「女性にとって男性的なものはやはり恐ろしいものでしょう。あまり受け入れるとつまはじきされるようになるかも知れない。
しかし、女性がその内面において男性的なものをある程度身につけることは非常に強力なことでして、現在の日本の女性の中にはそういう男性的なものを身につけている方はたくさんおられますし、身につけるために文化講演を聞きに来る人もおられます。
だから女性が男性をどこまで受け入れるかという点から考えると、西洋の場合は、獣がまったく変身して王子となって受け入れられるということが起こっている。
日本人の場合、そこは非常にアンビバレントになっているというか、迷いがあるわけで、神聖なものでそれは受け入れられないが、せめてその子供ぐらいは大切にする。
夫のほうはちょっとおいておいて、生まれてきた子どもの男性性は受け入れる。そうでなければいっそのこと殺してしまう。つまり私は女として生きるのであって、男性的なものは受け付けないということになる。」
「異類女房」に分類されているのは、蛇女房、蛙女房,蛤女房、魚女房、竜宮女房、鶴女房、狐女房、猫女房、天人女房とか笛吹女房とありますが、これらの話のほとんど全部、最後は男女の別れになります。」
「こういうのを見ますと、日本人というのは、男性と女性の結合による完成よりは、完成するはずのものが別れて立ち去っていくところに美しさを見出そうとしたのではないかという気がします。
この立ち去る、消え去ることの美しさというのが、日本人にとっては美意識と結びつくのではないかと思います。」
〇「立ち去る、消え去る」美しさを望んだ、というよりは、立ち去らずにはいられない、消え去らざるを得ない、という気持ちの方が大きくて、どうしても、そうなってしまうので、そのことを後から美しく正当化しているように、私には思えます。
と、言うのも、私自身が、「立ち去らざるを得ない」気持ちになるタイプだからです。
例えば、好きになった人がいると、その人と付き合うと、自分も見せなければならず、相手のことも見なければならず、「濃密な」人間関係になります。
それが、苦手なのです。
好きになって付き合う、となるところまでは、嬉しいのですが、実際に付き合うと、
自分の「アラ」や「ボロ」がはっきり見えてしまいます。
しかも、私自身、拘り症なので、軽く、粋に、サラリと付き合うということが
出来ません。
相当に、所謂「重い女」になります。
そんなキャラなので、ある程度「付き合う」と、本能的に逃げたくなります。
そうすると、自分のきれいなところだけを見せて、イイ感じの人、ということでその人の記憶の中に残ることが出来ます。
これは、多分「対人恐怖症」の症状ではないかと思います。
そして、「立ち去る」と、あとの苦しい努力が必要なくなるのです。
人間関係が濃密になって、欠点がしっかりわかり、様々な感情的な行き違いの歴史も積み重なった後、それにも関わらず、仲良く明るく楽しく一緒にやって行くためには、相当の努力が必要になります。
それよりも、簡単に投げ出して、その努力から逃げ出した方が、楽です。
水に流して、何も考えず、リセットして次に進むのです。
私は、自分の中の「立ち去りたい」願望をそう理解していました。
日本人には、対人恐怖的な人が多いと聞いたことがあります。
それで、そうなのかな、と思いました。
また、周りの人から聞くのは、一番好きな人とは結婚しない方がいい、という感覚です。
私の父がそうでした。夫もそうです(^-^;
そして、結果として、長男もそうなりました。
義母も、義父は自分をそういう基準で選んだ、と言ってました。
多分、本当に好きになると、その人との濃密な関係が怖くなるのでは?と思うのですが。
「日本人を動かしている非常に大きい原動力は、立ち去るものの哀れさと、立ち去ったものの恨みであるとさえ言うことが出来ます。日本の文学の中でこの二つは重要な役割を果たしているように思います。」
〇ここで、また「好き好き大好き超愛してる。」を持ちだしてしまうのですが、
あの、「間違ってもいい。人目を気にしない。」というスタンス、もしそれが相手にあると心から信じられたら、そして、自分もそうあろう、と相手に対して心から思えるほどに「超愛していたら」、一生に一度くらい、その困難で立ち去りたくなる「濃密な人間関係」を築くことにチャレンジする気になれるのでは?、と私は思いました。
だから、あの最後の言葉を読んで、私は涙が出ました。
「ここでもう少し付け加えますと、男性と女性が結合するのは、ただ性的に結合して子供が生まれるというだけでしたら、これはすべての動物がやっていることですから、何も別に大したことではないのです。(略)
単なる肉体的結合ではなくて、私が言いましたような象徴的なレベルで、男性によって表されるもの、女性によって表されるもの、こういうものが統合するというふうに考えますと、これは非常に高い意味を持つのではないかと思うのです。
そういうふうな意味を日本人はあまり大事にしなかったと考えられます。」