読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

中空構造日本の深層(※ フィリピン人の母性原理_フィリピン人と日本人)

「調査団の中で、臨床心理学専攻のわれわれは、日本人の子供たちが異文化の中でどのように適応してゆくのか、あるいは、どのような適応困難を感じるのかを調査しつつ、不適応を起こしている子供やその家族に対して、心理学的な援助をする目的をもっていた。」


「誰であれフィリピン人に、彼らのもつ文化的な特質をたずねたとしたら、カトリック教国であること、デモクラシーの国であること、英語が広く使われていることの三点をあげるだろうことは、まず間違いのない所である。」


「それに人間というものは、常に付き合っている人よりは、一度だけ会った人の方に深い話をすることだってあるのである。」



「正直なところ白人優先的な感じ_日本人もそうだが_は存在し、日本人の中には、そういうことに憤慨する人もあった。これは身近な例えを用いると、彼らにとって、アメリカ人は怖いおやじであり、日本人はうらやましい兄弟ということになろうか。」



「日本人が全員一致の決定を好むことは、イザヤ・ベンダサンの指摘以来、われわれにとっては周知のことであるが、フィリピンではその程度がもう一つ上であると思うとよい。」


「そのときに、教授はアメリカ人は対人関係における不愉快さをしのんでも、はっきりとものを言うのに対して、フィリピン人は、ものごとを曖昧にしても、対人関係の円滑さの方を好む、つき合うときにお互いがその点を配慮すればうまくゆくのだが、と興味深い指摘をされた。」


「ところで、このウタン・ナ・ロオブはわが国で言えば、恩とか義理にあたり、ヒヤは恥にあたると考えられると言えば、フィリピン人の特性が日本人と非常に類似していると感じられることであろう。」



「そこで、古来の「美風」に価値観をおくならば、あるフィリピン人が率直に語ったように、日本人は工業的、経済的には素晴らしい発展を遂げてきたが、道徳的には極端に低下している、ということにもなってくる。」


「にもかかわらず、日本人だけがどうして、あのようにうまく近代化され、他の東洋人と異なる道を歩むことが出来たのか、それを知りたい。日本人は一体その秘密を自ら知っているのだろうか。自分でも知らずにいるのか、知っていながら、他の東洋人にはそれを隠しているのか、と言うのである。」



「母性原理に基づく生き方のひとつとして、「あきらめ」ということがある。現在の状況や未来に起きると予測される事象に対して、検討したり比較したりして、積極的にかかわってゆくのではなく、すべての事は、それはそれで何とかなるだろうと考える。

このような態度は、フィリピン人に非常に強く、これは彼らの好む、バハラナという言葉に反映されている。バハラナは日常的に用いられるとき、ずいぶんと広い意味をカバーしているように感じられるが、「その時はその時で、まあ何とかなるさ」ということになろうか。

言ってみれば、すべての事はバハラナで片付いてしまうわけである。」

〇この考え方は、実際私の周りの人々にもとても多いように感じます。

私にしても、それほど偉そうなことを言えるような人間ではないのですが、「あきらめ」というよりは、何もしたくない、考えたくないように見えます。


「(略)東洋の中で日本だけがどうして近代化にいち早く成功したのかということにつながって来る。これについては筆者は既に、日本は母性社会ではあるが、そこに「永遠の少年」的な様相が強く作用していると論じて来た。」


「彼はこの「イエモト制」を拡大解釈して日本の社会組織全般にあてはめるのだが、その特徴は、部分的には契約モデルに基礎をおきつつ、部分的には親族モデルにも基礎をもつ点であるとする。

つまり、ある特定集団への加入や離脱の決定が個人の意思に任されている点では契約モデルに従うようだが、集団内では年功序列制のようなヒエラルヒー的関係が恒久的になる傾向をもつ点で親族モデル的であると考えるのである。


これは筆者の述語で言えば、母性原理に対して父性原理を巧みに混入したとも言える制度であり、この点が、母性原理を親族間の関係の中に閉じ込めたままのフィリピンと日本とを明確に区別するものと考えられる。」


「日本の場合は、母性優位の人間関係を親族内に閉じ込めておかず、むしろ、社会組織に拡大する機構を持っていたため、近代的なものを受け入れるのが容易であった。」


「(略)日本人とフィリピン人を分ける決定的な要因に、内向と外向ということがあることであった。」

「日本人は何か悪いことがあると、その原因をすぐに内に向けて、「すみません」と言う。これに対して、フィリピンの人は外に方向付けるのではないか。」


「ある国際学生交流セミナーにおいて、日本の学生たちは東南アジアの発展のために、日本はいかに協力・援助すべきかを熱心に論じた。そこに参加していたタイ国の一留学生は、怒ったような口調で次のように言った。

自分達が日本から一番学びたいことは、明治維新以降、今日の近代国家・経済大国になるまでに、伝統と現代科学文明をどのように結びつけたのかということである。

「われわれの国は仏教国で、私も仏教を信仰している。近代化あるいは発展にとって仏教はマイナスだといわれても、自分は仏教を捨てるわけには行かない。といって、現代のタイには西欧科学文明がおそろしい速度で流れ込んでおり、それを押さえるわけにもいかないと思う。

われわれはこの二つをどう結び付けたらよいのか悩んでいる。日本の皆さんから教わりたいのは、このことだけだ」と。


これに対して、日本の学生たちは一人も何も答えられなかったという。これは、今日の日本の物質的な豊かさと真の意味における魂の貧困を如実に示している状況であると思う。


このような東南アジアの人々の魂の叫びにまったく耳を傾けることなく、ただ経済的な優位性によって、他国を援助したり、ときには支配したりしようとこころみるならば、われわれ日本人に対して、アニマルという蔑称を投げつけられたとしても、反論することはできないのではなかろうか。」

〇「この二つをどう結び付けたらよいのか」… 日本は多分、悩まずに、「まあなんとかなるさ」と何も考えずに、西洋科学を受け入れたのだと思います。

でも、願わくば、この経済的な豊かさの中で育った人々が貧しかったころの日本人よりも「大人で豊かな魂の」人間になり、その蓄積がまた次の日本人に受け継がれて、百年後には、経済だけでなく、人間性も豊かな日本人になっていくことが出来たら…と願っています。

「中空構造日本の深層」読み終わりました。
子育てで感じた疑問、民主主義が何故根付かないのか、
その答えが「日本は母性性社会」という河合氏の論理の中に見つかりました。