読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

中空構造日本の深層(※ 偽英雄を生み出した「神話」_映画「ヒトラー」を見る)

「無秩序の状態に秩序を回復し、絶望する人々に希望を与えるものは救世主である。しかしながら、この「ヒトラー」の映画ほど「秩序」と「希望」の恐ろしさをドキュメントとして見せてくれるものはない。」
 
 
 
ヒトラーが最初のクーデターに失敗し、それ以後に戦術を転換し、ソフトな面を前面に出してくるところも印象的であった。彼はこれまでとうって変わって、子どもたちと握手したり、にこやかにサインをしたりのサービスに努める。
 
首相になってからの彼は、一方で突撃隊などによるユダヤ人の迫害などを容認するが、一方では、民衆の心を歌や踊りでひきつけてゆく。」
 
 
「映画を見て強く感じることは、ヒトラーおよびドイツ国民を動かすものとして、背後に神話が存在していることである。
 
 
ヒトラーはその神話の存在と意義について、おそらく深い自覚はなかったであろう。ともかく、彼は神話にふさわしい道具立てや演出を好んだ。
 
 
夜空に映えて続くたいまつの行進は、神秘的な効果をもたらせる。彼の好みのワーグナーの音楽は神話的雰囲気をもたらすのにまさに適切なものであった。
 
 
ヒトラー自身に意識されたテーマは、「世界に冠たるドイツの国」であり、彼の理想とする「新人類」の創造であろう。」
 
 
「1936年、ヒトラーベルサイユ条約を破り、徴兵をして再軍備を行ない、ラインラントに進駐をこころみた頃、スイスの精神医学者のユングは、ヒトラーの背後に存在する北欧の神ヴォータンについて言及している。
 
 
「もしわれわれがいま、キリスト教歴1936年にあることを瞬時忘れるとするならば、そしてこの世界が経済的、政治的、心理学的なファクターで合理的に説明できるという現代的な確信をしばし措くならば、そしてさらに、この人間的な、あまりに人間的な善意の合理主義を傍へのけて、人間の代わりに神ないし神々に現代の状況への責任を負わせるとしたら_、そのときおそらくヴォータンほど、因果仮説としてうまくあてはまる神はないだろう。
 
 
未だ汲みつくされたことのない、底知れぬ性格を帯びた老ヴォータンは、先に挙げた三つの合理的な要素を合わせた以上に、ナチズムというものをうまく説明している_かかる異端の主張さえ私はあえてしたいのである。」
 
ヴォータンは北欧神話の主神であり、「嵐と狂奔の神であり、情熱と闘争心を解き放つ者であり、さらには優れた魔術師、幻覚の使い手」なのである。嵐と狂奔の神としてのヴォータンは、ゲルマン全土にわたって信じられている、嵐の夜にはヴォータンの軍団が山野を駆け抜けてゆくという伝説に示されている。
 
それは「怒り狂った軍団」であり、これこそナチスの軍団がヨーロッパ全土を駆け巡った姿にぴったりと思われる。ヴォータンはまた美男で雄弁であるとされた。彼が言うことは何でも、それを耳にする者にとっては真実のように思われるという。」
 
 
〇嵐は自然現象で、人間の力ではどうしようもない。それを神の働きとして受け入れれば、人間の責任も、どこか免除されるイメージになる。
 
ヒトラーの凶行の背後に神話があったので、このようなことが起こってしまった、という説明は納得できる。
 
今、日本の安倍政権は、意図的にその神話を使おうとしているように見える。
日本会議」で、日本神道の力を蘇らせ、天皇を担ぎ、神話を復活させようとしているかのように見える。あの菅官房長官が、何かの折に、「神風がないとは言えない」と言ったのを聞いたとき、耳を疑った。
 
最近、コンビニに並ぶ雑誌類を何気なく見ていたら、「古事記」と「日本神道」という単行本風の本が置かれていた。本気で、「戦前」に戻そうとしている勢力があるのをヒシヒシと感じた。
 
でも、あの3.11で四号機が危機に陥り、一歩間違えば、国土の半分は人間が住めない所になったという話を聞いた時、それが起こらなかったのは、まさに運が良かったということ以外の何ものでもなく、私も内心「神風だ」と思った。
 
そんなことは、誰にも言ったことはないけれど、心の底では思った。
 
つまり、人間って、そういうことを思う動物なんだ、ということで、そのことを
無いことにして合理的な言動だけでやって行くことは出来ないと、認めるべきなのだ、とあの山本七平氏もこの河合氏も言ってるのだと思う。
 
ただ、神風だと思う事と、神風が吹くと吹聴して、その「神風が吹く日本国」という前提で、政治をするのは、まったく別の問題だと思う。
 
 
「特に女性たちは涙を流し、彼との握手を求めて殺到した。これらの画面から感じ取られることは、彼が首相とか指導者などというものではなく、救済者として大衆の前に立ち現れているということであった。
 
彼はまさにゲルマンの主神としてのイメージを体現していたのである。」
 
 
「われわれは、ヒトラーを他国に過去に存在した犯罪者_あるいはせいぜい怪物_として忘れ去っていいものであろうか。」
 
 
「シラケよりは英雄待望の方が望ましい、と思う人もあろう。しかし、その「英雄」は真の英雄でなければならない。
 
集団心理によって倫理性を希薄にされ、唯一の神話元型によって正当化された単層構造の集団の動きに対して、それがいかに凄まじいものであれ、せめてわが身ひとつの重みであれ、それに抗するものとして立ち向かうものこそが英雄ではないだろうか。
 
〇ここで思い浮かんだ人は、あの伊藤詩織さんです。
 
 
そして、前川喜平氏です。
 
 
 
そのとき、集団の動きに抗する個人を支えるものとして、その個人の内奥にいかなる神話が存在するかが問われることになろう。

このとき、われわれは合理精神のみによって戦えるものでないことは、ヒトラーの映画が如実に示してくれている。

 
このような強さをもつためには、われわれはもっとみずからの神話を探る努力を致さねばならないのではなかろうか。そして、われわれをあのいまわしい戦いに駆り立てた神話は一体なんであったかについても、もっと詳細な分析と検討が必要ではなかろうか。」

 
〇あの「日本はなぜ敗れるのか 敗因21か条」にあった、
 
第5、 精神的に弱かった
第16、 思想的に徹底したものがなかった
 
を思い出しました。
 
河合氏はこのような強さを持つためには、と言っていますが、それは、戦前の過ちを繰り返さない為には、と言い換えることもでき、私は今、切実にその強さが必要になっていると思います。
 
 
ヒトラーは偽物にしろ、大衆の心に内在する英雄像や救世主像を体現する要素をもっていた。しかし、日本の集団の上にそのような像があっただろうか。(略)
 
 
日本国民は個人としての導き手を欠いたままで、しかも一体となって戦争に参加したのだ。」
 
 
第二次世界大戦について、軍事、政治、経済などの合理的な側面の分析はなされたかの感さえあるが、その神話的側面については、特にわが国においてほとんどなされていないのではなかろうか。この分析を行うことによってこそ、現在不穏な動きを示しつつある偽英雄待望論を封じ込めることができるのではなかろうか。ヒトラーの現象をあまりにもよそごととしてはならないと思うのである。
 
〇この「偽英雄を生み出した「神話」」は、1978年に書かれています。
「現在不穏な動きを示しつつある偽英雄待望論」という状況は、ずっと続いていて、多くの人々の努力でそれを封じ込めていたのだと、わかりました。