読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

中空構造日本の深層(※ 「うさぎ穴」の意味するもの)

「それにしても、1865年よりももっと以前、つまり、「昔々」の時代には、うさぎ穴の世界もこの世も入り混じっていたように感じられる。そんなときに、人々は今よりは、はるかに自然と密着した生活をしていたのであろう。

ところが、西洋に発展した自然科学は、そのような世界をこの世から、だんだんとよそに押しやって、「うさぎ穴」に出入りできる特別な人だけが、そこの世界へ行けるようになったように思われる。」


「「人間にとって大切な「個」としての感情を強めるには、その人が守ることを誓った秘密を持つことが一番いい方法である」と精神療法家ユングは、その「自伝」の中で述べている。」




「しかし、考えてみると、このような自然科学の知識は、人間というものがどうして生まれてくるかを説明するものではあっても、トム・ロングという個人が、どうして他ならぬトム。ロングとして、この時この場所に存在することになったかを説明してくれるものではない。


私という人間が他ならぬ私として存在するという確信をもつこと、言い換えると、私という人間が生きてゆく「意味」を見出すこと、これについては自然科学は解答を与えてくれず、各人は各人にふさわしい方法で、それを見出さねばならない。

つまり、個人は各自にかけがえのないものとしての秘密を持たねばならない。」



「生きることの意味などというものは、言語や論理によって簡単に説明し得るものではない。」


「換言すると、日常の世界から非日常の世界へと通じる「通路」が設定されているわけであるが、この点について、上野瞭は児童文学についての興味深い評論の中で、「物語の中の「通路」が、信仰の退潮と相前後して生まれてきた」と指摘している。


上野は1863年のチャールズ・キングスレイによる「水の子」を例にとり、そこに、「信仰退潮の現実世界と信仰の世界」という二つの分科した世界の存在を指摘し、それを結ぶ「通路」の必要性を論じている。

このような言い方は、下手をすると、「うさぎ穴」の世界が信仰の、従って、神の世界であるという錯覚を起こさせるのではないだろうか。

筆者もそれが深い意味における「宗教性」と関連する世界であることを認めるものである。しかし、それは神の世界であると同時に悪魔の世界でもあると思うのだ。」



「結局は同じことだと言われそうだが、西洋における信仰の世界は、こちらで想像しているほど簡単に「退潮」して行ったのではないように思われる。

合理主義はむしろ、プロテスタンティズムと結びついて、それは信仰を失うどころか、むしろ、違った意味でそれを強化したとも言えないだろうか。

プロテスタントの峻厳な教理は、西洋の世界の非神話化をもたらし、確かにそこには「信仰」は存在するが、非合理な魅惑をもたらすものは、あちらの世界へと追いやってしまったのではなかろうか。

つまり、こちらの世界にも信仰はあったのだ。しかし、それは「まやかし」を出来る限り排除した信仰であろうとしたのである。はたして、そんなことが可能であろうか。」



「合理化された世界が肥大し、非合理の世界などないのだとさえ思った時、そして、あちらの世界への通路をさえ断ち切ってしまった時、逆に、こちらの世界には大きい亀裂がはいり、あちらのものがこちらに知らぬ間に入り込んでしまっているのが、現在の状況ではなかろうか。それを、ル=グィンは見事に描いていると思われる。」


〇正直に言って、うさんくさいもの、まやかしっぽいものに、騙されるのが、とっても嫌でした。占いも、風水も、一種の余興のように、お遊びで見ることはあっても、本気で信じる気にはならなし、本当のことを言うと、宗教も、自分は絶対に信じないだろう、と思って生きてきました。

まさに、ここで河合氏が言う、「非合理の世界などない」と思っていた人間でした。
というより、今も、ほとんどの時間は、そう思って生きています。

ただ、実際問題として、自分が本当に苦しかった時、「祈る」しかなかったというのが現実で、その体験があるので、「祈る」という全く非合理なことで、力を与えられることがあるのだと、知っています。


「リヒターの「あのころはフリードリヒがいた」は、この世の、しかもつい最近のことを描いたものである。」


「しかし、このフリードリヒの話はどうであろうか。この話を読んで「こんなことは、あり得ないことだ」と感じる人が多いだろう。しかし、その「あり得ない」ことが、昔々ではなく、はっきりと特定し得る時に起こったのである。」


「カイヨワは、妖精物語と比較して、幻想的小説は、その中における超自然的なものが、「あり得ないことは起こり得ないということに定義によって決められている世界に突然起こった、あり得ないことなのである」と述べている。

フリードリヒの悲劇は、われわれに「あり得ないこと」という実感を与える。しかし、この話は妖精物語でも幻想的小説でもない。本当にあった現実世界の話である。」


「こんな点から考えると、あちらの世界の物語と、こちらの世界の物語を分類することさえ無意味なように思えるのである。」



「今まで述べてきた点から考えてみると、現在では、はじめに「うさぎ穴」の世界として記述した世界は、どこかに「他界」として存在するのではなく、むしろ、この世と混然一体としているのではないかと思われる。

それも、「昔々」の時代とは異なって、多くの人は、そのようなことに気づかずにいるのだが、「うさぎ穴」の世界を見ることのできる人にとってだけ、それが見えるのではないかとさえ思われる。」


「ここまで書いてきて、筆者にはっきりと解ったことは、「うさぎ穴」とは、トムやモモたちのように、真実を見る力をもった透徹した「子供の目」ではないか、ということである。」


鶴見俊輔は、筆者と同様の論点に立ってのことと考えられるが、「毎日の責務の中にうずもれている、働き者の会社員こそ、少年少女小説を通勤電車の中で読むのにふさわしい。
そういう時代が、もう鼻の先まで来ているように、私には思われる」と述べている。


透徹した「子供の目」を通して見た「うさぎ穴」を描いた文学が、老若男女を問わず、すべての人々に読まれるようになることを願って、筆をおくことにしたい。」