読んだ本のメモ

印象に残った言葉をメモします。

苦海浄土

「_水俣病のなんの、そげん見苦しか病気に、なんで俺がかかるか。
彼はいつもそう言っていたのだった。彼にとって水俣病などというものはありうべからざることであり、実際それはありうべからざることであり、見苦しいという彼の言葉は、水俣病事件への、この事件を創り出し、隠蔽し、無視し、忘れ去らせようとし、忘れつつある側が負わねばならぬ道義を、そちら側が棄て去ってかえりみない道義を、そのことによって死につつある無名の人間が、背負って放ったひとことであった。」



〇 できるだけ、原文の文字遣いで、メモしようとしてきたのですが、
PCの変換がうまくいかず、ストレスがたまり、時間ばかりかかるので、
意味が同じならば、原文と違う文字使いでもよいことにしました。

例えば、下の文章は、
原文:「座りこんでいる人びと」ですが、
メモ:「座り込んでいる人々」
になってしまいます。


「思いつめた沈黙を発して座り込んでいる人々が、押し立てているのぼり旗や、トマの旗には、
「俺たちの海を帰せ!」
「俺たちの借金を返せ!」
「工場排水を即時停止せよ!」
などと書いてあったが、なかでもきわ立ってまっさらな白い吹き流しに、
「国会議員団様大歓迎!!」


と大書した幾条もののぼりは追いつめられた漁民たちの心情をよく表わし、
のぼりの下には、白髪よぼよぼの老漁夫や、髪をのばしかけた少年漁夫や(彼は所在なさにモモ引きぱっちのポケットから、あの、ゴム銃を、雀や犬の尾っぽや鼻などをおどろかすあの、木の股にゴム紐をくっつけて小石をはじく玩具をとり出して遊んでいた)、


ネンネコの中でむずがる赤んぼをずりあげずりあげ、首をめぐらして口うつしに飴をしゃぶらしている主婦も交じり、地下足袋や、ゴム皮の草履をつっかけているものもあったが、男女に限らず、素足にすりきれた下駄ばきの者が多かった。」


〇一つの文章がメチャメチャ長い!


「ものいえばおとろしかごたる気のして、なるだけそっちを見らんごとして、気が急いて上陸したばってん、あげんした気色で水俣に上がったこたなかったばい。」

「長島の漁師たちは、かねがね、漁の休みに、
「百閒の港に、舟をよこわせとけば、なしてか知らんが、舟虫も、牡蠣もつかんど」
といいあっていたのである。」


「昭和二十七、八年頃から、水俣市を中心に、隣接、芦北郡津奈木村、湯浦、佐敷、そして鹿児島県出水、大口一帯の精米所に、糠が、麦の仕上げ糠がなくなった、という噂を、百姓たちが、笑い話にしていた。


鶏の飼料のことから、精米所の親方たちが、
「どういうもんじゃろ、この夏は、ボラがいっしょもおらんごとひんなっとるげなばい。そっであんた、網元の親方どんたちが、血眼になって、糠の買い占めしよるちゅう話ばい。

麦の仕上げ糠はもうどこをこさいだちゃ、いっちょもなか。そりゃあよかばってん、銭ばいっこう払うてくれんでな、困ったもんじゃが」
といっていたのである。」


水俣ばかりでなく、津奈木の漁師たちも、「今年のボラ漁では、糠の借金の上に、夏中の人間の食い扶持がそっくり借金になってしもうた。こういうことは、親の代からきいたこともなかったが、ボラはよそさね、移動したかねえ」などといぶかっていた。」


「その夜漁りに出て、眼鏡でのぞきなら、鉾突きをやるです。すると、海底のさかなどもが、おかしな泳ぎ方ばしよるですたい。


なんというか、あの、芝居で見る石見銀山、あれで殺す時なんかそら、小説にも書いてあるでしょうが、ほら、毒のまされてひっくり返るとき、何とかいうでっしょ。

テンテンなんとか、それそれ、そのテンテンハンソク。そんなようにして泳ぎよったです、魚どんが。

海の底の砂や、岩角に突き当たってですね、わが体ば、ひっくり返し、ひっくり返ししよっとですよ。おかしか泳ぎ方ばするね、と思いよりました。


そしてあんた、だれでん聞いてみなっせ。漁師ならだれでん見とるけん。百間の排水溝からですな、原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊りが、座布団くらいの大きさになって、流れて来る。そして、はだか瀬の方さね、流れてゆく。

あんたもうクシャミのでて。
はだか瀬ちゅうて、水俣湾に出入りする潮の道が、恋路島と、坊主ガ半島の間に通っとる。その潮の道さね、ぷかぷか浮いてゆくとですたい。

その道筋で、魚どんが、そげんしたふうに泳ぎよったな。そして、その油のごたる塊りが、鉾突きしよる肩やら、手やらにひっつくですどが。

何ちゅうか、きちゃきちゃするような、そいつがひっついたところの皮膚が、ちょろりとむけそうな、気色の悪かりよったばい、あれがひっつくと。急いで、じゃなかところの海水ばすくうて、洗いよりましたナ。

昼は見よらんだった。」


「うちの部落で死んだ大将は、打ち殺しても死なんごたる荒しか男じゃったですが。十一月二日のデモのときは、その大将が一番のりして、会社の正門にかけのぼり、会社が開けんのを内側に飛び降りて開けた男でしたが。(略)

それが、アウ、アウちいうて、モノもいいきらん赤子んごてなって、あの大将がころっと二週間ばかりでうっ死んだ。ショックじゃったばい。あげんして死んだちゃ情けなか。死んでも死にきれんじゃったろと思うたなあ_。かかも子もどげんなるな。こらもう、網売ってでも、土方してでも、生きとらにゃとおもうて。

もう魚は獲るみゃと思うたが、ここらあたりに銭仕事は無し。沖の方さね目はゆく。はがゆさ、はがゆさ。」



「網についてくるドベの具合からみて、漁民たちは、湾内の沈殿物は三メートルはある、と推測していたが、後にくる国会調査団も沈殿物を三メートルとしている。

この頃になると、湾内の死魚や生魚の浮上はさらにはなはだしく、月の浦方面の猫は、舞うて死ぬ、という噂は、かなりの市民が耳にするようになるのである。」



「_細川氏は_すでにその前年までに、数年を費やしてこの地方に散発するリケッチャ病の一種である線熱の疫学的研究を、熊大の河北教授とまとめたところであり、当然この地方で普通に起こる病気には精通していた。

したがって昭和二十九年に、最初の水俣病患者が 日窒病院に入院し死亡したときに、その症状が、これまでまったく知られなかったものであることをカルテに記載している。」



「当時、調査の結果、確認せられた患者数は、28年1名、29年12名、30年9名、31年32名、(この後31年度は続いて、11名発生)、計54名が、自己診断名で、中風、ヨイヨイ病、ハイカラ病、気違い、ツッコケ病などといぶかられながら家々の深くに発病していたのであった。

このうち死亡者はすでに17名に達していたのである。」