサノヲの関係はそれほど明白でも単純でもない。
スサノヲが天上にいるアマテラスを訪ねて来たとき、それを自分の国を奪おうと誤解したのはアマテラスであり、どちらの心が清明であるかを見るために行った誓いにおいては、スサノヲの方が勝っているのである。
その後、スサノヲが乱暴をはたらき、天界を追われるが、彼はそこで抹殺されてしまうどころか、文化英雄となって出雲の国で活躍するのである。」
「つまり、何かを中心におくかのように見えながら、その次にそれと対立するものによってバランスを回復し、中心の空性を守るという現象が繰り返し繰り返し日本神話に生じているのである。」
「(略)男性原理はものごとを切断する機能を主とし、切断によって分類されたものごとを明確にする。
女性原理は、結合し融合する機能を主とし、ものごとを全体のなかに包み込んでゆく。
西欧のシンボリズムにおいては、男性_太陽_精神_能動、女性_月_肉体_受動と言ったような対応的な二つの軸によって、あらゆる事象が秩序づけられるような考え方が存在している。」
「このように考えると、イザナキ・イザナミの結婚において、男性が先に言葉を発することを善とすることで、男性の優位を示しているようだが、ヒルコを廃してヒルメを立てるところは、むしろ女性原理の優位を感じさせる。
つまり、どちらか一方が優位になってしまうことはなく、必ずその後にカウンターバランス作用が生じるのである。」
〇 ここを読みながら思ったのは…
例えば、自分が子供で、「親や仲間の教え」=規範に沿って、行動しようとした場合、自分はどうするだろうか?ということです。
良い子でありたい自分は、多分親はどう思うか?と考え、次に仲間はどうか?と考え、つまり、人々の顔色を見、空気を読んで、一体、今、自分はどっちについて行動したらよいのだろう、と思うと思います。
ここに、日本人の「基礎付け」があるとしたら、やはり、これを変えるのは、並大抵のことではない、と感じます。
「つまり、既に明らかにしたように、日本の神話では、正・反・合という止揚の過程ではなく、正と反は巧妙な対立と融和を繰り返しつつ、あくまで「合」に達することがない。
あくまでも、正と反の変化が続くのである。つまり、西洋的な弁証法の論理においては、直線的な発展のモデルが考えられるのに対して、日本の中空巡回形式においては、正と反との巡回を通じて、中心の空性を体得するような円環的な論理構造になっていると考えられる。」
〇 ふと思ったのですが、大自然が自分を育み育ててくれている、と思うとき、
その環境は、わからないことだらけ、理不尽なことだらけです。
それをわかろうとすること自体が、おこがましい事に感じます。
ある種の無力感の中で、ただ今を生きる…。
自然の中に在る、鳥や虫や動物たちが、明日をも知れぬ命を生きて死んでいくのに習って、自分も生きる…。
そこに至って、初めて諦めのような気持が生まれ、心の落ち着きが得られるのかもしれない、という気はします。
仏教についてもキリスト教についても、それほどよく知らないのですが、
仏教の教えを突き詰めていくと、「いかにうまく諦めるようになるか」に
行きつくような気がします。
キリスト教の教えを突き詰めていくと、「愛するための努力をどれほどするか」に
行きつくような気がします。
諦めるために頑張る人と、愛するために頑張る人とでは、生き方も違ってくるような気がします。
どちらのことも良く知らない、凡人の感想です。